第0話 エピローグとプロローグ
申し訳ありません。ミステリーと言っても全然本格的でも、すごいトリックがあるわけでもありません。
そういうのをご期待されている方は他の作家さんをお勧めしますので、どうぞブラウザバックしてくださいませ。
誰でも解ける、みすてりー、を目指してます。
「なんだ? 何がおかしいってんだ?」
そう聞き返したのは三木松刑事だった。
「おかしいのは2箇所」
お嬢様はまず初めにと、お館様がお食事を召し上がったであろうテーブルに近づいた。
「あ、おい!」と三木松刑事が止めるのも聞かず、迷いなく。
「一つはこれ。食べる順番がめちゃくちゃ」
「食べる順番?」
「そう。書斎で食べてるのも不思議だけど、これは今日の夕飯でしょ? お店じゃないけど、お客様がいらっしゃる日はコース料理が多い。そう考えたら、食べる順番がめちゃくちゃだよ」
「コース料理に食べる順番なんてあるのか?」
「例えば前菜より先にスープを食べてるとかね。パパは海外の方とご飯を食べることも多いから、習慣化するために家でも同じように食べるもの」
た、確かに。普段お客様がお見えになっている時は、配膳も順番があります。
「ってことは、なにか?」
三木松刑事は頭をかいた。「これは、被が――」と言いかけたところで銭谷刑事の咳払いが入る。
小学生のお嬢様に対して配慮しろ! って意味なのかも。
「えーっと、おやかたさまが食べたってわけじゃないってことか?」
「多分……。少なくとも不自然だよ」
「ふーむ……」
刑事はすんなりとお嬢様の様子を受け入れているが、私たちは、開いた口が塞がらない。
「で、他に気になることがあるのかい?」
刑事は催促するようになっていた。
「こっちの執務机」
お嬢様が静かに奥に向かっていく。
「あ、わかった!」
と先にひらめいたのは三木松刑事。
何がわかったのよ。
「この万年筆だよ。見ろ、左側に置いてあるだろ」
確かに万年筆は机の左側にはあるけど。それはそうでしょ。お館様は左利きだし。
「だからだよ。そっちのナイフとフォークは右利きの人が使ってるように置いてあるだろ?」
「そうだよ」
とお嬢様が先に遮った。「さっきも言ったけど、パパはテーブルマナーに気を遣う人だから。イギリスとかだと、左利きの人でも、ナイフとフォークを使う時は右利きの人と同じようにしないとダメなんだって。コンチネンタル・スタイルっていうんだけど。だからパパは練習して、ナイフを右手で使えるようにしたって言ってたもん」
「そうなのか!?」
「カジュアルなお店とかだといいのかもしれないけど、パパのお客様って、みんな貴族とか偉い人だったみたいだから。少なくとも、そうしておけば問題はないだろって言ってた」
お嬢様は躊躇なく三木松刑事を断じた。
それよりも、とさらに言葉を続ける。
「この便箋の破られ方。さっきも言ったけど、パパは本来左利きだから。便箋をやぶるなら、破れ方は右下から左上にかけて……いわゆる逆袈裟になってるはず。もちろん、いつもそうとは限らないかもしれない。左手が何かでふさがっていたとか。でも、これインクがこぼれてるんでしょ? インクは左側に倒れて、机の上は少し、そして机のそばにあったゴミ箱をよごしているけど、便箋の一番上が少しも汚れてないのも不思議じゃない?」
お館様がうつぶせになっていたから……。と誰もが思っていたけど、誰もそう伝えることができなかった。
でも確かに、インク瓶がいつ倒れたのかはわからない。うつ伏せた後に倒れたなら、お館様の体が覆いかぶさっていたのかもしれないけど、うつ伏せる前だったとしたら、少しは飛沫がかかっていても不思議ではない。
「ってことは、おやかたさまではない誰かが破った可能性があるってことか?」
と、三木松刑事は手のひらを打った。
だからお嬢様がそう言ってるでしょうが。
「でももし、パパが覆い被さっていたのなら、何が書いてあるのかを知ることもできなかったのかも」
お嬢様は、どうやら捜査員たちの付けた印や状況などを見て、お館様が執務机でお亡くなりになったことを察しているようだ。いつも多忙だったお館様の最期としては相応しいのかもしれない。
