暖簾を下ろす日
そんなある日の夕方。
珍しく、藤村の座敷に芸妓や舞妓が集められていた。
そこには、和子の姿もあった。
「お母さん、何どすやろ。」
「こんな時間に珍しいどすなあ。」
皆が顔を見合わせる中、好江は静かに座布団の前へ座った。
いつもの笑顔はなかった。
部屋が静まり返る。
好江は一人ひとりの顔をゆっくり見渡した。
長年苦楽をともにしてきた芸妓たち。
そして、小さな千代子。
しばらく沈黙が続いたあと、好江は静かに口を開く。
「……今日は、みんなに話しておかなあかんことがあるんどす。」
誰も声を出さない。
「うちはな、この藤村の暖簾を……今年限りで下ろそう思う。」
の一言が座敷に落ちると、時間が止まったようだった。
誰一人、すぐには言葉を返せない。
聞き間違いではないかと、皆が好江の顔を見つめていた。
やがて、一人の芸妓が震える声で口を開く。
「……お母さん、それ、どういうことどす?」
好江は静かに頷いた。
「そのままの意味どす。」
部屋には重い沈黙が流れる。
和子も息を呑んだまま、好江を見つめていた。
好江はゆっくりと話し始める。
「戦争が終わってから、藤村はほんまに苦しい時代を歩いてきました。あの頃は、明日の米にも困る毎日やった。借金を抱えて、この暖簾を守れるかどうか、そればかり考えて生きてきました。」
静かな声だった。
だが、その一言一言には、誰にも見せなかった年月の重みが滲んでいた。
「せやけど、朝鮮の戦のおかげで街にも人が戻り、藤村もようやく息を吹き返しました。借金も、世話になった人への恩も、みんな返すことができました。」
そう言って、好江は穏やかに微笑む。
「今やったら、誰にも迷惑をかけんと暖簾を下ろせます。」
その笑顔には、不思議と悔いはなかった。
「お母さん……。」
舞妓の一人が思わず目を潤ませる。
好江は首を横に振った。
「悲しむ話やあらしまへん。店にも人にも、役目があります。うちも、もう若い頃みたいに走り回ることはできしまへん。最近は階段を上るだけでも息が切れるようになってしもうた。」
その言葉に、小さな笑いが起こる。
けれど、その笑いはすぐに静けさへと戻った。
「それにな……。」
好江は障子の向こうへ目を向ける。
夕暮れの光が、部屋を柔らかく染めていた。
「芸妓の世界も、少しずつ変わってきました。若い娘さんの生き方も変わりました。昔みたいに置屋へ入る子も少のうなってきています。時代は、少しずつ次の世代へ歩き始めています。」
再び皆を見渡す。
その眼差しは、女将ではなく、一人ひとりの人生を見守ってきた母親のように優しかった。
「この暖簾は、先代から受け継いだ藤村の看板どす。うち一人のもんやおへん。せやからこそ、無理に傷つけるような終わり方だけはしたくありません。」
好江は背筋を伸ばした。
「せやから、笑うて暖簾を下ろします。『ええ店やったなあ』と、みんなに言うてもろうて終わる。それが、うちの願いや。」
座敷は再び静まり返った。
「もちろん、みんなのことは何も心配いりまへん。残ってくれてる芸妓はんも舞妓はんも、それぞれ安心して芸を続けられるよう、梅野はんや松島はんへお願いしてあります。どこのお母さんも、『藤村さんの子やったら、よう面倒見させてもらいます』と言うてくらはりました。」
好江は和子に目を移す。
和子は、真っ直ぐ好江を見つめた。
「かこちゃんも心配いりまへん。働き口をお願いしてあります。とにかく、長う藤村を支えてくれた人らに、路頭に迷うような思いだけは、決してさせとうありません。急な話や思われるかもしれしまへんけど、このことは、うちなりにずっと考えてきたことどす。誰一人、行き場のないようなことにはさせしまへん。それだけは、女将として最後まで責任を持ちます。」
その言葉に、張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。
芸妓たちは互いに顔を見合わせ、小さく頷く。
好江は、誰よりも先に、自分たちのこれからを考えていてくれたのだ。
その思いが、静かに皆の胸へ届いていた。
和子は膝の上で手をぎゅっと握りしめる。
あの日、幼い千代子の手を引き、この暖簾をくぐった自分を思い出していた。
行き場を失っていた母娘を、藤村は静かに迎え入れてくれた。
この家がなければ、今の自分はいなかった。
だからこそ、胸の奥で何かが静かにほどけていくような寂しさを覚えていた。
夕暮れの光は、座敷の畳をゆっくりと茜色に染めていた。




