大姉と姉さん
ここ遊郭を自分の思うままに動かそうとする者と
此処遊郭に居る女達を
ここで叶う限りの幸せへと繋がれるようにと動かしたいと願う者
あからさまに異なる、その二者が確実に存在していた。自分の思うままに動かそうとする者にとって、ここにいる女達は自分の運命を整えるためだけに
思うままに動かすためだけに集められて来た ‘もの’ としか思っていない。
ここに居る女達に、出来る限りの幸せをみせてやりたいと願う者は平等性の中
いつか自分が女達のために動く、そんな想いを静かに温めている。
動きが許される その時を見計らっているものだ。
ここへ来てから、どれくらい時が経ったころだったか。
私は前を歩く姉さんに
「姉さん、あの時は申し訳なかった」
と詫びた事がある。あの時とは、私がここへ初めて来た日の事だ。
この時の罪悪感みたいなものを、私はずっと持っていたんだ。
姉さんの腕に食らいついたこと。
姉さんの肉体を傷つけてしまい兼ねなかったこと。
あの時曝け出した感情の詫びだ。先を歩く姉さんは足を止めたが、頭を下げる私を振り返り見る事はなかった。
ただ背中で答える様に
「気にするな。幼かろうが年かさ上だろうが、此処へ来るものは皆同じ反応をするもんだ。」
そう言った。
「あの時の事」
私は続けた。
「姉さんに詫びないと 自分が許せねえままになっちまう」
姉さんは私の方を振り返った。
「久子 あんたは、ちと 自分に目をかけてやらないと。自分で自分を殺す事になりかねないよ。」
そう言って蝋燭の揺らぎの様な笑みを一瞬見せた。寄りかかりはしない、だけど姉さんは信頼できる女だった。私が持つ姉さんに対する信頼というものは、言葉や形で成り立ってるものじゃない。
無言の中で感じた
‘お互い’によって
無いのに在るものとして成り立つもの
見えない信頼っていうものは、そうそう現れやしない。
そうそう現れやしない分な、現れたなら、ちょっとやそっとの事じゃあ
消えやしねえもんなんだ。何か他の形に邪魔されることもない。何かの姿に壊されることもない。姉さんにはそれが在るんだ
だけど
大姉は違う。
大姉という者は、今この遊郭を取り仕切っている女だ。姉さんが大姉の居る場所を
いつか欲しいと思っていることは、私にでも分かった。
姉さんのその欲求の根底には在るものは、大姉が持っているものとは違う。
姉さんは喋りはしねえけど
ここへと
連れてこられて来た女達への想いがある。
自分のためじゃねえ。
姉さんがここを仕切り、取る。
いつかな、そうなることを心の中でいつも私は願ってた。
数か月前、私は床師に抱かれた。
欲しいものだけを手にする大姉と床師は、仲の良い同志のようなものだった。
根底に在るものが同じだ。女も金も動かす。
全て自分達のためにと権力を振りかざす者同士だ。
異なった性を持つ二人はな
異なるものを持ちながら根底は一緒だったんだ。
女の心に沿う?
無い
そんなもん両者には無い。
人間の所業とは思えない心の在り方は、女衒のそれと似通っているもんだ。
ただ
身にまとう蓑は女衒とは違う。優しさのように見せる蓑は
してあげている
という恩義を相手に纏わせるもんだ。
私を床師に渡したあの日から姉さんは変わった。静の中で動を見るようにしていた姉さんに、何か違うものが加わったように見えた。
姉さんは多くを語らない。姉さんは余計なものを吐かねえ。
確実性がないもとに、何かを口先で話すようなことはしねえ。
だけれども
姉さんは内側に多くの想いを、誰にも気づかれず保持しているに違いなかった。
姉さんの静寂さには
今は黙らされている 真 があるんだ。
姉さんと過ごす時間が無くなった私はそんなことを考えることが増えていた。
そんな時
「久子、ちょっと、ねえ、あんた知っている?姉さん、男を漁ってるっていう噂さ」
一人の女が私に耳打ちした。
私は驚いたが
「聞かねえな」
そう一言だけ答えた。
姉さんが男を漁る
噂ってもんは全く無けりゃあ上がっては来ないものだ。
上がってくるなら、違いは在ったとしても、全く無いものとは言い切れない。
噂のことを姉さんに直接聞くことはなかった。
だけど
姉さんが男と接触することが段違いに増えていたことは確かだった。
いい客悪い客、そんなもの気にしちゃいねえ様に見えた。
姉さんの噂は膨れていくばかりだった。
男漁りの女 化け女
張られた噂は本当の様に思えちまう。黙る姉さんとは裏腹に歩き回る噂は、私の持つ姉さんへの信頼をも揺らそうとした。
在る夜
姉さんは私を抱いた床師と部屋に入っていった。
腕を絡ませ、流し目で男の顔を見上げる姉さんを私はこの目で見ちまった。
嬉しそうな姉さん 恥ずかしそうにはにかむ姉さん
