12.みちおの怒り
みちおと知美は、学校を終えたある冬の日の夕方、雨根村にあるショッピングモールの中にあるカフェで、デートをしていた。少なくとも、知美はそのつもりだった。
だけど、みちおはどこか上の空だった。
それは、今だけではなく、半年前のあの日、東京へさくらに会いに行ってから、ずっとこの調子だった。知美は、
「そろそろ、また、秋入学の試験だね」
「うん…」
みちおは生返事をしながら、なくしてしまったさくらの手紙のことを思い出していた。
あの日、家に帰ってリュックサックをひっくりかえしても、それは出てこなかった。
リニアの車内でリュックサックの中に手紙を入れてから雨根村の家に戻るまで、一度も取り出していないのだから、そんなはずはないけれど、車内に落とした可能性も考えて、鉄道会社とバス会社にすぐに電話したが、手紙の落とし物は届いていないという回答が帰ってきた。
あの中にはなにが書いてあったのだろう。
あのなにか入っていたようなふくらみは、なんだったのだろう。
もしすぐにちゃんと読んでいれば、いまこんなに納得がいかないような、もやもやした気持ちにはならなかったのかもしれない。
さくらのこと、いい友達として想い出に残せたのかもしれない。
でも、今のみちおはそうではなかった。もう一度さくらにあって、きちんと話をしたかった。
できれば、みちおとして、思いを伝えたいと思っていた。
「もう! しらない!」
ガタッという音に、みちおはびっくりして我に帰った。みると、知美が目の前に自分のトレーを持って、泣きそうな表情で、仁王立ちしていた。
「どうせさくらさんのことばかり考えてるんでしょう、そんなに会いたければ、東京へ行っちゃえばいいのに!」
知美はみちおに叫ぶと、がちゃんと音を立ててトレーを返却して、そのまま、みちおをおいて、店を出て行ってしまった。
知美が怒るのも仕方がないと、みちおは思った。
東京から帰って来てからしばらくして、知美から告白のようなことをされて、二人は付き合うようになっていた。
でも、みちおは知美のことを、友達としてしか見られなかった。一緒にいて楽しいし、明るくて優しい知美のことは好きだと思っていた。
いつまでも、こんな中途半端な気持ちでは、生きていけない。
やっぱり、もう一度さくらさんと会って、あの手紙になんて書いてあったか聞いてみよう。
みちおは、確認のため腕時計を見た。夜の19時30分を指している。
みちおは、すっかり温くなってしまったコーヒーを飲み干すと、レシートをにぎりしめて、そしてまるでなにかにあやつられているように、急いで店を出た。
清風高校の校舎は、夜の19時30分を過ぎていて、もう誰もいなかった。シンと静まりかえった廊下に、ピアノの音が響いていた。
さくらが音楽室でピアノを弾いているのだった。音楽室は真っ暗で、ドアから漏れる廊下の明かりだけが、さくらの表情を青白く窓に映し出していた。
さくらは自分の奏でる音楽に、耳をすませていた。白く細くしなやかな指が鍵盤の上で軽やかに跳ねている。指はふんわりと鍵盤を弾いていた。
さくらは、目を閉じて音に耳を済ませながら、最近の自分について考えていた。
さくらは、痴漢をやっつけたり、むかつく女子を集団で仲間外れにして自主退学に追い込んだり、気に入らない男子を自分は手を下すことなく、自分とのセックスと引き換えに他の男子たちにリンチさせて大怪我させたりした。
それをやっているとき、様子を見ているときは、とてもすっきりして気持ちがいい。心のわだかまりがすっ、と溶けてなくなるような気持ちになる。
だけど、しばらくしたらまたやりたくなる。
しかも、やっているときは、自分が正しくて、それをする当然の権利があるように感じてしまう。それを繰り返すほど、気が済むどころか、ますます、それをしたいという気持ちに捕われてしまう。
自分はもともと、こんな人間だったのだろうか。東京で生活を初めてから、なにかがおかしくなっている。
そういえば、お母さんも、病気はすっかりよくなって退院した。
