時を越える舞台
その夜。
置屋「藤村」。
帳場の灯りだけが静かに残っていた。
好江は一人、帳面を閉じる。
今日の稽古。
和子の舞。
琴の唄と三味線。
二人の音が重なった瞬間を思い出していた。
「……」
好江は小さく息を吐く。
戦地へと旅立つ遠い異国から来た人に、もう一度舞を見せたい。
和子はそう願っている。
でも、ただ見てもらうだけでええんやろか。
好江は首を横に振った。
五年前。
戦争が終わったばかりの京都。
何もかもが失われたような時代。
それでも、この子は舞を忘れなかった。
誰かの心に届けるために。
その舞を。
最後の舞台にするなら。
相応しい場所がある。
「歌舞練場……」
好江は静かに呟いた。
翌朝。
好江は先斗町の検番を訪ねた。
「ちょっと、お願いがあって寄せて頂きました」
相手は少し驚いた顔をした。
「お願い……でどすか」
好江は少し間を置いた。
「舞台を一つ、貸していただけませんやろか」
相手は驚く。
「舞台を?」
「はい」
好江は続ける。
「うちのところの子に、舞わせてやりたいんどす」
「お座敷ではなく……どすか?」
好江は頷いた。
「実は……」
長年、花街で生きてきた者同士。
言葉にしなくても、京都の芸を守る苦労は分かっていた。
その日の昼下がり。
藤村の稽古場。
和子と琴が稽古をしていた。
そこへ好江が入ってくる。
「二人とも」
和子と琴が振り向く。
「はい」
好江はいつものように静かな顔をしていた。
「舞台が決まりましたえ」
琴が目を丸くする。
「舞台?」
和子も驚いた表情をする。
好江はゆっくり告げる。
「先斗町歌舞練場です」
一瞬。
二人は言葉を失った。
「……歌舞練場」
和子が小さく繰り返す。
そこは。
京都の芸が受け継がれてきた場所。
大きな舞台。
自分たちにはまだ遠いと思っていた場所。
琴は緊張した顔になる。
「うち……大丈夫でしょうか」
好江は微笑む。
「大丈夫かどうかやない」
「届けるんやろ?」
その言葉に。
和子は静かに頷いた。
琴も顔を上げる。
「はい」
好江は二人を見る。
そして。
また三味線の音が響き始めた。
先斗町歌舞練場。
その舞台へ向けて。
二人の最後の稽古が始まった。
細い路地を歩く美砂子は、一つの建物の前で足を止めた。
先斗町歌舞練場。
歴史を重ねてきたその佇まい。
入口から見える灯り。
静かに息づく京都の芸の場所。
美砂子は、しばらく動かなかった。
「ここで……」
小さく呟く。
戸籍謄本に書かれた名前が、ただの記録ではなく、誰かの人生へ続く道しるべだった。
でも、まだ知らない、過去の繋がりを。
美砂子は建物を見上げる。
時代を越えて。
多くの人の想いを受け止めてきた場所。
なぜだろう。
初めて来たはずなのに。
どこか懐かしい。
そんな気がした。
春の風が、先斗町の路地を抜けていく。
美砂子は静かに目を閉じた。
遠い昔。
この場所で響いた三味線の音が。
今もどこかに残っているような気がした。
そして、美砂子は舞台へと歩を進めた。




