整と久子
海の匂いがした。
無いようにして吹く風は微かな海を運ぶ。
顔を上げ海を一瞬探した自分に気付く。
「ここから海は見えねえのに」
海が突いた鼻先を下に向けた。
この場所は海から幾分も離れていないらしい。だから時折潮の匂いが届く。
何ら知らん顔で 普通の風に紛れ込む。
太陽が照る夏前 特に長雨が続く前に海の匂いは運ばれるみたいだ。
海風が届く際 海鳴りも聞こえることもある。
見つからねえように 抜け道をかき分けてくる。
海鳴りは細っこい音をしてる。口先を尖らせて口笛を吹くのに似てる。
風はそうやって吹いているのかもしれねえな。
口先尖らせて
ふうってな。
もう一度顔を上げる。
風は私の鼻頭をかすめていった。
海が近いと聞いただけで海へ足を運んだことは無かった。
この場所は 整が連れて来てくれた場所だ。
遊郭大門を抜け この地を踏んだ時
遊郭から離れ
時の経過と共に 自由という身の軽さを実感していくのだろう
そう思っていた。
大門の向こうに私は 私を 置いてきた。
あの時橋を渡ったのは 私であって
歯を食いしばって
「涙粒を冷たい床に落としやしない」
そう生きてきていた私ではなかったはずだ。
だってな
あの時橋の向こうを振り返った際
向こう側には 確かに 私に似せた残骨が首を垂れていた。
一緒に行くか
なんて尋ねることが出来ただろうか。
遊郭から出してもらえるのは 一体であって 二体ではない。
整は倍銭を払うはめになる。見える視えねえ関係ねえ。
確かにな
確かにな
一体しか出られなかったんだ。
それは
遊郭へ私が連れてこられた時の様に
大門前に置いていかなければならなかった時と同じだ。
行きも帰りも 同じだった。
整は 多くを語ることのない寡黙な男だ。
あからさまではないが
気づかないように差し出す優しさが 日々にいくつも在った。
気づいても
私はそれを敢えて口にすることは無かった。
私を自由に泳がせてくれる。
簪を創る整の丸めた大きな背中は 私をいつも見守ってくれていた。
外へ出れば道行く人と会い挨拶を交わす。
格子に邪魔されることなく
一羽の鳥が視界から見えなくなるまで 眺めていることも出来る。
砂埃を自分の足が立たせていることに気付く。
夜が静かだと知る。
そうだった そうだった
この静けさは星がこの地に 迫り来る時の静けさだったな
幼い頃感じた夜を思い出す。
瞼を閉じる。
星たちが瞼の裏一面に現れた。
寝なさいよ
そう蝋燭が消されるのが夜で
蝋燭が灯されるは遊郭だけのことだったんだ。
にぎやかさが増すのが夜
静けさが帰るのが
朝
逆だったな
真っ向から逆だな
笑っちまった。
この場所での当然という日々は
忘れていた全てを 私に一つ一つ思い出させようとする。
思い出せよ
そう記憶の組み直しを促され
生き直せよ
そう背を押されているように感じる。
その好意をありがたいと思いつつ 肩に責任がのしかかる。
そんな大そうなことは
胸に収まりきらねえな。
整は毎夜
私が黙って 整の寝床へと入り込んでくることを 待っていた。
来いとは言わない。
強引に引っ張るでもない。
糸を手繰り寄せるように近づける事もない。
自分から私へ近づいてくることもない。
来るか来ないか
久ちゃんの 好きにしたらいい
その選択を私に任せていた 。
もしかしたら
任せるふりをして整は怖かったのかもしれねえな
来いと言って 私の嫌がる素振りを見てしまうこと
手を引っ張って 離れようとする私の身体を感じること
手繰り寄せても 延々と近づけないこと
見たくなかっただけなのかもしれない
整らしい
それであって
整の気遣いだったのかもしれねえ
整の優しさだったのかもしれねえ
だけどな
人が 手招きをしたってな
おいでって言っても 寄れねえことってあるんだ
好きにしたらいい
そうやって
私に選ばせることをさせないで欲しかった。
整のその優しさが私には怖くなる。
整の差し出す優しさに 飛び込めない自分が 嫌になる。
全く知らねえもんに自ら飛びつくことは
