海の鼓動
居るのに居ない
本当は居ない
でも
本当は 居る
嗚咽を抑え込む整の袖が風で揺れる。
なのに
私の体を 私の着物を 揺らすことはない。
私だけを無視する様に通り抜けていく。
感触の無い 冷たさを
以前感じたことがある 冷たさ として
思い出そうとすることが
今の自分を 直視させる。
風が見せる整への接し方
風が見せる私への接し方
その違いは
ねえ 本当に それで よかったの?
生を自ら終わらせた
私に
問いかけているように思えてならなかった。
罪悪感が疼く。
私は唇を強く結んだ。
私は ここに居る
そう思っても
私は 風を受け止められない。
風は私にぶつからない。
誰からも認知されていない私は
肉体の残りものを僅かに含有した
煙の様な存在なのだと
認めざるを得なくなる。
死ぬということは
何も無くなることだと思っていた
持っている肉体はもちろんのこと
持っている記憶
持っている感情
持っていた 行き場の無い悲しみも
無くなるはずだった
床に顔をこすり付けていた
あのお父の姿
どうかどうかと 懇願していた
あのお母の顔
振りほどいた妹の小さな手
遊郭の冷たい床
姉さんが吐き出した煙
腹の上に撒かれた 赤ん坊の可能性も
ねっちゃん
尊子の声
尊子を抱いた
あの
安治の姿
受け取ることが出来なかった
整の優しさも 無くなるはずだった
でも違う
無くならない
整の優しさは
更に 私の目に映る
安治への想いだって
誰かを好く身分じゃない
愛してはいけない
抵抗も消えない
もしも
後の世に 安治さんと私が出会うことが
在るとするならば
その時は
やすじ と名乗ってね
何も
何も
終わっちゃいねえ
私は頭を強く振った。
無い存在という私は
在った私が持ったもの 全てを
しっかりと
引き継いでいる
遅すぎる気づきは
生に対する浅はかさを暴露し
そして
死に対する無責任さを 知らしめる。
整 ごめんな
私は一つ呟いた。
整はそっと私の肉体を
両腕に抱きかかえた。
そして
立ち上がった。
私の腕は
だらん と落ちた。
砂浜へ
もう一度降りたがっているように見えた。
乾いていない着物からは
ぽとり ぽとりと 涙の様に雫が落ちている。
整は抱き抱えた
私の顔に自分の顔を近づけた。
流れる涙を私
の顔で止めようとしている様に見える。
「久ちゃん」
整が震える声で私の名を呼んだ。
泣きはらしたその顔は
生の世界における底辺を私に見せた。
きっと
整が私と生活していた中で
幾度も私に見せた背中の反対側には
私には 見えていなかった
見ようとしなかった
絶望があったのかもしれない。
ふと思った。
「久ちゃん 帰ろう」
整は消えそうな声で言った。
返事のない私の肉体は
ただ整に抱かれているだけだった。
整は私からの返事を求めていない。
期待もしていない。
生き返りも望んでいない。
整は私に
自分を押し付けることはなかった。
整 いいのか?
私は 整と一緒に帰れる身分なのか?
居るのに居ない私は
自分の胸の中で言葉を吐く。
整は私の肉体を大切そうに
ぎゅっと 強く 一つ抱きしめた。
その抱きしめが
自分のしてしまったことへの詫びにみえる。
ごめんよ
終わった肉体というものに対し
どれだけのことを してやれるのか
どんな
罰でも 何でも受ける
だから
久ちゃん
一緒に
帰ろう
整は私に許しを願っていない。
ただ
自分が
今できる最大限のことを
久ちゃんに
してあげたい
整の胸の中が見えた気がした。
そして
整は静かに元来た砂浜を歩き始めた。
重力を持たない私の体から水滴が
ぽつん ぽつん と砂浜へ落ちる。
その同量分 砂が黒く固まる。
点々と間隔を持ちながら 水滴は落ち続けていた。
それはまるで
ついておいで
そう私を誘っているように思えた。
置き去りにした肉体を
私が見失わないように
今の私と終わった肉体が
離れ離れにならないように
ついてきな
なんて
とんでもないな
滴る水滴を都合よく
自分の味方にしようと試みてやがる
だから
辞めた
都合よく捉えること
綺麗ごとに身を置くこと
それが一度でも
うまく行った試しはなかった
生前の感覚は
捨てた感情は
未だ しっかりと 肉体無い私に根付いていた。
前を歩く整の後ろについて 私は歩き始めた。
整の背中だけが私の目に映る。
私を抱いているため 少し前かがみに
そして肩を小さく畳んでいる。
その姿は
この間見た
大きなカラスが羽を閉じた姿と重なった。
あのカラス
今も 元気かな
考えた。
大きな背中を眺めながら歩いた。
いつだって
私は真正面から整と向き合っていなかった。
鼻をすする音が
微かに背中越しに聴こえてくる。
こんな女のために
こんなに泣く男がいる
そう思った時
整は砂浜から出た。
私もそのまま後へ続こうとした。
でも
私の足は砂浜から動かない。
まるで砂と私の足裏が引っ付いたように
一歩も離れない。
私は何度か
力いっぱい足を前へ 前へと
進ませようとしてみた。
でも
動けない、
整についていこうと思っても
足は動こうとしない。
整の背中が
どんどん どんどん
私から遠ざかっていく。
待って
離れていく整の背中を見つめながら
私は言った。
整には聞こえない。
整の背中は小さくなっていく。
久ちゃん
一緒に帰ろう
整の言葉が私の中で 空しく響き渡る。
どんなに整の後を追おうとしても
どんなに 頭の中で
整の言葉が繰り返されても
整と一緒に
帰れない
この場所から出られない
この場所が
私を 離さない
いつしか
整の姿は私の視界から消えた。
私は長く続く
誰も居ない砂利道を眺めていた。
私の背後では波の音が
絶え間なく聞こえている。
海さえ 生きている
私は海の方を向いた。
誰一人居なくなった 海が 私に生をみせつける。
絶え間ない波の行き来は
以前
私が持っていた鼓動を彷彿させる。
無い鼓動
私は海へと引き寄せられていく。
砂浜は
私の歩みを阻まない。
もう一度
海へ入ろうか
入って死んだ この海へ もう一度
無い肉体で
入ってしまおうか
死への想いが
海の鼓動と重なるように
幾度も押し寄せる。
死んだら自由になると思っていた
生きていた頃の事は
何一つ 私から無くなって
もしかしたら
好きな場所に 好きな時に
もしかしたら
生きている時には 行けなかった場所に
会いたくても会えなかった 人に 会いに行ける
かもしれない
もしかしたら
もしかしたら
好き
そう想いを伝えられるかもしれない
そう
小さく思っていた。
馬鹿だった
期待は持たないでいたのに
あんなに 期待は持たないって
誓ったってつうのに
こんなところに
持ってはいけない期待が 隠れていたんだ
波は絶え間なく 生きていた。
その絶え間なさが
私の胸に鼓動の代わりとして
罪悪感 後悔 自責の念として
幾度も幾度も
打ち付けていた。