私は、そんななんの慰めにもならないことを、一人考えていた。
「もし犯人が破り捨てたのであれば、犯人にとって都合の悪いことでも書いてあったのかも。無意味な落書きならわざわざ慌てて破らなくてもいいんだし」
「そうか! よーし、そうと分かれば……おーい、誰か、このゴミ箱の中を――」
「調べるって? あの……私の話、聞いてました?」
「はい?」
「インクが倒れたのは、おそらくパパが倒れた時と思う。そして犯人はパパが倒れてから破ったわけでしょ? それより先に破ろうとしたら不自然じゃん。それに、何度も言うけど、そんな破らなきゃいけないほど、犯人にとってなにか重要な紙を、犯行現場に捨ててあったらまぬけすぎるよ」
「そ、それもそうか……」
「まぁそれでも、木を隠すなら森的な発想で、この中にねじ込んでるかもしれないから一応は調べた方がいいとは思うけどね」
「そ、そうだろ? ほら、調べた調べた」
翻弄されまくっている三木松刑事に促されて、捜査官たちがゴミ箱へと向かった。ちょうど最後に調べようとは思っていたと言ってる。それもそうよね。この人の扇動は別に必要ないってことか。
「ですがお嬢様」
と父が、床に手をついたまま言う。
「ということは、まだその紙は、犯人が持っていると?」
「うーん、それはどうだろ……事件がわかったのは何時ごろ?」
「はっ。19時ごろでした……うぅ……」
父は思いだして、涙を滴らせる。お嬢様は平気なのだろうか?
「二時間もあれば、捨てることもできるね。でもお屋敷のことを知ってる人なら、今日がゴミの日であることは知ってる。もしゴミ捨てが遅れることを考えたら、普通は捨てない。トイレで流すか……まだ持ってるか……」
「よーし、排水管の中も調べるんだ」三木松刑事は自分の手柄のように指示を出す。「でも、さっき身体検査をした時、そんなものを持ってる人はいなかったぞ?」
「ふーん……そうなんだ」
「あ、でも殿村さん、着替えてたって……」
と言ったのは水上さんだった。意外だわ。
「え!? いいいいえ、僕はただ汚れたから着替えて……!」
「汚れたってのは、インクの汚れかぁ?」
三木松刑事が詰め寄るが、
「殿村さんは違うと思う。まだここにきて日が浅いし、パパのことをそれほど知ってるとは思えない」
「つーことはなんだ?」安中さんが腕を組んだ。「お館様と付き合いの長い柚羽の親父さんや俺が怪しいってか?」
冗談のつもりなのはわかる、口元を緩ませてるわけだし。でも、誰も笑わない。
「そんな時間に安中さんが暇なわけないじゃん。いなかったらすぐわかるよ」
お嬢様は、今度は私たちの方に向かって歩いてきた。
「わざわざ報告するほどのことでもない着替えだったとしたら?」
……へ?
「みんな、手袋を外して、足元に置いて」
「手袋を?」
三木松刑事がまた頭を撫でた。
「紙を持ち出した時、手袋の中にいれてたんじゃないかなって思って。私が犯人なら、部屋から出る時にもし誰かに見つかってしまった時、第一発見者のフリをするけど、ポケットの中に入れてたらすぐ見つかるかもしれないって不安になる。破り取ったのはA4サイズの便箋の4分の3くらい。折りたたんで入れられると思う。もし取るように言われても紙を握りしめておけば手袋をひっぱって、手袋だけ取れないかな? それか、その前に捨てちゃう」
「そう上手くいくか? それに、さっきも言ったけど、何もでてこなかったんだぞ?」
「見せてもらえれば、わかると思います」
給仕は全員、手袋を外した。厨房組の二人は調理時以外手袋をしていないから除外された。
そして足元に置く。
「藍……」
とお嬢様に私は呼ばれて、ひそひそと耳打ちされた。
「みんなのアリバイとか、何をしていたのか、教えてくれる?」
私はつい先ほどみんなが話した内容をできるかぎりそのままお嬢様に伝えた。
一方、三木松刑事は足元に置かれた手袋を睨んでポリポリと頭をかいているが、どうにもぴんときていない。
だが、お嬢様には何か考えがあったようだ。
私の報告が終わるやいなや、
「妙にきれいな手袋ですね」
お嬢様は一歩前に出て、前髪を払った。
「千葉さん?」
え……?