動くままの心臓を自ら抜き出すことに等しい。
しなければならない
させられてきた 人生は 自らの舵をきるのが
死ぬほど怖い。
力づくでも 片腕もぎ取ってでも
用意した
居場所に私を連れ込んで欲しかった のかもしれねえな。
私が
腕に喰らいついて 抵抗し 離れようとしても
ここだ
お前の場所はここだって
力づくでも引き込んでほしかったのかもしれないな。
全く
他責もいいところだ。
整が そんな男ではないと知っていながら 私はそれを願っている。
それで
願っているふりしながら
私の不出来さを
しない この男のせいにしようとしている。
罪をきせようとする。
遊郭から出たにも関わらず その自由をものに出来ねえのは
他の誰のせいでもない
自分のせいだ
ものにするか
ものにしねえのか
自分の持ち物 心 次第だ
受け取った自由に私は囚われていた。
自由を手にした時から
自由というものが何であるのか
どこに在るのか分から 無くなっちまったみたいだった。
狐格子の中 微かに感じる
掴めるはずのないという自由
その方が私にとっての 自由だったのかもしれない
自分に見合った幸せは あれ だったのかもしれない
そう思い
即座に撤回を試みる。
へどろ の味を覚えている女は
綺麗な水を自由に飲めるとしても 慣れた へどろ の味に戻るもんだ
まさか自分が
へどろを忘れられない
そんな女の一人だとは思いもしなかった。
私は新たな地にてゆっくりと
自分というものを思い出していくようになっていった。
確実に存在していた
そうだった
という自分を思い出す。
そして
言い聞かせる。
私は遊郭の女じゃない。
もう あの時の女じゃないんだ。
ある明け方雨が降り始めた。
地面をたたく音に目が覚めた。
寝ている整を起さないように 私は外へ出た。
一度
身体で雨を感じてみたかった。
外へ出ると
着物の袖を目いっぱい捲り上げる。
雨があたる。顔を空へと向ける。
雨があたる。左の瞼に 右の頬へ 休むことなく雨があたる。
両手を広げた。雨は容赦なく私を突っつく。
雨は私を子供の頃に戻す。
跳ねて遊ぶようにくるくると私は回った。
雨も回る。
誰も見ちゃいねえ
鼻下に垂れ下がった雨水を右手で拭く。
遊郭に居た時
雨に触れられるのは格子から伸ばせる両腕だけだったな
格子から精一杯腕を伸ばしてさ
男誘いのための腕伸ばしじゃねえよ
私は
それはしない
私は濡れた右腕を拭いながら思い出していた。
あれは今日みたいに 雨が降り出した朝だった。
雨降りの季節だっていうのに 久しく雨は降らなかったんだ。
だから
雨が落ちてきた時 物珍しい気持ちになっちまって
久しぶりの雨降りを格子越しに眺めた。
涙粒みたいに ぽろんぽろん と落ちてくる。
乾ききっていた地は
慌てて涙粒を吸い取る。
来いよと受け止め
待っていましたと吸い取る。
雨の勢いが強まると
思わず格子に顔をひっつけて 空を見上げてしまった。
誰の落とした涙か
特定したくなっちまうんだ
ここからじゃあ
限られた範囲の空しか見えねえ。
でもその範囲内が泣いている。
私に見られた空はもっともっと泣き出した。
ああ
嫌になっちまうな
ここから安堵は差し出せやしねえ
落ちる雨が土を叩く。土埃が黙る。
土の匂いが上がってくると同時に雨は その勢いを強めた。
物言うことが許されないほど ざあざあと音を立てた。
溜まり雨は屋根から筋になって 降りては 降りては を繰り返す。
久しぶりの大泣きだ
嫌いじゃねえ
興味を引くほどの泣きっぷりは
心地いい
誰も起きてない今
雨音が
私の代わりに泣いてくれているのかもしれない
都合のいい錯覚が私を包む。
雨音の中で感じる静寂はな
誰にも破られねえ
膜に包まれているような 安堵を持たせる
お母の腹ん中にいるみたいなんだろな
格子から右手を伸ばす。雨が降れる。
思い思いのまま私に触れる。
触れられるだけ触れる。
着物の袖をずっとたくし上げた。そして再び格子の外へ伸ばした。
あちこちが濡れ滲む。弾けては滲む。
あんな上から落ちてきてるっつうのに
