二つの願い
館内が、ゆっくりと明るくなった。
夢のような舞台の時間が終わる。
観客たちは、名残惜しそうに席を立ち始める。
着物の色が、静かな館内を行き交う。
楽しそうな声。
舞台への感想。
春の夜のような柔らかな空気が広がっていた。
しかし、カートと山本は、まだ席に座ったままだった。
誰もいなくなり始めた客席。
舞台には、先ほどまで響いていた三味線の余韻が残っているようだった。
カートは、静かに舞台を見つめていた。
そして。
小さな声で呟いた。
“Japan has become peaceful again. I’m glad.”
(日本は……平和になって良かった)
山本は静かに頷いた。
“Yes…”
(はい……)
短い返事だった。
でも、その言葉には多くの時間が含まれていた。
戦争を経験した人々。
失われた命。
焼け跡になった町。
そして、そこから立ち上がった今の日本。
カートは、しばらく黙って舞台を見ていた。
やがて。
ゆっくりと言葉を続ける。
“Somehow……I feel that maybe I fought to bring peace to Japan.”
(何か……私は、日本を平和にする為に戦ったのかもしれません)
山本は、思わずカートを見る。
“……Cart.”
(……カートさん)
驚きが混じった声だった。
カートは静かに微笑む。
けれど、その目には遠い日の記憶が浮かんでいた。
“During the war, I never had the time to think about such things.”
(戦争の時は……そんなことを考える余裕はありませんでした)
“I was only trying to survive.”
(ただ、生きることだけでした)
“I looked at the enemy… and I only knew that I had to pull the trigger.”
(敵を見て、撃つことだけでした)
少し間を置く。
“But……”
(でも……)
カートは、明るくなった舞台を見る。
“When I saw this place today, I realized something.”
(今日、この場所を見て思いました)
“Japan still has something so beautiful.”
(日本には、こんな美しいものが残っている)
“People can smile, listen to music, and watch a dance.”
(人が笑って、音楽を聴いて、舞を見る)
“That is something that can only exist because there is peace.”
(それは……平和だからできることです)
山本は黙って聞いていた。
すると。
カートは少し寂しそうに続ける。
“But……”
(でも……)
“My country will probably continue to fight.”
(私の国は、おそらくこれからも戦い続けるでしょう)
その言葉に。
山本は静かに顔を上げた。
カートは遠くを見るような目をした。
“That is why……”
(だから……)
少し微笑む。
“I envy Japan.”
(日本が羨ましいです)
山本は、すぐには答えられなかった。
目の前にいるのは、かつて戦った相手ではなかった。
戦争を経験し。
失ったものを抱え。
それでも平和を願う、一人の人間だった。
山本は静かに頷く。
“What you saw here today……”
(今日、ここで見たものは……)
“Maybe this is what you were truly trying to protect.”
(きっと、あなたが守りたかったものなのかもしれません)
カートは、その言葉を聞いて。
もう一度、静かに舞台を見る。
そこには何もない。
確かに、先ほどまでの音と光が残っていた。
春の京都。
先斗町の舞台。
そして。
五年前の雪の夜から続く約束。
カートは小さく息を吐いた。
長い旅の終わりに。
ようやく見つけたものがあった。
それは勝利でも。
名誉でもない。
ただ。
人が平和に生きる姿だった。
山本は、しばらく何も言わなかった。
静かな館内。
山本は、ゆっくりとカートを見る。
“……Cart.”
(……カートさん)
カートが顔を向ける。
山本は、まっすぐに彼を見る。
“Again…”
「また……」
少し間を置く。
“To see this beautiful scenery once more…Please, come back alive. Promise me.”
「この美しい景色を見る為に、お願いです、生きて帰ってきて下さい 約束してください)
それは、友としての願いだった。
カートは、黙って山本を見る。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
“Yes… I promise. I will come back.”
(はい……約束します。必ず戻ります)
山本は、その言葉を聞いて静かに頷いた。
やがて。
二人は、ゆっくりと席を立った。
先ほどまで多くの人の拍手に包まれていた場所が、静かに佇んでいた。
山本は出口へ向かいながら、ふと思い出したように言った。
“……Cart.”
(……カートさん)
カートが振り向く。
山本は微笑む。
“You’ll go and see Kazuko before you leave, won’t you?”
(和子さんに……会っていかれるでしょう)
その言葉に。
カートは少しだけ間を置いた。
そして。
静かに首を横に振った。
“No…”
(いいえ)
山本は驚いた顔をする。
“Why?”
(なぜ?)
カートは、少し笑った。
そして、小さな声で言う。
“If I see her…”
(会うと……)
少し照れたように。
“Because then… I won’t be able to go to Korea.”
(朝鮮に行けなくなりますから)
山本は一瞬黙る。
そして。
その言葉の奥にある気持ちを感じ取り、静かに微笑んだ。
冗談のように言ったカート。
しかし、それは本当の気持ちでもあった。
もう一度、和子の顔を見れば。
この場所の温かさに触れれば。
戦場へ向かう決意が揺らぐ。
カート自身が、それを分かっていた。
少し歩いたところで。
カートが足を止める。
“But…”
(でも……)
山本を見る。
“There are two things I would like to ask of you.”
(あなたに二つお願いしたいことがあります)
山本は頷く。
“Two things? What are they?”
(二つ?何でしょうか)
カートは、ゆっくりと上着のポケットに手を入れる。
そして。
一枚の写真を取り出した。
山本は、その写真を見た瞬間。
息を止めた。
そこに写っていたのは。
五年前。
雪の降るクリスマスの夜。
あの時の写真だった。
真っ直ぐと前を見つめた和子。
そして。
隣で微笑んでいるカート。
二人が過ごした、短い時間の記憶。
山本は静かに写真を見る。
カートは、その写真を大切そうに見つめた。
“The first one is this…”
(一つ目は、これを……)
少し間を置いて。
“Please give this to her.”
(彼女に渡して下さい)
山本は、ゆっくり頷く。
その時、カートは、思いついた様にポケットから万年筆を取り出した。
写真を裏返す。
そして。
しばらく考えるように筆を止める。
やがて。
静かに文字を書いた。
―― Merry Christmas, Princess.
(メリークリスマス プリンセス)
書き終えると。
カートは、少し微笑んだ。
それは、まだ何も約束されていなかった二人の時間に戻ったような笑顔だった。
カートは写真を山本へ差し出す。
「お願いします」
山本は、両手で受け取った。
“And the second one…”
(そして、二つ目は)
“When the war in Korea is over, please tell her this.”
(朝鮮での戦争が終わったら)
“Let’s meet again on that bridge over the Takase River.”
(また、あの高瀬川の橋の上で会いましょう。と伝えて下さい)
山本は、カートの目を見つめて静かに頷いた。
静かな先斗町歌舞練場。
春の夜。
カートは振り返る。
そこにはもう、和子はいない。
けれど。
心の中には。
あの雪の夜と、今日の舞台が残っていた。
そして。
カートは山本と共に、ゆっくりと出口へ向かった。