「今日、お庭の木を剪定されていませんでした?」
「よく覚えてるな」
「私が出かける時に脚立を持って出てらっしゃったので」
「あぁ、確かに剪定してたよ」
そ、そうですよ。私が帰って来た時にもまだ剪定されてました。
「手袋が汚れてないっていいたいのか? そりゃそうだよ。汚れたんだから取り替えたのさ。最初に駆け付けるちょうど直前にな」
「お庭の木の剪定で? そんなに汚れますか?」
「汚れるものは仕方ないだろ」
「そうですね。もっと他に……例えば倉庫の片づけとか、扉の修繕をしていた方が汚れそうですけど」
千葉さんが、固まった。
「おぉ、そうだ。なんでそれを言わないんだ?」
三木松刑事の言い方は、実に他意のない言い方だが、それが皮肉にも聞こえる。
「そ、それは……」
「それに、扉の修繕をされていた後にここに駆け込んできたんですよね? それにしては綺麗ですね」
「別に汚れることは必ずってわけではないだろ」
「そうですね。では、交換した手袋を出してください」
「え? 今? 今はないよ。ロッカーの中だ」
「じゃあうちのもんと一緒に行って、取ってきてもらおうか」
数分後、見張りの警察官と一緒に、千葉さんは戻ってきた。
警察官から刑事に手袋が一つ渡される。
それは、指先が黒く汚れて、いかにも掃除で使ったと主張してくる手袋だった。
「ほら、なにも入ってないし、オレは持ってないぞ」
千葉さんは、まるで銃口を向けられた小市民のように両手を開いて挙げた。
お嬢様は、手袋を手に取ると、
「紙に興味はないよ」
「うん?」
瞬く間にひっくり返した。
そして、千葉さんの手袋には、小さいが、でも確かに黒い点を成すシミがついていた。
「このシミをきちんと調べれば、万年筆のインクと一致すると思うよ」
「インク?」
三木松刑事が言う。
「パパの書いた時のものか、倒れた時にはねたインクかはわからないけど、そんな簡単にインクは乾かないよ。その紙を手袋の中に入れてたとしたら、内側にインクが付いてないかなって思って」
「そ、それは……手袋を逆につけていたんだ。間違えてな」
「でもひっくり返す前の表面はきちんと汚れてますよ?」
千葉さんが言葉に詰まる。お嬢様はそれを見逃さなかった。「仮にそうだとしても。どうして剪定と片づけをしていた人の手にインクが付くんですか? それも、ひっくり返して着けていたのならば、手の甲に当たる部分ですよ?」
「うっ……」
千葉さんが小さく唸った。
一同の視線が自ずから千葉さんに集まる。
「ふっ……ふふっ……あーっはっはっは!」
千葉さんは高笑いを始めた。その汚れていない手で顔を覆う。
千葉さん……まさか……。
「やっぱりあんな落書き放っておけばよかったなぁ。結局なにが書いてあるのかわからなかったしな」
彼は糸が切れたように、床へと座り込んでしまった。
「いやぁ、復讐のために殺したってのによぉ、まさか早々に復讐し返されるとはなぁ」
ころっ……ちょっと……。
「千葉、お前がお館様を?」
安中さんが言った。
「そうだって言ってるだろ。俺が殺したんだよ。薬の中に毒を混ぜてな」
「え? じゃあ私が持って行った時にはすでに?」
「あぁ。急遽飲むタイミングが変わったとか言ってな。先に薬を飲んでもらったんだよ。ぷっ。馬鹿なやつだぜ、そんな簡単に変わるわけないのにあっさり信じてよ。いやでもまさか飯を食べる順番があるなんてな。そんなこと俺たちには言わなかったくせに。くそっ! 気分が悪い――」
「藍――」
と、父が短く私の名を呼んだことを最後に、私はそこからしばらく記憶がなかった。
「藍、もういい……!」
記憶が戻ったのは、そう父に怒鳴られながら、後ろから羽交い絞めにされたところからだ。
私の足元には、赤黒く顔を腫れあがらせた千葉が寝転がっていた。
そしてこぶしが次第にじんじんと痛くなってきたことで正気に戻れた。昔男子とケンカした時の比ではないけど、その感覚は懐かしくさえ感じる。
「気持ちはわかるが……ちょっとやりすぎだ」
三木松刑事が苦しそうにそう言った。
「けっ……俺の復讐心が、お前らにわかってたまるか……」
