第13話:包囲網せばまる
冬月雫という人間は、風紀委員である前に——オタクだ。
月曜の朝。教室に入った瞬間、俺の机の上にA4サイズのレポートが置かれていた。表紙にはゴシック体で「朝凪まふゆ・夏目湊 関係性調査報告書(中間)」と印字されている。中間って何だ。完成版があるのか。
「冬月」
「何でしょう」
「これ、何だ」
「証拠です」
冬月がノートPCを開いた。パワーポイントのスライドが表示される。タイトル「半同棲疑惑に関する定量分析」。
——定量分析。
「まず証拠①」
スライドが切り替わる。折れ線グラフ。横軸は日付、縦軸は時刻。
「過去三週間の登校時刻を記録しました。夏目くんと朝凪さんの校門通過時刻の差は、平均一分二十三秒。標準偏差は18秒。偶然でこのような一致は統計的にありえません」
標準偏差まで出してるのか。
——いや、待て。この女、第十話で「調査完了、問題なし」って言ったんじゃなかったか。
「証拠②」
スライドが切り替わる。写真。俺の弁当。
「夏目くんの弁当の品数です。一般的な男子高校生の弁当は平均三品。しかし夏目くんの弁当は常に五品以上。しかもブロッコリーのごま和えが毎回入っています」
——あれはまふゆの好物だ。弁当箱を分けて持っていくわけにもいかないから、自分の弁当に入れて昼に渡す分を確保している。
「これは『二人分を想定した調理』の証拠です」
「俺が健康志向なだけだ」
「証拠③」
冬月がすっ、と俺に近づいた。
鼻をひくつかせる。
「匂い」
「え」
「夏目くん、朝凪さんと同じ柔軟剤を使っています。ファーファのフローラルブーケ」
——よくそこまで特定できるな。
「同じスーパーで同じ商品を買っている。つまり——」
「冬月」
「はい」
「俺と朝凪は幼馴染で、たまたま近くに住んでるだけだ。柔軟剤くらいかぶることもある」
冬月の眼鏡がきらりと光った。
「以前は『偶然です』と仰いました。『たまたま』と『偶然』。語彙を変えたのは——心理学的に、嘘の反復で無意識に表現を変える防衛機制の表れです」
怖い。この女、怖い。
——だが、俺は気づいていた。
冬月のプレゼン、完璧に見えてどこかおかしい。
グラフのスケールが微妙に見づらい。写真の弁当も、五品あるけど二人分に見える角度では撮っていない。証拠としては決定打に欠ける——いや、「わざと」決定打を外している?
俺が考え込んでいると、教室の後ろのドアが開いた。
「おっはよー! うっわ、なに委員長、朝からプレゼン? 朝礼まだだぞー」
翔太。救世主。
「伊集院くん、今は重要な聴取中です」
「聴取って、夏目に何やらかした? 万引き?」
「万引きではありません。もっと重大な——」
「重大? 殺人?」
「殺人でもありません!」
翔太が俺と冬月の間にすっと入り込んだ。
「てか委員長さ、夏目はうちの近くに住んでんだよ。俺のアパートの二軒隣。登校時間が被るのは当たり前」
「……二軒隣?」
「おう。だから弁当の材料もだいたい同じスーパーで買ってんの。柔軟剤もそのスーパーのセール品だから被るんだろ」
嘘だ。翔太のアパートは学校の反対側にある。
でも翔太は何食わぬ顔で冬月にスマホの画面を見せた。地図アプリ。——ピンの位置が俺のアパートの近くに打ってある。いつの間に用意したんだこれ。
「ほら、この辺。夏目ん家はこの辺で、俺はここ」
「……」
冬月が眼鏡を押し上げた。
翔太の証言を分析している——ように見えた。が、眼鏡の奥の目が一瞬、緩んだ。安堵。
俺はそれを見逃さなかった。
「伊集院くん。あなたは夏目くんの友人として、彼を庇っている可能性は?」
「庇う?」
「共犯の可能性を排除できません」
「共犯って、だから何の犯罪だよ」
翔太が笑いながら冬月の肩をぽんと叩いた。
冬月の体がびくっと硬直した。
「肩に触らないでください」
「悪い悪い。でもさ、委員長。男女が近くに住んでるだけで犯罪って、それ風紀じゃなくて冤罪だろ」
「……」
冬月は無言で眼鏡を拭いた。
「……シロ、とは言い切れません。引き続き監視を続けます」
——その台詞を聞いた瞬間、確信に変わった。
冬月は「シロとは言い切れない」と言い、「クロだ」とは言わなかった。
あの目覚めの後の冬月なら、本気でクロにしたいなら確実に追い詰められる。登校経路の完全一致データ、アパートの住民票照合、監視カメラの解析——あいつの調査能力なら全部できる。なのに、やっていない。
これは捜査じゃない。
——捜査のフリをした、防衛線だ。
冬月が「調査中です」と宣言し続ける限り、他の風紀委員は独自に動けない。部下の川村が張り切って調査を始めようとしても「すでに私が担当しています」で抑え込める。
「好きにしろよ。でも行き過ぎたら俺が止めるからな、委員長」
翔太がにっと笑った。
冬月の眉がぴくりと動いた。
——そこに、チャイムが鳴った。
翔太が自分の席に戻りがけに、俺の肩を叩いた。
小声で囁く。
「お前、何も言うなよ。俺は別に何も聞いてねえし」
「……助かった」
「おう。でもな、嘘つくの下手すぎだぞお前。もうちょいポーカーフェイス鍛えろ」
翔太が去った後、俺は席について考えた。
冬月は敵じゃない。たぶん、最初から——いや、あの『覚醒』の日から。
だが、風紀委員長としての立場がある。「問題なし」で済ませたら、いつか別の誰かが疑問を持つ。だから「継続監視中」というステータスを維持し続ける。
包囲網のふりをした、保護網。
——と思った瞬間。
一時間目の休み時間。廊下で冬月がまふゆを呼び止めた。
俺は教室の窓際から、廊下の光景を盗み見ている。
「朝凪さん」
「……何でしょうか」
氷の女王モード。完璧な冷たさ。
「単刀直入に聞きます。あなたと夏目くんは、同棲していますか」
直球すぎるだろ。
——いや、待て。これもわざとか?
