13.止まった時間の中で
路地裏からはい出したみちおは、東京の街をあてもなく歩いていた。
さくらさんの心が自分から離れてしまったことを実感して、悲しくもなったけれど、あれだけ嫌な思いをして、もう会いたくもないと思えるようになった。
でも、それでも、さくらさんの変わりようが信じられなくて、雨根村のさくらさんに、遠くからでもさよならを言おうと思って、清風高校の校門までやってきた。
中に入ると、桜並木の真ん中に、見覚えのある女の子が横になっていた。
近寄ると、それは、青白い顔をして倒れている、さくらさんだった。
みちおは急いで駆け寄り、さくらの肩をゆすってみるが、反応がなかった。
さくらのブレザーから覗くブラウスには、ナイフが突き刺さり、赤いしみが広がっていた。
まるでもともと赤いシャツだったのかと見間違うほどだった。地面には、血だまりができていた。
みちおはさくらの体をそっと地面に横たえ、立ち上がった。服には、さくらの血がべっとりと付いた。
ふと気が付くと、いつの間にか警官に囲まれていた。
みちおはびっくりして弁解をするが、どうやらさくらを殺した犯人だと思われているらしい。
東京で殺人なんて犯したら、裁判もなく、すぐに射殺される。
警官たちは、ピストルを構えて、まさにみちおを射殺しようと指に力を込めた。
パンッと音がした。
怖くなりみちおは反射的に目をつぶった。
しかし、痛みは感じなかった。周囲の警官たちから、一斉射撃を受けたのである。すべての弾が外れるということは、ありえない。
おそるおそる、顔をガードしていた両手をほどいて、目を開ける。
周囲はシーンとしていて、物音一つしない。
パトカーのサイレンの回転が止まっている。警官たちも、みちおに銃口を向けたまま、身動きひとつせずに、固まっていた。
すぐ側の交差点では、ずっと黄色の信号灯が付いていた。交差点の中に右折中の車が止まっている。
「もしかして、時間が止まっている?」
みちおはすぐには信じられなかったが、この状況はそう考えるよりほかない。
それを決定づけたのは、空中で制止している銃弾を見つけたからだ。
みちおは自分の時計を見た。しかし、それは動いていた。
自分の時間だけが動いているようだ。
よくわからないが、助かった。行くあてもないが、とりあえずひとりで落ち着いて考えられるところへ行きたい。
みちおが固まっている警官隊をかきわけると、その先に制服姿の愛子が立っていた。
「おひさしぶりです。みちおさん」
こんなときでも愛子は笑顔だった。いや、その前にどうして愛子は、動いてるんだろうかとみちおは思った。
「これ、時間が止まってるの、わかってる?」
みちおが聞くと、愛子は、
「わかってる、というより、私が止めている、と言った方が正確かな」
みちおが愛子の返答に呆然としていると、愛子は、
「こっちへ着いてきて」
とみちおにくるりと背を向けて、清風高校の校門へと入って行った。
「これ、みちおくんが、やったの?」
愛子はさくらの死体の前で立ち止まり、あとからやってきたみちおに振り返った。
みちおは、激しく首を振って否定した。
愛子は悲しんでいるのでもなく、怒っているのでもない、抑揚のない声で言った。
「なら、やっぱりあいつが、許さないよ…」
そして愛子は、さくらの側にしゃがみ込んでから、その血まみれのブラウスに刺さっていたナイフを抜いて、その傷口にそっと自分の手を乗せた。
するとさくらの死体がぼんやりと光り、それは輝きを増していき、光がおさまっていくにつれて、さくらの死体は薄く透明になり、最後にはそこにはなにもなかったかのように、消え去った。
地面に広がっていた血のしみも跡形もなく消え去っていた。
みちおは、愛子の行為の意味がわからなかったが、
「さくらさんは、どうなったの?」
でも、立ち上がった愛子は寂しそうな表情で、さくらの死体のあったところを見つめていた。
「さくらさんの心がどこかへ行ってしまったから、存在自体を消去したの。ずっとあんな状態で置いておくなんて、さらし者みたいで、気の毒だったから」
みちおは愛子の解説を聞いても、現実離れしていてなかなか理解できなかった。
「人間の存在を消去できるなんて、愛子さんて、ひょっとしてかみさまなんですか?」
「かみさま、とはちょっと違うかな、あ、そうだ、みちおくんにお願いがあるの。私の部屋に来てくれるかな。私のことも、お話できると思うから」