千葉はやられながらも尚、唾を吐き捨てた。
「復讐?」
安中さんが訊き返す。
「あぁそうだよ。俺の親父は大宜見グループのライバル企業だった。だけど、大宜見グループに競り負けて、みるみるうちに業績は下がる一方。最終的には大赤字で、多額の負債を抱えて倒産した」
「それが復讐の理由だっていうのか!? ただの逆恨みだぞ!」
「それだけじゃない! あの男は、うちの親父の会社の有能な社員を引き抜いていたんだぞ!」
「なに!?」
「あげく、倒産した事実を、最後の悪あがきのつもりで報告にいった親父に、『うちの会社に来い』と言い放ったそうだ。『お前以外の有能な社員も、もうすでに来てるぞ』ってな!」
千葉は泣き出した。
「どんだけ親父のことを蔑んだら気が済むんだ。自分の部下がライバルに奪われてた事実を、そうもあっさり……おまけにうちの会社に来いだと!? 親父を愚弄するのもいい加減にしろ!」
記憶と現実とが入り混じっているようだ。
「親父はショックのあまり自殺しちまったよ……。俺とお袋は貧しい生活を余儀なくされた……俺はその時から誓ったのさ……必ず復習してやるってな……!」
「千葉……」
父が膝をつき、千葉の顔に流れた血や涙をぬぐった。
「お前の記憶を混乱させるようで悪いが、お館様がそんな小さいことをする人かどうか、4年働いて疑うことはなかったのか?」
父の反対の手は、音が聞こえてきそうなほど固く握りしめられていた。
「な……?」
「まぁお前の父親の感情や立場を考えれば、そのような解釈にもなったかもしれないが、それは全くの誤解だ。お館様のもとへ、お前の父親の会社の部下たちは、自らやってきたのだ。倒産することがわかってから、な。最後まで彼らは働き続けた。でも会社は持ち直す気配はなかった。それでも社員にも生活があるのだ。貧しさを経験したお前なら、わかるだろ」
「……」
「それに、お館様はお前の父親を追い込むつもりではなく、救うつもりだったのだ。だが、あのような結果になってしまって……お館様はひどく後悔されていたのだ」
「……うるせぇよ……うるせぇうるせぇ! そんな美談でどうにかするつもりか!? 俺の気持ちが、苦悩がわかってたまるか」
「千葉、お前!」
「いいよ、じぃ」
興奮して、手が出そうになった父の肩に、お嬢様の小さな手が乗った。
父はやり場のなくなった拳を、床へと向けることになった。
「じゃあ千葉さん」
お嬢様が告げた。「千葉さんなら私の気持ち、わかるんでしょ?」
「あぁ……わかるぜ。あの時の俺のように、世界が歪んで見えるだろ。あの時から俺は復讐を――」
「自分のしたことだけ美談化するのやめてくれる?」
お嬢様の声が強く、そして妙に冷淡だった。聞いている私もぞっとした。
「っ……!」
「動機なんてどうでもいいよ。結果、人が一人死んだんだから。結果、傷つく人がいる。たとえ壮大な動機があったとしても、それが罪を犯して良い理由には変換されてはいけないもの」
「……ふっ」
千葉はほくそ笑んだ。
「でも私は、」
お嬢様は続けた。
「あなたが恨む気持ちまで否定する気もないよ」
「なっ……」
千葉はお嬢様を見上げた。
お嬢様は、実に凛として、堂々としていらっしゃった。
そして千葉は、音なく涙を流したのだった。
千葉は……千葉さんは、なぜこの日に犯行に及んだのか、三木松刑事が尋ねると、
「来賓に疑いを向けられるだろ? でも帰っちまったから意味なかったけどな……振り下ろしたこぶしを下せなかっただけさ」
そう言っていた。
私たちに疑いが向けられないようにしたかったみたいだ。私の父のことを妙に慕っていたのは、彼の暗い過去のせいなのかもしれない。
「――さて、調書を作らないとダメだから、悪いけど、みなさんもこれから署にお越しいただけますかな?」
銭谷刑事さんはそう言い残して、千葉さんと一緒に先に屋敷を後にした。
「特にお前、」
と、三木松刑事が私を指さす。
え? なに?
「お前、あれはやりすぎだ。悪いけど、警察としては見過ごすわけにはいかない」
はぁ!? なんでよ!