可愛い素振りをしてみせている姉さん
私の知らない姉さんだった。
姉さんは、あの男を好んで自ら選らんだのか。
私の胸が大きく一つ鼓動を打った。
姉さん
どうしたっていうのさ。床師と私が居る部屋に来た時、
久子 ごめんな
そう放った あの時の姉さんの言葉は、なんだったっていうんだ。
私は顔を背けた。
それと同時に自分の心から目を逸らした。
信頼が揺らぐ。信じている唯一のものが、目の前で起きていることに入れ替わろうとする。私はそんな狭間に置かれた。その狭間に置かれたまま、月日は経っていった。
ある日それは突然起きた。
「ちょっと ちょっと あれ見てみい」
女が叫ぶ。
「大姉だ」
格子に集まった女達は外へと目を向けている。私も外を覗く。
大姉が男達によって、この遊郭から追い出されている。何人もの男達に引きずられ
大門の外へと肌着一枚で放り出された。肌着一枚になったとしても、好き勝手食ってた女の肉体には儚さがない。転がる肉体はいずれ止まった。
通りゆく人々が肌着一枚で座り込む女を避けて通る。男達は交互に女に罵声を浴びせ嘲笑っている。
何が起きているのか
今
ここで何が起きているのか。
女達は騒いだ。煽る女もいる。目を覆う女もいる。
私の胸が慌ただしく駆け回る。私は目を凝らした。騒ぎ立てる男達の群れのずっと後ろに姉さんが居た。
以前大姉がしていたように煙草を燻らせながら、黙って男達の様子を眺めている。
声は出さねえ。自分の手も出さねえ。動きもしねえ。
ただ眺めているだけだ
微動だにしない姉さんから吐き出される煙は、ゆらりと上がる。
姉さんはただ眺めているだけだ。それだけで男達が動いてる。駒の様に動いている。
姉さん
私には全て分かった。大姉は今その座から引き下ろされ、姉さんが今その座へ上がったんだ。姉さんが手がけた水面下の動きが、願いが、今形になって現れた。
大姉が終わった。
門の外に放り出された大姉は哀れなものだった。ここを追い出されるなんて考え
及ばなかっただろう。手にかけてやった女に追い出されるなんてな。
「恩知らず」
そう大姉の口元が動いたように見えた。
化かし合いは、もうずっと昔から始まっていたんだ。当然の様にそこに居座っていた
女の最後の姿が今までの行いを体現している様に見えた。その様は
ここの大門を潜り中へ入る、覚悟を決めた娘たちの姿とは遥かに真逆だった。
殺されねえだけましだ
海に沈められねえだけましだ
姉さん
全く
姉さんらしい
やり口だ
笑みが出てしまった。
姉さんは男を漁っていたんじゃねえ。男を操るために手名付けていたんだ。
女という自分を最終手段として、その座へのし上がるために最大限に用いた。
自分のためじゃねえ
他の女たちのために差し出した 女 というものだ。最大の自己犠牲だ。そして
最大の救済だ。その座への のし上がりは姉さんの肉体が起こしたこと。
最大限に活かしたこと。私の目は釘で刺された様に、その光景に留まっていた。
姉さんが
私にいつか誓ったように
どうしてもここへ来なければならない娘達が
この場所で
出来る限り
幸せに生きられるようにするために、そうしたことだ。
姉さんは、裏切らねえ
私は唇を嚙み締めた。胸の中に在る感情の配置が嬉しさへと変わった。姉さんの強さをこの目で見ることが出来た。本物の女が持つ本物の強さ。
こんな場所に放り込まれた女達にも味方がいるんだ。見えない様にして存在する暗躍者。影の味方だ。
遠目に見える姉さんは煙を吐き出した。そして徐に、こちらに顔を向けた。
私と視線が合ったように思える。
すっと細めたその瞳からは
‘なあ、久子。私はあんたを悪い様にはしない、そう確かにあの時言ったよな‘
無言の中で交わされた過去の契りを私との間で再確認している様に見えた。
私は大きく頷いた。
それを確認すると姉さんは、口元にも笑みを浮かべ私から視線を外した。
そして再び何事も無かったかのように、壁に背を委ね男達の方へと目を向けた。
姉さんの瞳が瞬時冷えたように見えた。
それなのに
姉さんの口元から吐き出された煙は、ころころと笑っている様に揺らいで
上へ上へあがっていった。
‘見ておき、あんた達。悪っていうものはこの世に存在しない。
けどな、悪染みたものっていうものは存在する。弱い立場に置かれたからって物言えず
傷つけられるものが、一生傷つけられる側で存在し続ける
なんていうことは・・なあ、許されねえこと。それがな、いくらこの場所遊郭という 理不尽な場所であったとしてもな‘
姉さんの心の声が聞こえた気がした。騒いでいた女たちは皆黙っていた。
流すような声。煙のような声。
始まった。
姉さんの時代が今
吉原遊郭という
この地点にて始まりを迎えたのだ。




