理不尽との対峙
富士樹海・最深部。
そこはもはや、地球上の景色とは思えなかった。
天を衝くほどの巨木はすべて枯れ果て、黒く変色している。地面はぬかるみ、踏み出すたびにブクブクと紫色の気泡が弾けた。
空間を満たす瘴気は、Aランク領域の比ではない。まるで粘度の高いヘドロの中に全身を沈められているような、圧倒的な不快感と致死性の毒素。
一般の探索者であれば、防毒マスクなどの最高級アーティファクトで完全武装していても、数分で肺が腐り落ちるほどの高濃度魔力瘴気だ。
「……すごいね、ここ」
だが、その死の領域を歩くサクラの足取りは、驚くほど軽かった。
彼女の全身を薄く覆う、黄金色のオーラ。戦神アレスから授かった加護『不屈の魂』が、致死性の瘴気をすべて自動で弾き返しているのだ。毒素も、麻痺も、精神を削り取るような悍ましいプレッシャーすらも、今の彼女の「心」を折ることはできない。
「油断しないで、サクラさん。……空気が、震えてる」
レンは剣の柄を強く握り締めながら、周囲を警戒した。
彼の脳内では、賢神ソフィアの加護『並列思考』が常時フル稼働している。視覚、聴覚、魔力感知。周囲のあらゆる情報が遅延なく処理され、危険度を算出し続けていた。
ズシン、ズシン。
遠くから、いや、大地そのものの底から響くような地鳴りが聞こえ始めた。
【古代龍バハムート】:……来るぞ。小娘の放つ『生者』の光の魔力、そして貴様の強大な魔力。あいつらにとって、これ以上ない極上の餌だからな。
【死神ネクロス】:腐死竜。かつては誇り高き竜だったが、死してなお瘴気に囚われ、破壊衝動のみで動く亡者となった哀れな姿だ。……だが、その戦闘力は生前と変わらん。いや、痛覚がない分、タチが悪いかもしれんな。
【戦神アレス】:さあ、見せてみろ神代レン! 貴様の『知恵』が、S級の暴力にどこまで通用するかを!
地鳴りが、止まった。
直後。
二人の前方を塞いでいた数十本の黒い巨木が、まるで小枝のように「薙ぎ払われた」。
「――――ッ!!」
巻き上がる土と瘴気の突風。
その土煙を切り裂いて現れたのは、見上げるほどの巨体だった。
全長三十メートルは優に超えるであろう、圧倒的な質量。
かつては美しい鱗だったであろう表皮はドロドロに腐り落ち、ところどころから黒ずんだ巨大な骨が剥き出しになっている。
落ち窪んだ眼窩の奥には、憎悪と殺意だけを煮詰めたような「青白い炎」が爛々と燃え盛っていた。
『GYAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ!!!!』
咆哮。
ただ吼えただけ。
それなのに、物理的な衝撃波が発生し、レンとサクラの身体を後方へと吹き飛ばしかけた。
「くっ……! 《ホーリー・ウォール》!」
空中で体勢を立て直したサクラが、即座に光の障壁を展開し、衝撃波を相殺する。
(……デカすぎる。それに、魔力の密度が異常だ)
レンの『未来予測』が、警告音を鳴らし続けていた。
網膜に投影される光の線が、腐死竜の次の動作を予測しようと乱高下する。だが、相手の持つ圧倒的な質量と魔力が、予測の計算式そのものを狂わせていく。
「レンさん! 同調します!!」
サクラが背後からレンの背中に手を触れた。
瞬間、二人の魔力回路が接続される。サクラの視界、彼女が把握した腐死竜の魔力分布、そして光魔法による支援術式。それらすべてのデータが、レンの『並列思考』に流れ込む。
『来るよ、レンさん! 上から!』
「分かってる!」
レンは地面を蹴った。
コンマ一秒後。先ほどまでレンが立っていた場所を、城の城壁のような腐死竜の巨大な尻尾が粉砕した。
直撃すれば、Eランクはおろか、Aランクの重戦士ですら即死する一撃。
だが、レンはその凶悪な質量兵器の軌道を『未来予測』で完全に読み切っていた。
回避と同時に、すでに反撃のモーションに入っている。
(水と、雷……!)
レンの右手に高圧の水流が、左手に黄金の雷が収束する。
『並列思考』が、二つの相反する属性魔法の干渉を完璧に制御し、一つの強大な術式へと編み上げていく。
「《水雷咆》!!」
レンの放った極太の水流が、腐死竜の巨大な胴体に直撃する。水浸しになった腐肉。そこに、サクラの『光』で威力を底上げされた黄金の雷が叩き込まれた。
バチバチバチィィィィッ!!