「あれだけ犯人が顔を腫れあがらせているんだぞ!? 転びましたなんて説明じゃすまないっての」
うっ……くぅ……。
「仕方ないだろ」と父が言う。「刑事さん、よろしくお願いします」
「まぁ、事情が事情だからな、そこまで悪いようにはしないから安心しろ」
……なんだか腑に落ちないんだけど。
「とりあえず、そういうことだから、みなさん外出の支度をしてください。戸締りは結構です。まだうちの署員が捜査しておりますし」
「とはいっても……」中里さんが不安そう。「私は留守番しておくわ。みんなが帰ってから行きます。警察の方がいるならいいでしょ?」
「じゃ、じゃあ、ぼ僕も」
と殿村さんも手を挙げた。
「まぁ車に乗れるのも限りがあるしな」
「うむ。では我々が先に向かうとしよう」
私と父、安中さんに水上さん、そしてお嬢様が向かうことになった。
お嬢様と私と父は、二階の私室に向かう。
お嬢様のお着換えをお手伝いするのも私の仕事だ。
扉を開けて中に入られるお嬢様の後ろを、自然とついていく。
――が、
「私も9歳だから。着替えくらい一人でするからいいよ」
え? そんな、ちょっと寂しい……。
「いいから。藍も行くんでしょ? 電話とか持っていく準備しておいでよ。またつながらなかったら困るし」
お嬢様に押し返された。
扉が静かに閉じられる。
「――どうした?」
自分の荷物を手にして戻ってきた父が、不思議そうに言った。
いや、あのね、自分で着替えるからいいって。
「そうか……」
ところで、さ。
今聞くことじゃないかもしれないけど。あの千葉さんが引きちぎったって紙には何が書いてあったのかしら?
「……」
父は眉間にしわを寄せた。
そしてゆっくりと口を動かし始めた。
「お館様は、ご自分の命が、いつか狙われるかもしれないと仰っていた」
え……。
「私にだけお話くださったのだ。もし自分に万が一のことがあったら、咄嗟になにか、それこそダイイングメッセージを残すとも」
ダイイングメッセージって……あのイニシャルとか血で書くやつのこと?
「あぁ。だが、それだと犯人に気づかれて消されるかもしれない。だから私とお館様とだけが知ってる、いわば暗号みたいなものを決めておいたのだ。身内なら線を1本、会社の人間なら丸を書くとか……色々とな」
それって、4年位前のこと? 妙に二人で部屋にこもっていたわよね。
「お館様もお悩みになっていたからな。人を疑うことが好きではないからな」
でもその頃って……ちょうど千葉さんが……。
「あぁ……。お館様は、きっと千葉の正体を知っていたのだろう。それでも罪滅ぼしのつもりで、お雇いになったのだ。千葉がこの屋敷の門をたたいた時に、妙に喜んでいたからな……」
父はまた、瞼のうちに涙を溜め始めた。
そんな……。そんなの……。うぅ……。
「それともう一つ理由がある――」
ん?
「なんだ?」
何? この音?
「音?」
何かこもったような……電話のバイブ?
「いや、私のは鳴っていないぞ」
その音は……お嬢様の部屋から聞こえてくる。
私と父は、無言で目配せし、そっとその扉に近づいた。
『う……』
お嬢様?
『わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』
それは、お嬢様の泣き声だった。
こもったように聞こえてきたのは、きっと気丈なお嬢様のことだから、クッションにでも顔をうずめているのだろう。
『パパあああああああああああああああ! ママああああああああああああああ……ひっぐ……どうして……うぐっ、ひぐ……わああああああああああああ……』
堪えることができなかった。その泣き声を感情なくして聞き続けることが私にはできなかった。
先ほどまでの、妙に堂々とされていたお姿が、悲しみの裏返しなのだと分かった時、私は、エプロンの端を必死で噛みしめ、泣き声を上げるのを、我慢することしかできなかった。
父は、静かに扉に姿勢を正して、大粒の涙をぽろぽろと、声も出さずに泣いていた。
ずずっ。
お嬢様の鼻をすする音がする。
『なん……でぇ……みんな……わたしひとり……うぅ……あああああああああっ……』
お嬢様の必死で押し殺した誰にも見せない涙に、私と父は、共に涙し、そしてその気丈さに、共に感動した。
……そして私たちは、二度とお嬢様を悲しませないように、一人にさせないために、今度こそ、守り通すために、一生お傍にいると誓ったのです。
● ● ●
「……そして私たちは、二度とお嬢様を悲しませないように、一人にさせないために、今度こそ、守り通すために、一生お傍にいると誓ったのです……」
うわああああああああああああああん!