私の腕を傷つけやしない
私は空を見上げた。
限りなく優しいんだな
私は目を閉じ 私の肌を伝う雨雨を感じた。
似てる
頬を伝う 涙みてえだ
私は思わず左手で右手の雨を拭っちまった。
雨を涙だ だって思っちまった。
嘘じゃねえ
空から降っている雨だっていうのに
泪だって思っちまったんだ
もう一度空を見上げ思う。
あんな空から落っこちてきたって 誰も傷つけやしない。
優しく扱われるものが居るということは
優しく扱うものが居るということだ。
この相互の在り方を忘れちゃならねえ
この雨にだったら
この身も この精神も預けられる
そこに
損得も 利害も 何も存在していないもんな
痛くもしない
跪かなくても 頼み込まなくても
傷をつけやしねえ
格子の向こうへと
突き出された両腕はそのままにしていた。
どうせ
まだ
誰も起きやしねえ
格子を飛び越え
勝手に入り込んでくる雨に目配せを送った。
今私は全身で雨を感じている。
好きなだけ感じている。
濡れた左腕を拭った。拭ってもすぐに雨は居場所を見つける。
そこに居る。
また拭う。拭われる。居場所を見つける。
そこに居る。
雨は どんな場所に落ちたとしても 馴染むんだな
私の身体が居場所になる。
私の身体に馴染む雨。
私は広がる鼠色の空を見上げた。
ここでの日々は そうやって静かに過ぎていった。
「久ちゃん 海行くか?」
この場所へ来てすぐ 整は私にそう尋ねた。
初めて整がそう尋ねた時
整は私の目をまっすぐ見ていた。柔らかい期待によって張られた膜を通して
整の瞳は私達のこれからをみているのが分かった。
私は整の目から自分の目を逸らした。
私のには 私達のこれからを映す準備が整っていなかったからだ。
同じものをみていない
同じものをみようとしていない
私の中の申し訳なさは 整の真っ直ぐな瞳の見据えを嫌がった。
言葉に詰まる私を整は 黙って見つめていた。
急かすことも 責めることもない。
答えを現わさない私を不憫に思ったのか
そうか と納得するように ただ大きく頷くと
その話題は私達の前から消えた。
その後も整は私を海へと誘った。
二度三度と誘いの回数が増すたびに 整は私の方を向くことは無くなっていった。
一度も整の誘いに 私が頷くことはなかった。
「久ちゃん」
「はい」
「海行くか?」
背を丸め金属を叩く作業中 整が背中越しに尋ねる。
大きな背中に私の視線は運ばれる。
整の手元が黙る。整は振り向かない。後ろ向きの全身が私の答えを聞こうとしている。
「ううん よしとく」
私の言葉と共に手元は再び動き出す。
「そうか」
少しの間を持って 溜息をようやく形にした言葉が聞こえてきた。
「ごめんなさい」
「いいんだ いいんだ 久ちゃんの好きにしたらいい」
謝る私を制止するように そう言うと再び鉄を叩く。
一定の叩き音は揺らぐことは無い。
かっちん かっちん かっちん
響く音は私達の沈黙を救う。
かっちん かっちん かっちん
ありがたい
心の中でそう思った。沈黙の邪魔をしてくれる。
私は静かにその場を離れた。
どうしてだろう
何故
私は海へ行くことを断るのだろう
ただ
海へ行くだけなのに 一緒に行くだけなのに
疑問を自分に投げかける。
その瞬間
虫唾が走るほど行きたくない
強い拒絶が胸ん中に立ち上がった。
私は知っている。
紛れもなく 答えを知っている。
知っているくせに 知らないふりを貫こうとしているだけだ。
心臓が私の代わりに言葉を吐き出そうとする。
動悸が
私を支配する。
私は海へ行くことを嫌がっているんじゃねえ
私は
幸せを
思い出を 整と持つことを拒んでいるんだ
幸せを
安治とは
あの男とは
違う別の誰かと感じることを必死に
拒んでいるんだ
あの人とじゃなきゃ嫌だ
あの人とでなければ 幸せに なりたくない
いつしか 幸せになるという自分にとってのものに
安治が入り込んでいる。
叶わなくなってから 入り込んできた。
終わった その後 に入り込んできた。
あの男とでなければ 幸せには なれない。
それは
この先絶対に