雷の炸裂音が樹海に響き渡る。水によって導電性を増した雷撃が、腐死竜の全身を駆け巡った。
完璧なタイミング、完璧な属性の組み合わせ。Aランクの魔物であれば、この一撃で炭化して崩れ落ちていただろう。
だが。
『GYURURURURU……』
腐死竜は、鬱陶しい虫を払うかのように首を振っただけだった。
雷撃を受けた部位の腐肉は確かに焦げている。しかし、その奥にある『神話の時代から存在する竜の骨』には、傷一つ付いていなかった。
「……嘘、だろ」
レンの額に、冷たい汗が伝う。
ダメージが通っていないわけではない。だが、相手のHP(生命力)の総量が、桁違いすぎるのだ。バケツ一杯の水を海に投げ込んだような、圧倒的な徒労感。
【賢神ソフィア】:焦るな、少年! 腐死竜の鱗と肉は、ただの鎧に過ぎん。奴らの本質は、胸部で燃える『死霊核』だ。そこを破壊せぬ限り、どれだけ肉を削ごうが動き続けるぞ!
【雷神トール】:だが、その鎧が分厚すぎるな。生半可な火力では、核に届く前に威力が減衰する。
【精霊王シルフィード】:レンくん、逃げながら削って! 正面から打ち合っちゃダメ!
神々のコメントが視界の端を流れる中、腐死竜が再び動いた。
今度は、巨体に似合わぬ異常な速度での突進。
「レンさん、右!」
「くそっ!」
『未来予測』の光の線が、レンの身体が噛み砕かれる未来を提示する。
レンはサクラを抱き抱えるようにして、強引に横へとダイブした。
ゴアァァァァァッ!!
腐死竜の巨大な顎が、二人のいた空間を丸呑みにするように噛み合わさる。空振りの風圧だけで、レンの頬が切り裂かれ血が滲んだ。
(思考を回せ。並列思考、もっと深く……!)
レンは地面を転がりながら体勢を立て直し、脳細胞を極限まで駆動させる。
敵の攻撃パターン、魔力の蓄積速度、地形の起伏、サクラの魔力残量。
すべてを計算し、勝利へのルートを模索する。
だが、何度計算しても、『未来予測』が導き出す結論は一つだった。
――火力不足。
回避し続けることはできる。
だが、決定打がない。このまま長期戦になれば、先に体力と集中力が尽きるのは間違いなく人間である自分たちだ。
「サクラさん。……このままじゃ、ジリ貧だ。何か、一撃で胸の奥の核を撃ち抜く方法を……」
レンがそう言いかけた、その時だった。
腐死竜の動きが、ピタリと止まった。
いや、止まったのではない。『溜めて』いるのだ。
大きく開かれた顎の奥。そこに、周囲の空間を歪ませるほどの、超高濃度の暗黒の魔力が急速に収束していく。
「……ッ!!」
レンの『未来予測』が、突如として視界を「真っ赤」に染め上げた。
網膜に投影される光の線が、無数に分岐し、そのすべてが『死』という一つの結末を告げていた。
回避不能。
防御不能。
S級魔物による、広域殲滅攻撃。
――『腐死竜の息吹』。
「レンさん……っ!」
サクラもその絶望的な魔力の膨張を感じ取り、顔面を蒼白にする。
逃げ場はない。数秒後には、この一帯すべてが消し飛ぶ。
並列思考が悲鳴を上げる中、レンは決断した。
「……サクラさん、僕の背中に隠れて! ありったけの防壁を、僕に重ねてくれ!」
「え……? でも、あんなの防ぎきれるわけが……!」
「防ぐんじゃない。……撃ち合う!!」
レンは逃げることをやめ、大きく両足を開いて大地を踏み締めた。
剣を鞘に納め、両手を前方に突き出す。
右手に、限界まで圧縮した『炎』。
左手に、極限まで高めた『雷』。
そして、胸の奥底から引き摺り出す、第三の属性『水』。
すべてを一点に集束させ、あのブレスと正面から衝突させる。相殺できなければ、即死。
狂気の沙汰だった。だが、それ以外に生き残る「未来」は存在しない。
『GYAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ!!!!』
腐死竜の顎から、漆黒の極太の閃光が放たれた。
世界が、闇に飲み込まれる――。