私は、藍お姉さんのお話を聞き終えて……、うぅん、もう途中からずっと泣いていた。
マリちゃん……そんな……お父さんもお母さんも……うぅ……!
「菱島様、涙を」
とマリちゃんのおじいちゃんがハンカチを渡してくれた。
私は遠慮することなく涙も鼻水も拭いた。ごべんばざい。
「いえ、安いものです。ハンカチ一つでレディの涙を拭うことができたのであれば」
おじいちゃん……じゃなかった、親父さん……。
「ふふっ。菱島様まで父のことを親父さんって、おかしいですよ」
藍お姉さんは微笑んだ。
「それに、何度も申しますが、菱島様には感謝しております」
そんな……グズッ。私なんていつもマリちゃんに助けてもらいっぱなしで……。
「お嬢様は、あの後、身の安全を図るために、私たちと転居……つまり引っ越しを繰り返していました。似たような思考を持つものがいないとは限らないので。でも学期ごとに引っ越すという環境にあって、お嬢様も次第に元気がなくなっていったのです」
そー言えば、私が最初に声かけた時なんて、いつも一人で本を読んでる子ってくらいのイメージだったなぁ。クールでちょっと近寄りがたい感じ。
「最後に引っ越したのは4年生の3学期でした。やはり時乃瀬という町に戻りたいって仰ったので。最初に通われていた学校の隣の学区になりますが、現在の時乃瀬小学校に転入されたのです」
そうそう。初めて一緒に学校へ行った時、そう言ってたもん。
「我々も不安ではあったのですが……お嬢様にとっても大切な町だったのでしょう。少しでもお館様や奥様との思い出に近い場所を選ばれたのです」
うぅ……マリちゃん……。
「で、ですよ!」
と藍さんが声を弾ませる。
「5年生になって、しばらくはいつもの通り寡黙なお嬢様だったのですけど、3学期になって、菱島様とお友達になったって……それはもう……私どもも……うぅ……」
そ、そんな泣かないでくださいよ。私が一方的に、なんていうかな、絡む? だけですから。
「あんな風に楽しそうに何かを語られたのは、お館様の事件以来だったのです……うぅ……」
みんなで涙を流しながら、マリちゃんのことを話した今日という日を、私は一生忘れないだろうと思う。
そして――
「あ、柚羽様! 娘様が目を覚まされましたよ!――うわっ!」
私たち3人は看護師さんを押し飛ばす勢いでICUの中に飛び込んだ。
もちろん、入る前の消毒は忘れない。
ちなみに、刑事さんはどこかに行ってる。まぁ置いてきてもいいでしょ。先生は……途中で寝ちゃってた。もう、ホントに……。
「お疲れでしょうから」って。二人とも優しいんだから。
「次田様にはいろいろとお世話になってますからね」
そりゃ担任だもん。って言ったんだけど、どうもまた違うみたい。
って今はそれどころじゃない。
マリちゃんのいるベッドの仕切りのカーテンが開かれていた。
深夜3時。暗くて心電図の無機質な音だけが響く中、そこだけ優しい光が灯っている。
マリちゃん!
「「お嬢様!」」
「しーっ!」
と看護師さんが睨んできたけど、ごめんなさいと軽くあしらう。
マリちゃんはゆっくりと瞼を開いた。頭部に貼られたガーゼが痛々しい。
マリちゃんの瞳がゆるりゆるりと左に動く。
そしてマリちゃんは私に気づくと、最初にこう言ったのだった。
「サキちゃん……」
微笑んだ? いや、違う。ひどく悲しい顔。
「ごめんね、怪我はない?」
私の視界はまたも涙で潤み、ぼやけてしまった。
ばびぢゃあああん……!
泣きすぎた私は問答無用で看護師さんに連れ出されてしまったのだった。
数十分後、マリちゃんが運ばれていった病室に私たちも向かう。
そして、そこでマリちゃんは病室でも休む暇がないと痛感させられたのだった。
隔週日曜日更新していきたいと思います!
回答編と次の事件は同じ話数に記載予定です。




