4.決まりごとよりも良心を信じなさい
モノ探しの怪物はヘカッテたちを見つけるなり、おそろしい形相で大きな口を開きました。
そして、たぎる感情を抑えられないのでしょう。鋭い爪をもつ手で自分の頭を何度もかきむしりだしました。その乱暴なふるまいを見て、ヘカッテもカロンも怯んでしまいました。
早く逃げないと。
ヘカッテはとっさにそう思いました。メンテの鳥かごを抱え、カロンの手を引くと、じりじり後ずさりをしていきました。
ヘカッテは魔女です。たとえ見習いであっても魔法で戦うことだって出来ます。けれど、力があるからといっていつでも思いっきり戦えるわけではありません。
コップの水を飲んでしまえばいつかはなくなるように、ヘカッテの魔法の源である魔力も月のしずくがなければいつかはなくなってしまうのです。
それに、限りある魔力はメンテの治療のために使いたいと思っていました。だから、逃げるという選択に、全ての希望を託すことにしたのです。
いきなり走り出さず、刺激をしないようにじりじりと。
ヘカッテはゆっくり後ずさりしていきました。
しかし、よほどお腹がすいていたのでしょうか。モノ探しの怪物は急に吠えだして、飛び掛かってきたのです。
ヘカッテはとっさに魔法を使って身を守ろうとしました。けれど、疲れや焦りがあったのでしょう。魔法も悲鳴も身を守る盾にすらなりませんでした。
このままでは──。
しかし、そんな時でした。
「くらえっ!」
聞き覚えのある可愛い遠吠えが聞こえたかと思うと、ヘカッテを捕まえようとした怪物の腕に、何かが流れ星のようなスピードで突進しました。
驚いて怯む怪物の前に、彼は小さな体で立ちはだかります。
フォベトールです。
一本角を剣のようにかまえ、ヘカッテを守ったのです。
「へへ、オレが相手だ!」
そう言って、フォベトールはおそれることなく怪物に立ち向かっていきました。ヘカッテはぼう然とその様子を見守りました。けれど、すぐに我に返り、立ち上がりました。
いくらフォベトールがやる気になっていたとしても、怪我の具合は完全に良くなったわけではありません。
それに、彼だって悪魔とはいえ見習いなのです。角という武器ひとつでは、力ある怪物に敵うはずがありませんでした。
小さな虫を払いのけるように、怪物はフォベトールの攻撃を弾いてしまいます。その反動で、フォベトールの小さな体は何度も地面に叩きつけられてしまいました。それでも、フォベトールは諦めませんでした。
「ふん、オレは負けず嫌いなんだ」
そう言って飛びかかっていくフォベトールでしたが、ヘカッテから見ても、どう考えても勝てる相手ではありません。
──いけない。
ヘカッテは強く感じました。
──わたしが何とかしなきゃ!
その思いがヘカッテの心からもれだし、しずくのようにぽとりとメンテのいる鳥かごに落ちた時、突然、メンテが歌を奏で始めました。
その歌は、ヘカッテが赤ちゃんの時から聞かされてきた子守歌です。赤ちゃんに眠りをさずけるその音楽は、世界全てを眠らせるかのような力を持っていました。
メンテの子守歌が響くと、怪物もフォベトールも動きをぴたりと止めました。
歌が耳に届くと、ヘカッテの頭に言葉が浮かび上がりました。
──決まりごとよりも良心を信じなさい?
あの手紙の言葉でした。
けれど、ヘカッテは不思議に思いました。
ここでその言葉がどう関係しているのか、分からなったからです。
やがて、再び時は動きだし、怪物の攻撃をひらりとかわしたフォベトールがヘカッテのすぐそばに着地しました。
「決まりごとよりも良心か」
フォベトールは言いました。
「今の、そのお花ちゃんの魔法なのか?