その反動のせいなのか知らないけれど、お化粧や服装は華美になり、毎日のように、ホストクラブで飲み明かして、朝帰りの日々を過ごしていた。
ホストクラブで、はしゃぐお母さんを思い浮かべて、さくらは、気分が悪くなった。
さくらは毎週末は高校の寮に外泊許可を出して、お母さんの暮らす高級マンションに泊まって、1週間分の家事をしていた。
だけど、昼間はお母さんは寝ていて、夜は街へ遊びに行ってしまう。いつしか、母娘は顔を合わせても、事務的な会話しかしなくなっていた。
私はピアノを弾きながら、暗い窓を見た。
そこには、愛子に拾われる前の姿でいる、私がいた。
私は鍵盤から手を離して立ちがあると、窓に映ったあの頃の私に向き合い、その体に手を添えた。ひんやりとして、冷たかった。
「まだ、そこにいたんだね。すっかり忘れてた」
(ごめんね…、消えてしまいたいのだけど、消えないみたい)
「私は、あなたのなりたかった顔と体を手に入れた。そして頭もよくなった。そして、あなたが望んでいたことを全て残らず実行した。それなのに、どうして、あなたはまだそこにいるの」
(たぶん、それは、そのきれいな顔と女性らしい体、そして優秀な頭脳、そして行動、そのすべては、私が望んだ結果だから、それにしたがって生きている限り、私は消えないと思う)
「そうなの?」
(あともう一つは、心残りがあるからかもしれない…)
「みちよさんを、殺してしまったこと?」
窓に映った私は、ゆっくりとうなずいた。
「みちよさんは、許してくれないかな?」
(たとえ、みちよさんが、許してくれたとしても、私は許せない)
「じゃあ、どうすればいいの」
(私はみちよさんと同じ苦しみを味わいながら、死ぬ。そしたら、きっと私は消える)
「それは、どういうことなの?」
(みちお君に、私を、…)
愛子は、音楽室のドアの外側で、さくらのひとり言を聞いていた。
そして、自分のやっていることは、もしかしたら、間違いなのかもしれないと考えていた。
窓の私が言いかけたとき、音楽室のドアが揺れて、ガタッと物音がした。
私はびっくりして振り返る。風だったのだろうか。
もう一度窓に向き直ると、あの頃の私の姿は消えていて、清風高校の私の色白の顔がぼんやりと浮かんでいるだけだった。
さくらが音楽室のドアを開けると、そこには愛子が立っていた。
愛子は突然開いたドアに、びっくりしてすこしのけ反っていた。愛子はあわてて笑顔で動揺を取り繕った。
「愛子さん、こんなところでなにしてるの?」
さくらは、きょとんとした表情で、愛子に尋ねた。
「それはこっちの台詞。帰りが遅いから、探しに来たんだよ。そしたら、音楽室からピアノの音が聞こえてきたから、もしかしてと思って」
「愛子さん、ありがとう」
さくらは、もうすぐ愛子ともお別れになるかもしれないと思い、ありがとうの言葉に心を込めていた。
──さくらさん、今東京に来ている、会いたい
翌朝、脳内情報処理装置にはいっていた、みちおからのメールが頭に響いて、さくらは目を覚ました。
今まで、みちおからのメールは数えきれないくらい無視してきた。
それは、さくらにとって、過去のことだったから。
一度だけ、お金は帰すから、もうメールしないでと送ったら、それっきり、みちおからのメールは途絶えていた。
さくらはベッドに寝転がったまま、時間を確かめる。朝の9時。今日は土曜日で学校はお休みで、部活動もない。
そして、さくらは脳内情報処理装置で、さくらが手なずけたボーイフレンドの中でも、一番さくらに従順で、素直で、そして体格のいい男子に連絡を取った。
昔の彼氏がうざいの、だから一緒に来て、と送信して。
みちおは、なにかに操られるように、東京駅までやってきていた。
それはさくらに会いたい、という想いからだろうか。
みちお自身も、わからなかった。でも、会って話をしたかった。
あの手紙のこと、なくしてしまったと、正直に言おう。
そして、中に書いてあったことがわかれば、さくらのことを吹っ切れるのだと信じていた。
さくらの指定した改札から、駅の外に出ると、そこには、白色のミニスカートに、レースの付いたピンクのキャミソールを着たさくらが待っていた。