幸せにならないと 宣言しているようなもんだ。
助けてもらった身分で
自由という身を受け取らせてもらったにも関わらず
幸せにしようとする整を 拒む
居ない男のために
居る男を拒否する
一個の問いかけが 途方もない責めに変わる。
居やしない男に期待をしているのか
ここに居る 男じゃだめなのか
私を幸せにしたい
憐れみでも 同情でも なんでもいい
自分の銭を賭けて連れ出し 少しでもいい思いを
この娘に
そう願う男を 何故 私は受け入れねえ
遊郭を離れたにも関わらず 私の欠片は まだ遊郭に残っている。
分離したものが本体へ戻って来ていない。
そうだ
二体は無理だといって 一体だけを持って来たんだ
それとも
ここから離れた遊郭へ 触手を伸ばすように
ここにない
馴染みに
私がすがっているのか
身体が動かなくなる。
真実をみた気がした。
同時に
床師が私を舐め上げたあの夜が頭を駆け巡り始めた。
あの時見た蝋燭の火は 揺れていて 幻想的にみえた。
首筋を這いまわる舌の生暖かさが左耳の奥へ伝わり 鼻から出てきた。
あの夜 感覚だけが生きていた。
あの夜 肉体は死んでいた。
重力を切に感じる肉体は軋んだったんだ。
硬直した身体に
挿せねえ させねえ
っつって 油に見立てた 酒くせえ 唾を垂らされたんだった。
ああ
整への拒否が
幸せへの拒否と繋がり
幸せへの抗いは
床師への
出来なかった拒否と同等のもののようにして
現れた。
拒絶が 隠した抗いを 見せる。
同類が同類を 暴く。
一体
どこからが終わりで
一体
どこからが始まりなんだ
身が凍り付く。
終わってない
ちっとも
終わりを迎えていねえ
自由という身の軽さを知るには
昔持った心の重さを手放していく必要がある
自分と対面した瞬間だった。
大門を潜り抜けることが 橋を渡ることが 自由じゃない。
心が正しい場所に位置していなければ
場所が変わっても
変わった場所で
ただ昔と同じようにしか生きられない。
思考の場から離れ切ることは 無いのだ と気づかされた。
目には見えない格子が 今も私をしっかりと捕えている。
幸せに近づいてもいいという許可が下りても
自分が自分に許可しない。
幸せにならないために 言い訳を いくらでも 見つけだす。
整がその場所を私に触れさせようとしても 私は触れようとしない。
馴染めないのではなく
馴染まない。
整の差し出す試みの全てを遮っている。
あれだけ
遊郭では出来ていた肉体的接触が出来ない。
あれだけ
何人とも誰とでも どんなことであっても出来ていた行為が
出来ねえ
かっちん かっちん かっちん
無常に
鳴り響く整の音が耳の中を通り抜ける。
どうしたっていいうんだ
来るべきじゃなかった
私は
ここに居るべき女じゃない
見えない場所で責め立てる言葉と
見える場所で鳴り響く金属音が 異なる場所にて 同時に存在する。
ここへ来てしまった
自分の責任の無さが襲い掛かってくる。
あんたさんは 自由になりたかったのか
声ないものが問いかける。
違う
自由を求めてわけじゃない
その問いかけに私が答える。
本当に これが あんたの望みなんだな
いつか姉さんが聞いた。
あの時私は確かに
これでいいんだと言った。
本当か
私の望みは何だったんだ
私は何から逃げたのか
逃げたんなら 何から逃げた?
遊郭という場所か 遊郭の女として生きることか
違う
私は安治から逃げたんだ
安治という男によって持った
自分の想いから逃げたんだ
安治
どこまでも どこまでも 付いてくる
居ねえのに
居る
安治の存在が顕現する。
居ないのに居る。
私の内側が 居るように振舞う その様に 絶望を感じた。
この先
私は
どうやって生きていけばいいんだ
一体
何を
どうすりゃ いいんだ
真実の匂いが鼻を劈いた今
ここの場所に居る自分という存在の不自然さに愕然とした。
私の肉体は 精神を置いて ずるりと 地面に崩れ落ちた。
見える私 見えない私
孤児を生み出すように
精神と肉体が 二体に
また
分離した。




