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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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15/15

第15話 お返しは、二人で作る

 水曜日の帰り、駅のベンチで紙袋を渡した。


「弁当のお返しだ」


 小春は袋を受け取り、中をのぞいた。


 透明な袋に、クッキーが八枚入っている。どれも、焼く前は丸かった。


「……クッキー?」

「クッキーだ」

「直季くんが焼いたの?」

「昨日の夜に」


 小春は袋を目の高さに持ち上げた。


 オーブンの中で、生地は思っていたよりずっと横に広がった。隣同士がくっつく寸前で止まり、縁が薄く、真ん中だけが分厚い。ひとつひとつ形が違っていて、どれも丸ではなかった。


 料理なら、だいたいの加減は分かる。卵焼きも味噌汁も、目と鼻で決められる。菓子は違った。計量カップの目盛りどおりに作ったのに、生地が言うことを聞かなかった。


「……強そう」

「強そうか」

「岩みたい。かっこいい岩」

「味は大丈夫だ。母さんにも食べてもらった」

「お母さん、何て?」

「『形はともかく』」

「ともかくなんだ」


 小春は袋を開けて、一番縁の広がった一枚を選んだ。わざわざそれを選ぶのが小春らしかった。


 かじると、薄い縁がぱきっと鳴った。


「……おいしい」

「本当か」

「ほんと。バターの味がちゃんとする。縁のとこ、ちょっと香ばしい。真ん中はやわらかい」


 小春は一枚を食べ終えるまで、きちんと感想を言った。弁当の日に俺がやらされたのと同じ順番だった。


「甘さは?」

「ちょうどいい。私には、もうちょっと甘くてもいいけど」

「次はそうする」

「次ね」


 小春は二枚目を取り出しかけて、手を止めた。


「ねえ、次は一緒に作らない?」

「一緒に」

「直季くんがどうやってこれを岩にしたのか、見たい」

「岩にしたかったわけじゃない」

「知ってる。だから見たいの」


 それから小春は、少しだけ声を落とした。


「直季くんちで、いい? うちのオーブン、今ちょっと調子悪くて」

「うちでいいなら」

「土曜日は?」

「空いてる」

「じゃあ土曜日」


 小春は袋の口を丁寧に折り、二枚目は食べずに鞄へしまった。


「残りは、うちで食べる。お母さんに、岩を見せる」

「見せなくていい」

「見せる」


*


 土曜日の昼過ぎ、小春は駅から歩いてきた。


 玄関の前に立った小春は、紙袋を両手で持っていた。薄力粉とバターと、星の形の抜き型が入っているらしい。


「お邪魔します」


 小春が言うのと同時に、廊下の奥から母が出てきた。いつもの花柄のエプロンをしていた。


 俺は母と小春の間に立った。


 紹介の言葉は、昨日の夜から決めてあった。決めてあったはずだった。


「母さん。こちら、鳴瀬小春さん。現在、お付き合いをさせていただいている方です」


 玄関が静かになった。


 母は二回まばたきをした。それから、小春の方を向いた。


「いらっしゃい。直季がいつもお世話になってます」

「こちらこそ。今日は台所、お借りします」


 小春はきちんと頭を下げた。母は「どうぞどうぞ」と言いながら、俺の顔を一度だけ見て、居間へ戻っていった。何か言いたそうだった。言わないでくれたのだと思う。


 靴を脱いでいる小春の肩が、小刻みに揺れていた。


「……小春」

「なに」

「笑ってるだろう」

「笑ってない」


 台所に入ったところで、小春は袋を調理台に置き、俺の方を向いた。


「現在、お付き合いをさせていただいている鳴瀬です」

「やめてくれ」

「させていただいてる、って」

「緊張したんだ」

「直季くんでも緊張するんだ」

「する」


 元の人生でも、母に妻を紹介したことはある。そのときもたぶん、似たようなことを言った。あのときから、少しも上手くなっていなかった。


「普通に、彼女って言えばいいのに」

「次はそうする」

「次もあるんだ」


 小春はそう言って、腕まくりをした。


*


 台所に入ってしまうと、体の方が先に動いた。


 バターを室温に戻しているあいだに、ボウルと泡立て器を出す。小春がふるいを探して棚を見回したので、下の引き出しから出して渡した。小春が振り向く前に一歩下がると、彼女の肘はちょうど空いたところへ来た。