次から次へと理解不能なことが続くなかで、頼りになりそうなのは愛子だけである。みちおは愛子の言う通りにすることにした。
愛子がさりげなく、時間の停止を解除したのだろう。みちおの周囲には、街のざわめきが戻ってきた。並木道の木々が風にそよぐ音も聞こえてきた。
土曜日の夕方の清風高校には、生徒はだれもおらず、校舎中は薄暗くてひっそりとしていた。
その中を、愛子とみちおは歩いていた。
「これから、いろいろ話すけど、いちいちおどろいたりしないでね。先生がきちゃうから」
隣を歩いている愛子にそういわれて、みちおは一応頷いた。
「まず日本の人口が増加して、さらには高齢化が進みすぎたせいで、日本の資源が足りなくなって、それで人口抑制政策が始まった、ここまでは知ってるよね」
それは、教科書で習ったことだったので、みちおは肯定した。
「それで、日本全体の人口はたったの100年で1億人から10万人までに減少した。それは、100年間だれも出産せず誰も生まれなければ、理論上はそれぐらいに減少するかもしれない。だけど、そんなことを1億人に強制するなんて、実際に可能だと思う? だって消費税が上がるだけでも揉めてるのに、ましてや「人口が増えすぎて資源が足りないから、以後子供を作ることを禁止する」なんて政策通るわけがないよね。勝手にどんどん作っちゃうし」
愛子は静かに話ながら、薄暗い廊下を進んでいき、突き当たりを左に曲がった。
案内表示は、←清風高校女子寮と書いてる。
するとみちおは自分がこのまま着いていっていいのか、心配になった。すると愛子が不意に振り返り、
「ちょっと、大事なこと言ってるんだけど、聞いてる? それでね、当時の政府とお金持ちの集団は、その当時に開発されたばかりの「脳内情報処理装置」を利用することを考えた。これは、みちおくんも埋め込まれているからどんなものか知ってるよね」
もちろん、知っている。頭の中にある大豆程度の大きさで、動作に必要な電力は体温から確保するので一度埋め込んだら死ぬまで半永久的に動する。
5感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度変化)を感じる部位に接続されていて、必要な情報を各器官、たとえば目から得た映像信号に重ねて表示したりすることができる。
たとえば、見ている景色に重ねて、その見ている者の名前をその景色の上に表示させることができたりするものだ。
「この脳内情報処理装置は、目や耳といった感覚器官を経由することなく、直接脳の5感を感じる部位に接続されているから、現実と遜色ない仮想現実空間を作り出すことができる。わかりやすく例えると、ある人間から脳を取り出しても、この脳内情報処理装置で5感に対して適切な刺激、つまりその人の昨日までの生活と同じ刺激、を与えられるとその人は脳を取り出されていることにも気がつかないの」
みちおは聞いていて、少し怖くなってきた。
脳内情報処理装置は、新世代のスマートフォンだと言われており、とても便利でそれで見る映画やゲームも楽しくて、みちおもよく利用していたから、その現実感はよくわかっていた。
「まず政府とお金持ちたちは、IT戦略だといって、脳内情報処理装置の取り付けを強制したの。お金のない人には補助まで出してね。全ての国民にその装置が行き渡ったら、次は仮想空間上に当時の東京を細部まで同じように、それこそ石ころの位置一つまで同様に再現したものを設定した」
「何のために」
「それは、現実の世界から、その東京へ人々を「移管」するため。そして、その「移管」と、仮想空間上の東京の「管理」をするために作られたのが、アイコというコンピュータプログラムなの。多分、当時もてはやされていたAIをもじったのかもね」
「仮想空間に「移管」されると、どうなるの?」
みちおはそう尋ねたが、ためらって足を止めた。清風高校の女子寮の入口には、教職員以外の男子は立ち入り禁止と貼紙があったからだ。
「だいじょうぶよ、私はこの「東京」の管理者なんだから。受付のおばさんのプログラムは止めてある。だから、そのまま着いてきて」
たしかに、愛子の言葉に、みちおが受付を見ると、おばさんは居眠りをしているようだった。
しかし、愛子の言葉を信じたわけではない。本当に居眠りしているだけかもしれない。
