保健室の先生
雨の日の保健室は、いつもより静かだった。
窓を叩く雨音が、古い校舎全体を包み込んでいる。
薄暗い空。
白い蛍光灯。
薬品と柔軟剤が混ざったような匂い。
保健室だけが、学校から切り離された別世界みたいだった。
「……失礼します」
二年三組の相沢結衣は、小さな声で扉を開けた。
机に向かっていた養護教諭――高瀬涼が、本から顔を上げる。
「どうした?」
落ち着いた低い声。
結衣は視線を逸らした。
「ちょっと頭痛くて……」
「熱は?」
「たぶんないです」
高瀬は立ち上がり、自然な動作で結衣の額へ手を当てる。
ひやりとした掌。
近い距離。
その瞬間、結衣の心臓が不自然なくらい跳ねた。
「……熱はないな」
「ですよね」
「寝不足か?」
「まあ」
高瀬は小さく息を吐いた。
「最近の高校生、夜更かししすぎだろ」
「先生みたいに健康生活してないんで」
「偏見だな」
少し笑う。
その何気ない空気が、結衣には妙に心地よかった。
「少し休んでけ」
保健室の奥。
白いカーテンで仕切られた簡易ベッド。
結衣は制服のスカートを整えながら横になる。
カーテンが閉まる。
雨音が少し近くなった。
その時、ポケットのスマホが震えた。
《今日どうする?》
《ホテル取っとく?》
結衣は一瞬だけ画面を見て、すぐ伏せる。
名前は“健司”。
四十五歳。
既婚者。
営業職。
優しい男だった。
少なくとも最初は。
「可愛いね」
「高校生っぽくない」
「大人びてる」
そんな言葉を何度も言われた。
最初は怖かった。
でも、お金を受け取った瞬間、全部が少しだけ麻痺した。
可愛い服が買えた。
コスメも買えた。
配信者みたいな部屋に憧れて、白いライトも買った。
コンビニバイトだけじゃ絶対に無理だった。
だから自分に言い聞かせた。
──食事だけ。
──みんなやってる。
──別に汚いことじゃない。
そう思わないと、自分が嫌になるから。
「……暗い顔してるな」
結衣はびくっと肩を揺らした。
いつの間にか、高瀬がカーテン越しに丸椅子へ座っていた。
「別に」
「そうは見えない」
優しい声だった。
だから苦しい。
結衣は天井を見つめながら、小さく笑った。
「先生って、生徒のことどこまで助けるんですか」
「できる範囲なら」
「じゃあお金貸してくださいよ」
冗談のつもりだった。
でも高瀬は笑わなかった。
「何があった」
低い声。
結衣は黙る。
沈黙が痛かった。
「……パパ活してます」
言った瞬間、終わったと思った。
気持ち悪いって思われる。
軽蔑される。
説教される。
そう身構えた。
でも高瀬はしばらく黙ったあと、静かに息を吐いただけだった。
「危ない男じゃないのか」
「……今の人は平気です」
「今の、ってことは他にもいたのか」
「別に普通ですよ。みんなやってるし」
強がりだった。
高瀬は机に肘をつき、疲れたように目を閉じる。
「“みんなやってる”は、自分を壊す理由にならない」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
結衣は笑おうとした。
でもうまく笑えない。
「先生には分かんないですよ」
「分からないな」
即答だった。
「でも、分からないから聞いてる」
雨音だけが続く。
やがて高瀬は財布から一万円札を取り出し、机に置いた。
「今日の約束、断れ」
結衣は固まる。
「……え?」
「帰れ」
「先生、それヤバくないですか」
「ヤバいな」
「問題になりますよ」
「なるだろうな」
それでも高瀬は少しだけ笑った。
「それでも、生徒を売るよりマシだ」
その瞬間だった。
張っていた意地が、全部崩れた。
涙がぽろぽろ落ちる。
慌てて顔を隠しても止まらない。
高瀬は何も言わなかった。
ただ静かにティッシュ箱を差し出した。
その日からだった。
結衣が保健室へ通うようになったのは。




