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今さらではありますが、タグにヤンデレを追加しました。
「のあさま!」
思っていた通り、少年は少し優しくしただけですぐに懐いた。夫人がいる間はまだ表情が硬いものの、二人きりになれば犬のようにはしゃぐ。彼女といえば、以前ほど少年を気にしなくなったように思う。私にも少年にも興味がないかのように紅茶を飲んでは、機会をうかがっては退出する。
以前よりも彼女の退席する時間が早くなったことを夫人は少年のせいだと思い込んでいるらしく、彼女が退席するたびに夫人は少年を睨む。あの日の彼女であれば気にしていただろうか。……まあ、考えたところでしかたない。私は大事な情報源を失うわけにもいかず、面倒だとは思いながらも少年を庇うために夫人を丸め込み、少年とともに部屋を出る。
少年はもはや夫人や彼女と友好な関係を築くことを無意識ではあるが諦めたようで、この屋敷での自分の立場を守ることにしたらしい。侯爵の仕事を執事たちに聞き、それに向けて勉強しているようだ。
養子とはいえ、もとは彼女の遠い親戚。幼いころより貴族教育は受けており、何の違和感もなくやり遂げているようだ。しいて言えば、以前より学ぶことが多く多忙になったらしい。
恩を売るために少年に勉強を教えてあげることにした。少年は想像以上に飲み込みがよく、思っていたよりも使える人材のようだ。あとは貴族として感情をコントロールできるようになれば合格だろうか。兄やベルトランドにも会わせてあげようと約束すれば、少年はただ純粋に友人が増えると喜んだ。少年は第一皇子や公爵家と繋がりを持てる利点をまだ理解していないらしい。
少年に勉強を教えるようになって、何度目だったろうか。少年が持ってくる教材を間違えたと言って一度部屋を出た。残った夫人が鬱陶しく話しかけてきたが、丸め込んで追い出した。きっと夫人は自分が丸め込まれたなどとは露ほども思っていないのだろう。本当に彼女とは似ても似つかない。
何気なしに窓の外を見れば、一足先に退出した彼女の赤が見えた。彼女はぼんやりと自身の纏う赤と同じ色の薔薇を眺めているようだった。彼女はやはり薔薇が好きなのだろうか。真っ赤な薔薇を贈れば、彼女は喜ぶだろうか。わざと棘の残る薔薇を贈れば、彼女の隠された肌に傷をつけられるだろうか。傷つけられた彼女は、私がそれを贈った意味を考えるだろうか。……いや、駄目だ。きっと、それでは彼女が意識を向けるのは薔薇にだけ。それに目の前で変化が見られるとは限らない。
そんなことを考えていると、彼女がふいに薔薇から視線を動かした。彼女の視線をたどれば、薄汚れた毛玉が一つ。よろよろと歩き、そしてついには倒れた。しばらくもがく毛玉を見ていた彼女だが、何を思ったのか彼女は優雅にそれに向かって歩き始めた。
背後から扉の開く音が聞こえ、私を呼ぶ少年の声も聞こえた。けれども、そんな少年に反応することもできず、私は彼女から目を離せずにいた。
距離があるはずなのに、彼女の表情だけがはっきりと見えた。彼女はその毛玉に手を伸ばし、それから白の手袋で覆われた自分の手を見て、息を呑んだ。そして、毛玉と自身の手を見比べ、眉を下げて今にも泣きそうな表情を浮かべた。彼女の口元が小さく動き、その薄汚れた毛玉に何かを伝え、彼女はそこから立ち去った。
「……何故、あんなものを気にかけるんだ」
あの日以来、私には見向きもしないくせに、私には触れようともしないくせに、私には表情を見せないようにするくせに、何故、あんな汚くて、ちっぽけで、取るに足らないようなものの前でそんな表情を浮かべるんだっ!お前は何事にも無関心だったじゃないか。あんなものに、お前を惹きつける何があるというんだ!お前は潔癖なのだろう?お前は私のものだろう?私だけを考えていればいいのに!!