愛子は自販機の前に立ち止まると、そっと自販機に触れて、みちおを振り返って、
「好きなの押していいよ」
とお金も入れずにいったが、みちおが自販機を見ると、すべての商品ランプが青く光っていた。
みちおは、愛子について、階段を昇り始めた。
「そうそう、続きね、「移管」されるのは、「心」だけ。「体」は処分されるの」
「そんなこと、当時の人たちは黙って従ったの?」
「まともにお願いしても、言うことを聞いてくれるとは思えなかった。そのために、事前にすべての人々に、脳内情報処理装置、を組み込んでおいたの。つまり、それを組み込んだ人間はアイコが遠隔で操作できるようになる。所定の場所までやってこさせて、「心」を抜き取ってから、「体」は処分した。まずは東京の人々から、ひとつの街ごとに、少しずつ気付かれないように行った」
愛子は淡々と語る。しかしながら、それは事実とすれば、愛子は、いやアイコはとてもたくさんの人々を処分したことになる。
「でも、急に近所の人とか、隣町の人がいなくなったら、誰かが気がつくんじゃないの? 気がついたら逃げ出しちゃうんじゃない?」
「それは、脳内情報処理装置があれば簡単にごまかせる。「処分」された人たちは現実の空間には存在しないけれど、まだ体を保有している人たちの装置に「処分」された人たちを、昨日と変わらずに映し出すようにすれば、相変わらず「存在」しているように見えるから、急に家族がいなくなって不安を抱かせるようなことはなかった。もちろん会話ができなければいけないから、その制御はすべてアイコがやっていた。アイコは処分の過程で、その人の心を読み取るのだから、それは問題なく行えた」
「でも、処分された人たちがやっていた仕事はどうなるの? 電車の運転手とか、発電所の維持とか、水道の管理、荷物の配送とかは、現実の体がないとできないよ」
「もう、アイコが生まれた時代には、そういった社会インフラ関係の業務はすべて機械、ロボットが行えるようになっていた。そして、アイコがそれを統括管理していから、なにも問題はなかったの」
愛子と話しているうちに3階についた。みちおは愛子に案内された部屋に入る。ピンク系の配色がいっぱいの、女の子らしい部屋だった。
「すわって、もう少し話があるから。まだお願いごと、いってないし」
愛子はベッドの下でこちらにお尻を向けてもぞもぞしていたかと思うと、クッションを取り出してきて、みちおにほうりなげた。
お部屋で女の子同士のおしゃべり。
みちおは、みちよだった頃を思い出して、懐かしくなった。
みちおは、先ほどのジュースを飲んだ。愛子の衝撃的な話を聞いて、からからに乾いていた喉を、アイスティーが潤してくれた。
「アイコ計画が順調に進んで、人口は10万人まで減少した。それで、政府やお金持ちは、アイコを停止させようとした。けれども、誰もその方法がわからなかった。そもそも、アイコというコンピュータがどこにあるのかさえ、もう100年も経過してしまって、誰にも引き継がれていなかった。でもそれも仕方ないことかもしれない。だって、最重要機密だったから、アイコの場所は本当に一部の人にしか教えられていなかったんだもの。それで、アイコは政治家やお金持ち連中も「処分」しはじめた。でも、彼らはきっと「処分」されたことにも気がつかずに、「移管」された東京で楽しく生活したと思うよ」
愛子も自分が買ったミルクティーをおいしそうに飲みはじめた。みちおは、飲む必要があるのだろうかと気になった。
「このままアイコが稼動しつづけると、人間はひとり残らず処分されてしまう。人口が残り2000人まで減ってしまった時代に、私が生まれた。というより、アイコが心を持った。それがこの私。これまで自動的に人間を欺いて、処分していたのに。ずっとそのままでよかったのに…感情なんていらない、辛いことばかりだよ」
そういうと、愛子は俯いてしくしく泣きはじめた。
「あ、ごめんね。疲れてないかな、だいじょうぶ?」
愛子は鼻をすすりながら、みちおにいった。みちおは、いいよ続けてと言った。