ま、どっちでもいいか。
オレさ、悪魔だから良心ってものはやっぱりよく分かんねえんだ。
けども、決まりごとってのは分かるぜ。父ちゃんや母ちゃんが昔から言ってたんだ。悪魔は簡単に力を貸しちゃいけないって。しっかり対価をもらってから働くんだ。それが決まりなんだってさ。
オレにしてみちゃ、こっちが頼んでもいないお世話や治療なんてもんは対価とはいえねえ。それに、食べ物や薬なんかが釣り合うほど悪魔の力は安くないのさ。そう簡単にゃ、売れないよ。
でもな、その言葉を聞いて、ちょっと思ったんだ。本当に、釣り合わないんだろうかって。いや、その、うーん、うまく言えないんだけど、釣り合わせてもいいんじゃないかって。
なんでだろうな。これが良心ってやつなのか?」
不思議そうに首をかしげ、フォベトールはヘカッテをふり返りました。
「でも、とにかく、言ってみたくなったのさ。世話になったから、手伝ってやるよって」
その瞬間、フォベトールの角がきらきらと輝き始めました。
うっすらとした青い炎が彼の体を包み込んだかと思うと、フォベトールは怪物をにらみつけて吠えました。
「今度こそいくぞ!」
そして、彼が飛び出したその時、きらきらとした星のような光がほこりのように舞い上がりました。ヘカッテはそれをあびながら、腕に抱える鳥かごの中から聞こえるメンテの歌声に耳をかたむけました。フォベトールの言葉と共にヘカッテの心にしみ込んでくるその歌は、ヘカッテに不思議な力を与えます。
奇跡の力。それは、これまでにもヘカッテを数々の困難から救ってくれた魔法でもあります。ヘカッテは深呼吸をし、集中してから冷静に呪文を唱えました。
「暗き迷宮に希望の光を」
その途端、激しい光が発生し、怪物と戦うフォベトールにまとわりつきました。直後、フォベトールの姿はみるみるうちに変化し、見るからに美しい一本角のドラゴンになってしまいました。
それを見た怪物は大あわて。驚いてしりもちをついたかと思うと、そのままいちもくさんに逃げていってしまいました。
ドラゴンになったフォベトールは勝ち誇ったように吠えました。魔法が切れたのは怪物がはるか遠くへと逃げていってしまった後でした。
まだかっこいいドラゴン姿のままのつもりでいたフォベトールが雄叫びをあげる中、ヘカッテは静かに彼の元へと歩み寄りました。
「ありがとう、フォベトール。あなたのおかげで助かったよ」
すると、フォベトールはヘカッテを見あげ、腕を組みました。
「ふん。お礼の言葉なんていらないね。カボチャのスープが飲めるのなら別だけど」
「分かった。お家に帰ったら作ってあげる」
にこりと笑うヘカッテに、カロンがそっと助言をしました。
「作り方も教えてあげたらどうかな。いつでも自分で作れるようになったら、彼もうれしいかもしれないよ」
「作り方? そりゃありがたい!」
よほどうれしかったのか、むじゃきによろこぶフォベトールの姿に、ヘカッテはくすりと笑いました。
それから、月のしずくは何事もなく無事に採取することができました。採取したしずくをその場で飲むと、ヘカッテはさっそくメンテにいやしの魔法をつかいました。きちんと効果がでるかどうかは明日にならなくてはわかりません。けれど、ひとまず安心です。
「大丈夫。ヘカッテの魔法だ。私は信じているよ」
カロンの言葉にはげまされながら、ヘカッテはお家へ帰っていきました。
翌日、みんなの思いが通じたのでしょうか。
メンテはすっかりよくなりました。竪琴の音でかなでるのは昨日聞いたような弱々しい歌ではありません。その音の元気さに、ヘカッテはすっかり安心しました。
「よかったな、お花ちゃん元気になって」
元気になったメンテを前にわきあいあいとしていると、どこからともなく現れたフォベトールが言いました。
「いい話がもう一つあるぜ。なんと、船が直せたんだ」
「船?」
ヘカッテが首をかしげると、カロンがそっと言いました。
「流れ星のことだろう。ここのところずっと直そうとしたからね」
「ああ、その通り。昨日まではどうがんばっても力が足りなかったのに、今日はなんだかすんなりと力が出せたんだ。昨日、怪物を追い払ったあの力のおかげかな。ともかくさ、これでオレ、ちゃんと帰れるよ。だから、お別れを言いに来た」
「もう帰るの?」
驚いてヘカッテが訊ねると、フォベトールはしっぽをいじりながらうなずきました。
「本当なら黙って帰るのが悪魔ってもんなんだけどさ、なんか知んないけどお別れを言っておきたくなったんだよね」
「もうちょっといてもいいのに」
思わすヘカッテはそう言いましたが、メンテが竪琴の音でそれをいさめました。
フォベトールもまた笑いながら答えます。
「これ以上、いたって意味ないもん。それに、また不幸が起こったらやだろ? オレだって、さっさと星渡りしたいんだ。あちこちめぐって、いろんな経験をして、唯一無二の立派な悪魔になるのが夢なんだからさ」
「そっか、それなら仕方ないね」
ヘカッテは納得し、フォベトールに笑いかけました。
「じゃあさ、せめてお見送りさせてよ」
「えー、仕方ないなぁ。特別だぞ」
フォベトールはあきれたように言いました。けれど、その声としっぽの動きにうれしさがにじみ出ていたことは、隠しきれない事実でもありました。
その後、ヘカッテたちはながめの丘へと向かいました。
フォベトールが直したばかりの星はとても美しく、きらきらとかがやいています。フォベトールはバイクにでも乗るようにそれにまたがると、ヘカッテたちをふり返って言いました。
「じゃあな。達者で暮らせよ」
「ばいばい、フォベトール。またいつか会おうね」
「縁があったらな」
そう言ったかと思うと、フォベトールを乗せた星は瞬く間に空の彼方へと飛んでいってしまいました。
あっという間のお別れに、ヘカッテはぼう然と空を見上げていました。残された光の筋だけが、ヘカッテの目にいつまでも焼き付きました。
その日以来、ヘカッテはよく転ぶことも、鍋で頭を打つこともなくなりました。こんなにも失敗とは無縁だったかと思うほど、平穏な日々が訪れたのです。
穏やかな時間の流れにほっとする反面、ヘカッテはふとフォベトールに困らされていた頃の事を思い出し、懐かしさとそこはかとない恋しさを感じたのでした。