彼女のいなくなった裏庭に残る毛玉にどうしようもない怒りがこみ上げてくる。視界の隅に少年が映っていなければ、歯を強く噛み締め、血が出るほどに手を握りしめていたに違いない。
少しして侍女が現れ、その毛玉を抱えて消えた。おそらく、彼女が伝えたのだろう。ああ、本当に憎らしい。それとも、何だ。近くで見れば、彼女を惹きつける何かがあるとでもいうのか。どちらにせよ、あれをそのままにはしておけない。
少年を気にする余裕もなく、あの毛玉を回収するために部屋から出た。夫人に窓から見えて心配だったなどと適当に理由をつけて毛玉を譲り受けた。毛玉は、薄汚れていて汚れ切った何の変哲もない子犬だった。まるで自分を憐れんでくれとばかりの瞳が私を見上げる。何の魅力もなく、自分でまともに立つことさえもできない、貧弱で愚かで卑小なこれの、いったい何がいいと言うんだ。私にはさっぱり理解できない。
骨と皮しかないその首をへし折ってしまいたい気持ちをなんとか抑え、笑顔でそれを城へと持って帰った。他の誰にも見つかるなと私付きの執事にそれを預け、父や母に今日の報告を終える。許可をもらって自室へと戻れば、私付きの執事が布の塊を抱えていた。布の塊は、苦しいのかもがいている。
「顔を出してやれ」
布の隙間から顔を見せたそれは、怯えた目で私を見上げた。その目はどこかで見た覚えがある。……そういえば、初めて会ったときの少年もこんな目を…………いや、彼女だ。初めて対面したときの彼女がこんな風に、怯え、瞳を揺らしていた。彼女はこんなものに親近感を持ったとでもいうのか。まさか。こんなものが彼女と同じであるはずがない。それでも彼女がこんなものに親近感を抱くというのなら、これを彼女の土俵から引き離せばいい。二度と、彼女が興味を抱かないような遠いところへ……
「……犬を食べる地域があるそうだな」
「ええ。ですが、これではおそらく受け付けられないと思われます」
「だろうな。だから、育てる」
このみじめで苛立たしい獣のこれからを想像して、自身の口角が上がるのを自覚する。
「いいものを与え、存分に甘やかし、何の苦労もさせず、何の不安も抱かせず、十分な幸せを与え、刃物を突き付けよう。ただでは殺すな。この目が絶望に染まるほどいたぶってから、始末し、売り飛ばせ」
「……」
「どうした?」
「いえ、かしこまりました」
私付きになってから長い執事は、私の本性に気づいていたのだろう。呆れたように息を吐き、あれを抱えて部屋から出て行った。再び彼女に会ったとき、彼女はあれについて気に掛けるだろうか。もし、気に掛けるようであれば、あれをどうしてくれよう。
そんな私の心配とは裏腹に、彼女はあれについて気に掛けることはなかった。もはや、彼女の中で終わったことなのだろう。彼女は以前と何も変わらないままだ。変わったと言えば、少年が少し変わった。私の顔色を窺うことが増えた。もう少し、使えるようになったら存分に使おう。
学園に入り早九年。初等部を卒業し、中等部も最高学年となった。彼女もまた学園に入り、この八年で意図せず独自の空間を作り上げていた。彼女を目の敵にしてしゃしゃり出て来ようとしたやつらは迅速に対処した。ただでさえ彼女の観察をできる時間が減ってしまったというのに、くだらぬ感情でしかないのに彼女の視界に映ることなど、許せるはずがない。執事を使って、ベルトランドを使って、行動に移される前に全て抑えた。
だが、私の予想をはるかに超えて彼女は人目を引いた。身の程知らずにも、彼女に心酔する輩が現れたのだ。本当に思い出すだけでも腹が立つ。
たまたま正面から彼女を見ただけで、自身と目が合ったと舞い上がったあの男。何度無視されようと、拒絶されようと、彼女が自身を特別扱いしていると信じてやまない勘違い野郎。この手で葬ってしまおうかと何度考えたことか……
昼休み、一人で廊下を歩く彼女の姿を見かけた。それからこちらに向かって駆けてくる例の男。私はその間を遮るようにして彼女に声をかけた。
「セシリオ」
彼女の何処を見ているかわからなかった瞳が確かに私をとらえる。私が微笑めば、彼女は小さく瞳を揺らし、それから淑女らしく頭を下げた。ここ数年で、彼女はずいぶん私の前では気を緩めるようになったと思う。きっと彼女は気づいていないだろう。私の前でだけ瞳を揺らし、私の前でだけ小さく微笑んでいることを。
彼女は辛い物が苦手だ。執事も侍女もいない私と二人きりの空間になると眉間に皺をよせ、その瞳を微かに潤ませる。彼女は木陰で鳥の鳴き声を聞くのが好きだ。私以外の気配さえなければ、とても幸せそうに眼を閉じる。
彼女は私が触れることに強く反発することはなくなった。やはり、人肌が触れることは苦手であるようだけれども、確実に触れることを許してくれる回数が増えた。彼女が触れることを許すのは私だけ。
だというのに、あの男はいったい何を勘違いしているのだ。彼女の特別は紛れもないこの私だ。彼女は私の所有物なのだから。
「一緒に昼食を取らないかい?」
「……私、食堂には行きませんわ」
「私も今日は弁当だよ。それとも、先約がいたかな?」
「いえ、そんなことは……」
「私と一緒に食べるのは嫌かい?」
私が眉を下げて悲しげに表情を作ってみせれば、彼女は慌てて首を横に振る。この表情を浮かべれば、彼女が大抵のことを受け入れてくれると気づいたのはいつだったろうか。いつかなんて重要ではないから忘れてしまったが、あまり多用して彼女に耐性ができては堪らないとあまりしないように心がけていた。彼女自ら私に寄ってくれれば好いのだが。
彼女を中庭へエスコートしながら、そっと背後の様子を窺った。
例の男は茫然と廊下の中央に立ち尽くし、憎々しげに彼女を見ていた。可愛さ余って憎さ百倍、とでも言いたげな目だ。勝手に勘違いをして、勝手に絶望して、勝手に憎まれて、彼女に何かされては困る。彼女を隠すようにして中庭へと急いだ。
その日の放課後、少年を呼び出した。十分に使えるようになった聡明なカイルは、またかとばかりに呆れた表情を浮かべていた。
例の男について今までの彼女に対しての行動を伝えてやれば、カイルの眉間に皺が寄る。彼女が私のものであることを重々承知してはいるようだが、カイルもまた彼女に魅了されている。本人は好きではないが嫌いでもないなどと言っているが、他の貴族たちが関われないように囲うほどの執着を持っているのは間違いない。
カイルに彼女の護衛と例の男の家の調査を命じる。
「カイル、頼んだぞ」
「仕方ないですね」
面倒そうな表情を作ってはいたが、私によく似た薄暗い瞳は隠しきれていなかった。
さて、あの男はどうしてくれようか。生まれてきたことを後悔するほどに絶望する未来を与えてくれなければ。
次話も気長にお待ちください。