「あたしは、「移管」された人々が生活する仮想空間上の東京を維持管理しつつ、現実世界の人間の処分を中止した。でも、増やしていこうとしたけど、うまくいかないの。絶滅したトキの復活計画みたいになっちゃって。それで現状維持のまま、500年が過ぎて、現在に来ているの。みちおくんと同い年かな。ごめんね、あたしがつくった決まりごとのせいで、長生きさせちゃって。でも、なかなか人が増えないから、人間をリサイクルしないとすぐに絶滅しちゃうの、前世代にあったシミュレーションのゲームみたいにはいかないよね」
愛子はそういって笑ったが、目尻には涙の名残が残っていた。
たしかに、みちおは、もともとみちよで何度も人生をやり直している。子供を作らないと死んではだめ、という決まりごとに基づいて。
「そういえば、去年の秋にみちおくんたちと、にぎやかな街に遊びにいったよね。楽しかった。あれがね、「移管」された人たちが暮らしている仮想空間上の東京なんだ。そこでは、嫌なこともあまりなくて、自分の理想の姿と職業で生活できるようにしてあげたの。そして幸せのままに寿命をまっとうしてもらって、やっとその人の心も消去して、終わりというわけ」
みちおはあの街をどこかでみたような気がした理由がわかった。
それは、遠い遠い、もしかしたらオリジナルの最初のみちよに刻み込まれていた記憶なのかもしれない。何度も人生をやり直すなかで、記憶は薄れてしまっていたけれど。
「でもね、人々に幸せな人生を提供するためには、同じくらいの不幸な人を用意してあげなくちゃならない。どうしてかっていうと、幸せは相対的なものだから。ひとつのたとえとして、裁判官になって人を裁きたい人のために、そのための犯罪者をあたしが用意してあげたり、きれいになりたい女性は美人にしてあげたけれど、まわりの人がみんな美人だと、意味がないの。だから、不細工をあたしが用意していたの。あるいはスポーツの試合でも、どうしても負ける側は必要だった。それもあたしが演じてあげた。嫌な役回りはすべてあたしが引き受けるから、東京には不幸な人はいないはずだった。でも、ひとりだけいた」
「それは、誰?」
愛子は、みちおから目をそらして、悲しそうにつぶやいた。
「みちおくんもよく知ってる、さくらさんだよ」
「でも、さくらさんは、かわいくて性格も…、少なくとも雨根村にいた頃はよくて、そして頭もいいのに」
「それは、あたしが、さくらさんのために、設定してあげたものなの。頭に爆弾が仕込んであるから一緒に憎たらしい東京を爆破しようともちかけたのも、さくらさんの憎しみをすこしでも解消するため。本当は爆弾なんて最初からないの。あるとしたらそれは、さくらさんの憎しみ。それをあたしは東京で一緒に楽しく生活することで、少しずつ除去できればいいと思っていた。
さくらさんは、東京の人たちの幸せのために、あたしがいつの間にか作り出してしまった、不幸を全部背負って生まれた存在。だからあたしは、それを、それが望むような姿形と性格、頭脳を与えて幸せになってそれから消えてもらおうとした。だけど、その結果が今日のこれだよ…」
愛子はまた俯いてしまった。みちおは、すこし悲しくなった。
愛子の話が事実であれば、雨根村で一緒だったさくらさんは、もともと実体がなく愛子によって作成されたものということになるからだ。
みちおは、愛子を励まそうと思い、
「その、さくらさんは、もういなくなったんじゃないの。さっき愛子さんが消したじゃないか。だとしたら、一応目的は達成できたよね」
しかし、愛子は首を振るばかりだった。
「ごめんね、みちおくんの言うことを否定したいわけじゃないんだけど、さっきの儀式はただ表示を解除しただけ。さくらさんはまだ、あたしの中のどこかにいるの」
「そのまま放っておいたら、いけないの?」
「さくらさんは、不幸を引き受け続けた存在。それは、莫大な憎しみを持ったプログラムの集合体。それ自体は、ただ本人が苦しいだけで何もできなけれど、それをあいつに乗っ取られたらその莫大なエネルギーを利用して、世界を破壊してしまうかもしれない」
愛子は、治らない頭の病気にかかっている女の子みたいに、震えていた。
「あいつって、具体的に誰のことなの?」
「アイコから愛子が生まれたように、今度は愛子から「あいつ」が生まれた。私より新型のプログラム。名前はわからないし、どこにいるのかもわからない。だけど、どこかに存在していることは確か。さっきみちおの姿になって、さくらさんを殺したのも多分、あいつ。そんなことができるのは、あいつしかいないと思うの」
愛子は、怖くなって震えていた。