スカートの下には太ももがあらわになり、さくらの大きな胸はキャミソールの下で丸々と膨らみ、レースのひらひらからは、こぼれそうなくらいはみだしていた。
まるで下着のようなその格好に、みちおは変な気持ちになった。
そして、そのすぐ後ろには、まるでボディーガードのように、大柄な男子が控えている。
その男子は、みちおをじろりとにらみつけていた。みちおはというと、地味な紺色のTシャツとジーパンという服装だった。
「みちおくん、お久しぶり。来てくれてありがとう。なつかしいなぁ…」
さくらはみちおに笑顔を向けた。最近の流行りだろうか、真っ赤に塗られた唇が冷たく釣り上がっていた。
「早速だけど、私たちと一緒に来てくれる」
さくらに言われるまま、みちおはあいさつもそこそこに歩きだした二人のあとについて行った。
さくらたちは大通りをそれて、路地裏へと入って行った。
まだお昼前だというのに、薄暗くてじめじめしていた。
さくらとその男子は中ほどまで足を進めると、振り返った。
みちおは胸元で腕組みをしているさくらと目線があい、足を止めた。
「私いったよね、私のこと忘れてって」
さくらの真っ赤な唇が動き、冷たいことばが投げ掛けられた。
みちおは、これまでのメールやりとりで、冷たい態度は若干予想していたものの、やはり実際に言われると、心がざわめいた。
「そ、そうだけど、どうして」
「どうしてもなにも、あんたと私じゃ、釣り合わないじゃないの、そんなこともわからないの、やっぱりバカなの?」
みちおはの心の中で、毒々しい感情が生成されるのがわかった。
自分が女の子だったときには、味わったことのない感情だ。
人に冷たくされることは、辛くて悲しい。そして、好きな相手にそうされると、怒りすらわいてくる。
「お金なら返すって言ったよね、そもそもあのお金は、私にくれたんじゃないの? お金で女の子を釣るなんて最低だよ」
こいつはなんなんだ。みちおはだんだんと頭が熱くなってきた。
怒りの感情があふれ出てくるのが自覚されて、気分がわるくなってきた。一刻も早く、ここから離れるべきだ。
「あんたみたいなのが、一晩でも私とセックスできたんだから、それでチャラってことで、よろしくね」
さくらはそう言い放つと、手をひらひらさせて、みちおの横を素通りして、今来た道を戻ろうとした。
みちおはその言葉に、さくらとの夏の想いでが汚された気がして、悲しみと怒りがごちゃまぜになった感情があふれて来た。
そんなことを平気で言い放つこいつは、もうさくらではない。さくらだった、なにかだ。
外見はさくらの顔と体だけど、その中身は悪臭を放つ、なにかどろどろした黒々とした毒々しい生き物が入っているにちがいない。
みちおはさくらの背中に飛び掛かった。
そのうんこのように茶色く染まった三つ編みをひっつかんで、引き倒してやろうと思ったのだ。
しかし、それに気づいたボディーガードの男子に軽く投げ飛ばされてしまった。
さくらは、ドスンという音でやっと事態に気がついたのか、地面に情けなく投げ飛ばされたみちおを振り返った。
みちおは、さくらの目から、軽蔑の色しか感じなかった。
「やだこいつ、こんなになっても、勃起してる、きもちわるい!」
さくらは、みちおの股間を指差して笑うと、おしゃれなリボンが付いた赤い靴をぐいぐい押し付けてきた。
さくらの胸がそれに合わせてはみ出しそうに揺れている。
足の先には、スカートの中の白いパンツも見えた。
みちおはこんなときでも、少し気持ちよくなってしまう男性の体を情けなく思った。
さくらは自分の胸とパンツが見られているのに気がつくと、
「あー! ねえ、こいつやっちゃってよ、私をやらしい目でみやがって、おしおきだよ!」
さくらに促され、側で黙って見ていた男子は、みちおの頭を持ち上げて、顔の2、3発殴りつけた。みちおは、ぐったりして、壁にもたれて尻もちを付いた。
「じゃあね、二度と連絡するんじゃねえぞ、ストーカー! キャハハハ!」
