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第13話:近すぎる指先


 朝、窓を開けると、雨の匂いがした。

 空は曇っていて、光が弱い。

 こういう日は、まふゆの機嫌が悪くなる。


「……起きたくない」

「知ってる。起きろ」

「……五分」

「三分」

「……四分」

「駄目」


 結局、力ずくで布団から引きずり出した。


 朝食はおにぎりと味噌汁。

 まふゆは梅干しを避けて、鮭だけ先に食べる。

 俺がじっと見ていると、観念したように梅干しを口に入れた。

 酸っぱさに顔をしかめる表情が、子供みたいで笑える。


「笑うな」

「笑ってない」

「口角、上がってる」


 バレた。


 制服に着替えて、家を出る。

 雨は降っていないが、空気が湿っている。

 傘を持っていくか迷って、折りたたみを鞄に入れた。


 ---


 校門の前に、雫がいた。

 昨日と同じ場所。同じ姿勢。

 まるで彫刻みたいに動かない。


 今日は素通りできると思った。

 ネクタイは締めた。髪も整えた。制服に乱れはない。

 だが、雫は俺たちの前で足を止めた。


「朝凪」


 真冬が呼ばれた。


「リボンが緩い」


 嘘だ。

 今朝、俺が結んだ。

 いつもと同じ結び方で、同じ強さで締めた。

 緩いはずがない。


 だが、雫は真冬の胸元に手を伸ばした。

 細い指がリボンに触れ、結び目を引き直す。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 触るな。

 そのリボンは俺が結んだ。

 お前が触っていい場所じゃない。


 拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込む。

 痛みで、かろうじて理性を保った。


 雫の指先が、真冬の肌に近い場所に触れている。

 ただそれだけのことなのに、肢体の奥から何かが起ち上がってくる。

 生理的な嫌悪感。

 俺以外の人間が、まふゆに触れることへの——原始的な、拒絶反応。

 理性でどうにかなるものじゃない。

 体の芯が、『違う』と叫んでいる。


「……ありがとうございます」


 真冬は無表情のまま礼を言った。

 雫は短く頷き、次の生徒へ向かった。


 俺はその背中を見送りながら、自分の感情に驚いていた。

 嫉妬。

 独占欲。

 そういう言葉が、頭の中を駆け巡る。


 まふゆのリボンを他人が触った。

 それだけのことで、こんなに胸が痛い。


 教室に入ると、翔太が笑顔で近づいてきた。


「雫さん、今日も絶好調だな。朝凪さんのリボン直してたぞ」

「……見てたのか」

「そりゃ見るだろ。あの二人が向かい合ってるの、絵になるし」


 翔太は何も知らない。

 だから、無邪気に笑える。

 俺は曖昧に頷いて、自分の席についた。


 授業が始まっても、集中できなかった。

 雫の指が真冬のリボンに触れた瞬間が、何度も頭の中で再生される。

 あの指は冷たかった。

 俺の指よりも、ずっと。


 昼休み、弁当を開いた。

 今日から、おかずを変えてある。

 俺の方にはウインナー、まふゆの方にはミートボール。

 それだけの違いで、「同じ弁当」には見えなくなる。


 翔太が覗き込んできたが、「お前の弁当、今日は肉々しいな」と言っただけだった。

 作戦成功。


 だが、安堵もつかの間。

 背中側で、女子の声が聞こえた。


「朝凪さん、今日もお弁当なんだ」

「……ええ」

「自分で作ってるの? すごいね」


 真冬は短く「ええ」とだけ答えた。

 嘘ではない。「自分で作っている」とは言っていない。

 だが、相手はそう解釈するだろう。


 こういう細かい嘘の積み重ねで、俺たちは日常を守っている。


 放課後、雨が降り始めた。

 折りたたみ傘を持ってきて正解だった。


 校門を出ると、真冬が立ち止まっていた。

 傘を持っていない。


 拘りたい。

 「帰ろう」と声をかけたい。

 一本の傘で、肩を寄せ合って帰りたい。

 でも、それは——「俺たち」を終わらせる行動だ。

 校門の周りには、まだ他の生徒が何人かいる。


 俺は傘を握りしめ、そのまま歩き出した。

 ここで傘を貸したら、「関係がある」と見られる。

 それは避けなければならない。

 彼女を守るために、彼女を置き去りにする。

 矛盾だ。最低だ。でも、それしかできない。


 だが、数歩進んだところで、別の声が聞こえた。


「朝凪さん、傘は?」


 雫だった。

 彼女は黒い傘を差しながら、真冬の横に立っていた。


「……忘れました」

「駅まで送ろう。方向は同じだ」


 真冬は一瞬だけ俺の方を見た。

 目が合う。

 その瞳の奥に、微かな揺らぎが見えた。


 ——湊と帰りたかった。


 そう言っているような、目だった。

 でも、それを口に出すことはできない。

 彼女の視線が、一瞬だけ俺の手にある折りたたみ傘を掠った。

 そして、すぐに雫の方へ戻った。


「……お願いします」


 彼女の声は、いつもの「氷の女王」だった。

 でも、その一瞬の視線の動きを、俺は見逃さなかった。

 「行っていい?」と聞いているような目だった。

 俺は小さく頷いた。

 断る理由がない。