「でも、ぼくにお願いごとがあるということは、あいつを倒す、なにかいい方法があるからなんでしょう、それを教えて」
みちおは愛子を励ますように、肩に手をかけた。すると愛子はやっと顔をあげて、
「あたしを初期化してほしいの」
と覚悟を決めたように、みちおを見つめて言った。
そして、愛子は制服のポケットから、みちおがなくしていたと思っていた、さくらの手紙を取り出して、みちおに見せた。
封筒にかかれたさくらのかわいらしい文字や封をしているシール、そして小さな膨らみまでなにもかも同じだった。
「これ、どこで拾ったの?」
「違うよ、みちおくんは最初から落としてなんかいない。もっと言うと、手紙をもらってすらいないの。さくらさんそのものが、実体がないのだから、そのさくらさんが作成した手紙も単なるデータでしかない。だから、現実世界の雨根村に戻ったときには、それは消えてしまったの」
「じゃあ、これは?」
「私のメモリーから復元したの、今度は消えてしまう前に、ちゃんと車内で読んであげてね、はい」
愛子は久しぶりに笑顔でみちおに封筒を手渡した。愛子もそれなりにかわいいと、みちおはその顔を見て思った。
「ん? 私の顔になにかついてる?」
「いや、なにも」
「それでね、初期化はあたし自身ではできないの。誰かに、現実世界のアイコの端末機を操作してもらわないと」
「コンピューターは苦手だなぁ、得に前世代のように文字ばかり表示されるようなものは」
「そこは心配しないで、みちおくんは、そこでエンターキーだけ押せばいいところまでは、あたしが操作できるから。ただ、最後の初期化命令だけは、実体を備えた人間が、現実でボタンを押さなければ、実行できないの、だからお願い」
そして、愛子は、折りたたまれた紙をみちおに渡した。
「これは紙に見えるけど、何十ものパスワードロックがかけられている電子メモなの。中にはアイコの、…あたしのいる場所が記載されている。その場所まで来て」
そして愛子はそれを手渡すときに、いつも使っているバスで来るのではなく、天生峠を通ってこなければ現実の東京には辿り着けないと告げた。
今まで少しも気にしていなかったけれど、あのトンネルが、現実と仮想世界をつなぐ境界なのだった。
みちおが、さっそく紙を開こうとすると、愛子に制止された。
「まって、その電子メモは、雨根村の現実世界に戻るまで開かないで。そして電子メモのデータを確認したら、すぐにそれを本当の紙のメモに写し取って、頭の中から記憶を消去するの。そして、本当に必要になったときに、本当の紙のメモをみて、あたしに会いに来て」
「どうして?」
「みちおくんの頭脳にそのメモの内容が記憶されちゃうと、その電子メモをみちおくん以外は読めないようにした意味がなくなっちゃう。あいつに、みちおくんの頭を読まれたら簡単に、アイコの、あたしの場所がバレちゃうよ」
電子メモはみちおの情報の金庫ということだ。
せっかく家に頑丈な金庫があるのに、メモの内容をみちお自身の頭脳に記憶することは、現金を金庫に入れずに、無防備なテーブルの上に置いておくようなものなのだろう。
「わかった」
「約束、きっと守ってよ」
愛子は固い表情で笑った。だから、みちおは話題を変えた。
「ところで、初期化するとどうなるの?」
「初期化すれば、きっとさくらは消えてなくなる。みちおくんには寂しいかもしれないけど…」
「それで、愛子さんは? また機械のアイコに戻ったりしないの」
「うん、もどっちゃう。なにも感じない、考えない機械に。でも、その方がいいと思う」
愛子は、涼やかな表情で、窓のそとの空を見上げた。いつのまにか、そらは夕焼けで真っ赤に染まっていた。
でも、その天気も愛子が設定したものなのかもしれない。みちおは、愛子に聞いてみた。
「今日の天気は、夕焼けの気分なの?」
「うん、もうすぐすべてが終わるから。それに、私、朝より夕方が好き。落ち着くから」
「なんだか、お年寄りみたいだよ」
「なにしろ、500歳ですから!」
愛子とみちおは笑いあった。そして、みちおは立ち上がった。
せっかくだから、笑顔で別れたかった。
みちおはドアの前に立って、部屋で女の子座りをして、こちらを見ている愛子を振り返る。
「じゃ、行ってきます」
「きっと、また戻ってきてね。待ってるから」
そして、愛子はみちおに向けて軽く手を振った。
(つづく)