 同じ台所に、二人で立つ。体はそれを覚えていた。


「……直季くん、手際いいね」

「自分の家だからな」

「それだけ?」

「それだけだ」


 小春はふるいを受け取りながら、少しだけ疑うような目をした。


 生地は小春が混ぜた。砂糖は、前回より少しだけ多くした。冷蔵庫で休ませているあいだに、俺は使った道具を洗い、小春は母が貸してくれた古い抜き型の箱を開けた。


 丸と、星と、ハートと、なぜか魚があった。


「魚」

「魚だな」

「なんで魚?」

「知らない。昔からある」


 生地を伸ばして、型を抜いた。


 小春は星を抜き、俺は魚を抜いた。小春がハートを抜くと、俺は丸を抜いた。抜いたものを天板に並べるうちに、二人とも夢中になった。


 余白のことを、どちらも考えていなかった。


「……ちょっと、多い?」


 小春がそう言ったときには、天板の上はほとんど隙間がなかった。星の角と魚の尾が、ほんの少しのところで向かい合っている。


「前回、横に広がったんだよね」

「広がった」


 二人で、並べたものを少しずつずらした。星を天板の端へ寄せ、魚を斜めにし、ハートの向きを変える。どの間にも、指一本分くらいの隙間ができた。


「これくらいなら、大丈夫だよね」

「前回よりは空いてる」


 前回は、丸を行儀よく並べただけだった。今回は形がばらばらで、どこがどれだけ広がるのか、見当がつかなかった。砂糖を少し多くしたことも、そのときは二人とも忘れていた。


*


 オーブンが鳴った。


 ミトンをはめて扉を開けると、甘い匂いが台所いっぱいに広がった。天板を引き出し、両手で持ったまま、調理台の上に置いた鍋敷きまで運ぶ。


「……え」


 覗き込んだ小春が、声を震わせた。


 全部、くっついていた。


 星は隣の魚と手をつなぎ、魚の尾はハートの縁に食い込んでいた。丸は丸のまま、左右から押されて少しだけ楕円になっている。天板一枚が、ほとんど一枚の大きな地図になっていた。


「くっついてる」

「くっついてるな」

「直季くんの魚が、私の星を食べてる」

「小春の星が、魚に寄ってきたんだ」


 小春は調理台に手をついて笑った。笑いすぎて、ミトンを片方落とした。


 俺は包丁立てから、刃の薄い包丁を一本抜いた。


「どうするの」

「温かいうちに切る。冷めると割れる」

「切れるの?」

「たぶん」


 星と魚の境目に、刃を当てた。


 どこで切るかが問題だった。星の角を残せば魚の尾が欠ける。魚の尾を残せば星が四角になる。ちょうど二つの間に、どちらも少しずつ譲れる線がある。


「……楽しそうだね」

「楽しい」

「顔が、メニュー見てるときと同じ」


 刃を下ろした。星も魚も、少しずつ欠けて、それでもちゃんと星と魚になった。


「おお」


 小春が小さく拍手した。


 次はハートと丸だった。ハートのくぼみに丸が入り込んでいて、こちらは難しかった。俺がしばらく角度を考えていると、小春が横からフォークを差し出してきた。


「これで押さえたら?」

「助かる」


 小春がフォークで丸を押さえ、俺がハートを切り離した。丸は無事だった。ハートは少しだけ、くぼみが浅くなった。


「ハート、ちょっと元気なくなった」

「平らになっただけだ」

「それを元気がないって言うの」


*


 切り分けたクッキーを網に移し、二人で並んで食べた。


 焼き加減が、場所によって違っていた。天板の端の方は茶色く焼けていて、真ん中の方は白っぽい。


「私、白い方が好き。やわらかいの」

「俺は端の方がいい。茶色いとこ」

「卵焼きも焦げたとこが好きって言ってた」

「言った」

「じゃあ、茶色いのは全部直季くんの」


 小春は網の上から、茶色いものだけを選んで俺の方へ寄せた。白いものは自分の方へ。網の上が、きれいに二色に分かれた。


「ちょうどいいね」

「ちょうどいいな」


 居間から、母の「いい匂いね」という声がした。小春が慌てて、白いのを三枚皿に取り分けた。


「お母さんに、持っていく」

「俺が行く」

「私が行く。紹介のお礼」

「何のお礼だ」


 小春は皿を持って居間へ行き、すぐに戻ってきた。母と何を話したのかは教えてくれなかった。ただ、戻ってきた小春の口元が、まだ少し笑っていた。


*


 片付けは、ほとんど俺がやった。


 ボウルを洗い、天板を拭き、抜き型を箱に戻す。小春は拭いた道具を受け取って、言われる前に元の棚へしまっていた。一度しまう場所を見ただけで、覚えたらしかった。


 最後の型を箱に戻したとき、小春が網の上から一枚を取った。


 星だった。俺の魚に角を一つ取られた、四つ角の星。


「はい」

「ん」

「これ、私が抜いたやつ」


 小春はそれを、俺の手のひらに載せた。


「一番かっこ悪いの、あげる。角、一個ないし」


 からかうような顔だった。俺が何か言い返すのを待っている顔だった。


 俺は手のひらの星を見た。白っぽい方の焼き色だった。角が一つ足りない。小春が抜いて、小春が天板に並べて、俺の魚に食べられかけた星だった。


「ありがとう」


 本当に嬉しかったので、そのまま言った。


「小春が抜いたやつか。大事に食べる」


 小春は口を開けたまま、止まった。


 それから、目をそらした。耳の先が、クッキーの端より赤かった。


「……普通に、食べて」

「普通に食べる。大事に」

「大事にしなくていいから」


 角の足りない星をかじると、やわらかかった。小春の好きな焼き加減だった。


「うまい」

「……知ってる」


 小春はそう言って、残っていた白い丸を一枚、自分の口に押し込んだ。


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