みちおはぼんやりとした意識のなかで、路地裏に響くさくらの高笑いを聞いた。
路地裏を出たところで、私はボディーガードの男子に、ごほうびのキスをして、別れた。
──あれだけやれば、きっとみちおは私を……。
そして、私は清風高校の寮への帰り道を、ことさらゆっくりと歩きはじめた。
みちおが先回りできるように、わざとそうしたのだった。
私は、公園のトイレに立ち寄って、いつもの清風高校の制服に着替えた。
やっぱり、お葬式には、高校生の正装、つまり制服でなくちゃと思った。
そして、これで最後になるからと、カフェのオープンテラスに越しかけて、いつか食べようと思っていた、5000円のフルーツパフェを注文した。
頭上のパラソルが私のまわりに日陰を作っている。そして、初夏のやさしい日差しと、涼しい風が、私を通り抜けていく。
緑豊かな街路樹が揺れて、その先には、ところどころに雲が浮かんだ青空が広がっていた。道行くひとも、楽しそうに見えた。
穏やかな土曜の昼下がり。人生最後の日が、こんなにいい天気でよかった!。
私は、運ばれてきた山盛りのフルーツパフェを一口頬張ると、なにもかも忘れて幸せな気持ちになった。
私が清風高校の入口にある桜並木に付いたのは、午後4時過ぎだった。
そういえば、季節は違うけど、私がみちよを殺した時間と同じだった。
私は振り返る。もちろん、そこには誰もいなかった。桜並木の新緑が眩しかった。
私は改めて前を向いて、両手をおへその当たりに重ねるようにして、自分のつま先を見るような感じですこしうつむいて、ゆっくり歩を進めた。
まるで、自分で自分のお葬式を始めるような気持ちだった。
桜並木の中ほどまで来たところで、不意に後ろから両手で首をつかまれた。
苦しくて、声がでない。私の体が意に反してじたばたと抵抗している。苦しい呼吸のなかで振り返ると、それはみちおだった。
私はみちおに仰向けに押し倒された。地面に頭を打って、すこし意識が戻る。
でも、戻った私の意識のなかでは、殺されるという恐怖、助けてほしいという哀願、そして私を殺して来るみちおに対しての憎しみが渦巻いていた。
いくら体をじたばたさせても、男の力には太刀打ちできない。それは、女の美しさに男が遠く及ばないのと同じことだ。
みちおの声がする。なにか大声で叫んでいる。頭がぼんやりして、よく理解できない。
でも、私たちの作戦は成功した。
みちよさんを殺してしまった私は、犯してしまった罪を償うことはできない。
でも、私は折り合いをつけられる方法を見つけた。それは、みちおに私を殺してもらうこと。
それに私は私から離れたかったんだ。自分の頭に日々沸き上がるいろいろな気持ち、感情。
それは私自身で、それから離れ得る方法は、死ぬことしかなかった。
でも、実際に殺されようとしてる今、やっとわかったけど、それはとても怖いものだった。
私は納得して死ねそうにない。正直いうとすこし後悔しているかも。
私は頭上にキラリとひかる金属を見た。多分、東京に来てから買ったのだろう。
私がみちよを刺したのと似たようなサバイバルナイフが、みちおの両手に握られていた。その切っ先はこちらを向いていた。
私の顔はどんなふうだったのだろう。
私がぎゃーぎゃー喚いているのが聞こえる。
顔も涙とよだれで薄化粧も落ちてしまい、ぐちゃぐちゃだろう。
じたばたするから、体のあちこちが擦れて痛い。
私があまりにうるさいのか、みちおは握りこぶしを何発も私の顔面に振り下ろした。とても痛い。痛くて、むしろもう一度こいつを殺してやりたい気持ちになるほどだ。
そして、私が動物のように喚いている中で、みちおはそのナイフを私の心臓に何度も何度も振り下ろした。
それは、まるで神様から私への裁きが下された瞬間に思えた。
私は目を見開いた。
心臓を刺されて、出血がひどくて、脳への血流が止まったのか、視界が白くなってきて、目を開けているのが疲れてきた。
そして、視界が白くなっていくにつれて、ありとあらゆる感情から解放されていく。死ぬ間際に、
最後に、ひと時の安らぎが訪れた。
みちおくん、さようなら。
(つづく)




