水の戻った畑と求婚
水門を開ける朝、空は薄い雲に覆われていた。
夜明け前から集まった村人たちは、本流の脇に立つ新しい木柵を見つめている。水路の底には、昨日まで積もっていた土や枯れ枝が取り除かれ、石積みの隙間には新しい粘土が詰められていた。
リゼルは手にした記録板を確認した。
「本流の水位、予定どおり。第一分水路、異常なし。第二分水路、石積みの補修完了。第三分水路は、開門後に流量を確認します」
隣でユアンがうなずいた。
「記録係は?」
「マルタさんと、若い耕作者のニルが担当します。水門の開閉時刻を二人で確認し、組合の帳簿に記入します」
「それなら始めよう」
ユアンが木の柄を握り、水門をゆっくり持ち上げた。
最初は、細い流れだった。
濁った水が石の間をすり抜け、乾いた水路の底をなぞっていく。誰も声を上げず、その行方を見守っていた。やがて水は勢いを増し、分水路の奥へ走り出す。ひび割れた土に染み込み、倒れた草を押し分け、長いあいだ眠っていた畑へ向かっていった。
「来た!」
子どもの声が響いた。
畑の端で、若い耕作者が膝をついた。土に触れた指先を、水が薄く包んでいく。別の畑では、年老いた女が両手を合わせていた。水は一つの場所にだけ溜まらず、決められた順番に従って、分水路からさらに細い溝へ分かれていく。
「去年は、ここまで届かなかった」
ニルが呟いた。
「今年も届かないと思って、種を減らそうとしていたんです」
「減らす必要はない」
リゼルは畑の向こうを見ながら言った。
「ただし、今後も水が届くように、組合の記録と手入れを続けましょう。今日の流量も、修繕した箇所も、すべて残します」
「分かっています」
ニルは笑った。
「もう、誰かの言葉だけを信じるつもりはありませんから」
午前のうちに、三つの分水路すべてへ水が行き渡った。
荒れていた畑の土は、少しずつ色を変えていった。乾いた灰色が濃い褐色に戻り、固く閉じていた地面が水を抱える。村人たちは鍬を手に取り、種をまく準備を始めた。
領主館の食堂では、組合の最初の会議が開かれた。
議題は、修繕費の徴収方法と、次の点検日だった。以前なら領主館の奥で決められていたことを、今は大きな机を囲んだ人々が一つずつ話し合っている。
「第三分水路の石積みは、春の増水前にもう一度見直すべきです」
「費用は収穫後にまとめて徴収するのではなく、月ごとに少額を集めた方が負担が軽いでしょう」
「水門の鍵は、領主館ではなく組合の倉庫に置くべきです」
意見はすぐにはまとまらなかった。けれど、誰かの都合で結論を急ぐ者はいなかった。
リゼルは発言を一つずつ書き留め、決まったことと保留したことを分けて記録した。ユアンは彼女の向かいに座り、土地の広い地主にも、土地を借りて耕す者にも、同じように質問をした。
会議が終わる頃には、外は夕暮れになっていた。
「今日は長かったですね」
リゼルが帳簿を閉じると、ユアンが言った。
「長いが、必要な時間だった」
「あなたがそう言うとは、王都へ行く前なら想像できませんでした」
「私もだ」
二人は館の裏手へ出た。遠くの畑には、夕日に照らされた水路が細く光っている。まだ芽も出ていない土の上を、水は静かに流れ続けていた。
ユアンはしばらく黙っていた。
その沈黙が、いつもの言葉を選ぶ時間とは違うことに、リゼルは気づいた。
「何か、規約に追加する条文がありますか」
「君は本当に、何でも契約の話にするな」
「曖昧な話は、あとで争いになります」
「だから、曖昧にしたくない」
ユアンは彼女の前に立った。
領主の家に生まれた者として、彼は多くの決められた道を歩いてきた。土地を守ることも、家名を継ぐことも、政略のために誰かと結ばれることも、自分の意思より先に用意されていたはずだった。
けれど今、彼の手には何も持たれていなかった。飾りの剣も、家紋の入った書状もない。ただ、修繕作業でできた小さな傷と、土の跡だけが残っている。
「リゼル」
「はい」
「私は、君にここで働き続けてほしい。共同運営者としてだけではない」
彼は一度息を吸った。
「君と人生を共にしたい。私と結婚してくれないか」
水路の音が、二人の間を流れた。
リゼルはすぐには答えなかった。
胸の中に浮かんだのは、豪華な指輪でも、領主夫人という呼び名でもなかった。商会の帳簿を前に、役立たずだと言われた日のこと。王都の審理で、ひとりでも記録を読み続けた夜のこと。そして今日、水の流れを確かめながら、村人たちと未来の規則を決めた時間だった。
「条件があります」
ユアンの表情が少し固くなった。
「聞こう」
「私は結婚しても、仕事を辞めません。水路組合の共同運営者であり続けます。記録監査も、交渉も、必要ならあなたと意見が対立する会議も続けます」
「分かっている」
「領主夫人という肩書きだけで、私の判断を決めつけないでください」
「決めつけない」
「それから、私の報酬と裁量を、結婚を理由に変えないこと」
「規約にも、婚姻契約にも書こう」
思わず、リゼルの口元が緩んだ。
「あなたは、私に似てきましたね」
「君がうつした」
「では、最後にもう一つ」
「何だ?」
リゼルは流れる水を振り返った。
「私を守るための求婚ではなく、隣を歩くための求婚なら、受けます」
ユアンは静かにうなずいた。
「隣を歩いてほしい。君が前を歩く日も、私が後ろを歩く日も、同じ道を選びたい」
リゼルは彼に手を差し出した。
「分かりました。受けます」
ユアンはその手を取り、強く握った。
遠くで村人たちの笑い声がした。水の戻った畑には、明日の種が待っている。二人の足元を、細い水路が途切れずに流れていた。
リゼルは思った。
これは誰かに選ばれたということではない。自分が選び、相手も選び、これから何度でも話し合いながら続けていく約束なのだ。
夕暮れの畑に、最初の水が満ちていく。
その流れを見届けてから、二人は並んで領主館へ戻った。