 断ったら、逆に怪しまれる。


 雫と真冬が、一本の傘の下で歩いていく。

 黒い傘の下、真冬の銀髪だけが光っている。

 俺は傘も差さずに、その後ろ姿を見送った。


 ふと、自分の手が動いているのに気づいた。

 指が、空中で何かを結ぶような動作をしている。

 無意識だった。何をしているのか理解するのに、数秒かかった。

 ——リボンを結ぶ動作だ。

 今朝、まふゆの胸元でやった動作を、俺の指が勝手になぞっていた。

 彼女がいないのに。彼女のリボンなんてここにないのに。

 執着が、体に染みついている。


 俺は慌てて手を下ろした。


 雨が顔を打つ。

 冷たい。

 痛いほどに、冷たい。


 あの傘の下に、俺はいない。

 俺の場所に、今は雫がいる。

 彼女を守るために、自分が一番近くにいてはいけない——その矛盾が、雨粒と一緒に肌に染み込んでくる。


 濡れていく。

 服が濡れる。髪が濡れる。

 でも、一番濡れているのは、たぶん心の方だ。


 二人の姿が、雨の向こうに霞んでいく。

 消えるまで、俺はずっと立ち尽くしていた。

 雨に打たれながら、置いていかれる虚無感だけを抱えて。


 ---


 アパートに着くと、真冬はまだ帰っていなかった。

 当然だ。雫と一緒に駅まで行ったのだから。


 俺は一人で部屋に入り、濡れた傘を玄関に立てかけた。

 静かすぎる。

 いつもなら、ここで「おかえり」と言われる。

 検閲があり、上書きがある。

 その儀式がないだけで、こんなに落ち着かない。


 三十分後、玄関のドアが開いた。


「……ただいま」


 まふゆが立っていた。

 髪が少し濡れている。

 雫の傘は、完全には防げなかったらしい。


「おかえり」

「……」


 まふゆは靴を脱ぐと、真っ直ぐ俺の方へ来た。

 そして、無言で抱きついた。


「……検閲は?」

「あとで。先に、上書き」


 いつもと順番が違う。

 でも、俺は何も言わずに彼女を抱きしめた。


 しばらくそのままでいると、まふゆが小さく呟いた。


「……雫、優しかった」

「そうか」

「でも、怖かった」

「何が?」

「……雫といると、湊の匂いが薄くなる」


 その言葉で、胸の痛みが少し和らいだ。

 俺だけじゃない。

 彼女も同じことを感じていた。


「じゃあ、たくさん上書きする」

「……うん」


 抱きしめる力を強くすると、まふゆが小さく笑った。


 夕飯の準備をしながら、今日のことを考えた。

 雫は敵なのか。

 それとも、ただの風紀委員長なのか。


 真冬に傘を貸したのは、親切だったのかもしれない。

 でも、あの冷たい目の奥に、何か別の意図がある気がしてならない。


 鍋に火を入れると、玉ねぎが甘い匂いを立てた。

 まふゆがテーブルに箸を並べながら、こちらを見ている。


「……湊」

「ん?」

「今朝のリボン、雫に直された」

「知ってる」

「……嫌だった?」


 俺は鍋をかき混ぜながら、正直に答えた。


「嫌だった」

「……私も」


 まふゆは椅子に座り、テーブルに頬杖をついた。

 その姿勢が、学校の「朝凪真冬」からは想像できないほど力が抜けている。


「明日から、リボンはもっとしっかり結ぶ。雫に触られないように」

「……うん」


 小さな約束が、また一つ増えた。


 夕飯のあと、ソファに並んで座る。

 まふゆは俺の膝に頭を乗せ、目を閉じた。


「……おやすみの充電」

「まだ早いだろ」

「今日は早めがいい」


 俺は彼女の髪を撫でながら、雫の黒い傘を思い出していた。

 あの傘の下で、二人は何を話したのだろう。

 聞きたいような、聞きたくないような。


「……雫と、何か話した?」

「少しだけ」

「何を?」

「……『一人暮らしは大変か』って」


 心臓が跳ねた。


「何て答えた?」

「『慣れました』って」

「……そうか」


 嘘ではない。

 でも、真実でもない。

 一人暮らしじゃないのだから。


 雫は何を探っている?

 俺たちの関係を疑っているのか。

 それとも、別の何かがあるのか。


「……他には?」


 俺は聞かずにいられなかった。


「……『困ったことがあれば、風紀委員会に相談しろ』って」

「それだけ?」

「……あと、『一人で抱え込むな』って」


 まふゆの声が、小さくなった。


「……変なこと言わなかった? 雫が」

「言わなかった。でも……」

「でも?」

「……雫の目、寂しそうだった」


 予想外の言葉に、俺は眉を寄せた。

 まふゆは窓の外を見ながら、続けた。


「私を見る目が、監視っていうより……昔の自分を見てるみたいな目だった」


 その言葉が、引っかかった。

 雫の過去の噂——中学時代、誰かを守れなかった。

 もしそれが本当なら、彼女は今、何を見ている?


 答えは出ないまま、夜が深くなっていった。


 まふゆの寝息が深くなる。

 俺は彼女の髪を撫でながら、明日のリボンの結び方を考えていた。

 もっと固く。

 誰にも直させないくらい、完璧に。


 それが、俺にできる精一杯の抵抗だった。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

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