まふゆは一拍の間も空けなかった。
「……していません」
無表情。視線は冬月の眼鏡のフレームを見ている。瞳孔は動かない。呼吸も変わらない。
「では、なぜ毎朝ほぼ同じ時間に登校するのですか」
「……近くに住んでいるからです。以前もお伝えしました」
「柔軟剤が同じ理由は」
「……同じスーパーを利用しているからです。セール品を選びます」
「夏目くんの弁当にあなたの好物が入っている理由は」
「……知りません。彼の弁当の中身は存じ上げません」
鉄壁。
完璧なポーカーフェイスだ。
冬月が一歩踏み込んだ。
「朝凪さん。あなたの目には、嘘の兆候が見えません」
「……嘘ではないからです」
それは嘘だ。全部嘘だ。でも、まふゆの「氷の女王」モードは、元々「本当の自分を隠す」ために構築されたペルソナだ。嘘を吐くことに関しては、十五年のキャリアがある。
冬月は黙って数秒間まふゆの目を見つめた。
そして——小さく、本当に小さくため息をついた。
そのため息は、落胆じゃなかった。
安堵だった。
「……分かりました。今日のところは」
冬月が去り際、一瞬だけ立ち止まった。
まふゆには聞こえない距離で、小さく呟いた。
「……鉄壁ですね。流石です」
——その声に、微かな敬意が混じっていた。
冬月が去った後。
まふゆが廊下の角を曲がった。
——俺の教室の窓の下を通り過ぎる瞬間。
横目で、ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
唇が動いた。
読唇——「しのいだ」。
表情は変わらない。でも、唇の端が0.1ミリだけ上がった。
——たぶん、俺にしか分からない角度で。
昼休み。
弁当を食べながら、翔太が横に座った。
「なあ夏目」
「ん」
「俺はお前に何も聞かねえよ。聞かねえけどさ」
翔太が俺の弁当を覗き込んだ。
ブロッコリーのごま和え。肉巻き。卵焼き(少し甘め)。ミニトマト。鶏の照り焼き。
「五品あるな」
「……食い盛りだからな」
「うん。まあ、そういうことにしとく」
翔太は自分のコンビニパンをかじりながら、窓の外を見た。
「委員長、マジで頭いいからさ。いつかバレるかもしれねえぞ」
「何が」
「何がって——お前が毎日弁当五品作ってるのが、健康志向じゃないこと」
翔太はそれ以上は言わなかった。
コンビニパンの袋をくしゃりと潰して、ポケットに突っ込んだ。
「まあ、いいさ。お前が話したくなったら聞くし、話したくなくても——たぶん察してるし」
翔太が立ち上がりがけに、もう一度俺の弁当を見た。
「ブロッコリーのごま和え、うまそうだな」
「……食うか?」
「いや、それは——ちゃんと届けろ」
翔太は笑って去っていった。
放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、視界の隅に冬月が映った。
風紀巡回の帰り——ではなく、下駄箱の陰に立って、ノートを開いている。
ちらりと目が合った。
冬月は一瞬だけ眼鏡を押し上げ、ノートを閉じた。
その表紙が見えた。
——「監視記録」。
いや。
目を凝らすと、その下に小さく書き足されている。
「監視記録(兼:保護対象経過観察)」。
——こいつ、わざと見せたな。
冬月は何も言わず、足早に去っていった。
帰宅して、玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
「……おかえり」
まふゆがソファから起き上がった。
検閲——ハグ。匂いチェック。
いつも通りの儀式。
「……湊だけの匂い。合格」
「ロッカーの匂いじゃなくて?」
「……ロッカーの匂いは混じってない。湊の匂いしかしない」
判定基準が分からない。
まふゆがソファに戻った。
俺も隣に座る。
「冬月にかなり詰められたぞ」
「……知ってる」
「ポーカーフェイス、完璧だったな」
「……当たり前。あれくらいで崩れない」
まふゆが俺の肩にもたれかかった。
「……でも、ちょっと疲れた」
「お疲れ」
「……充電」
「はいはい」
まふゆが俺の腕に抱きついた。
氷の女王の仮面を何時間も被り続けるのは、たぶん相当な消耗だ。
「……冬月さん、すごい。標準偏差まで出してた」
「見てたのか」
「……翔太くんも、すごかった。地図、偽造してた」
「よく見てんな、お前も」
まふゆが俺の袖を引っ張った。
「……湊」
「ん」
「……バレたら、どうなるの」
その問いに、俺は少し黙った。
今日、冬月の行動を観察して分かったことがある。
冬月はたぶん、もうバレてる。
バレた上で、二人を守っている。風紀委員長という立場を使って、他の誰にも踏み込ませないように。
——それを、まふゆに言うべきだろうか。
「……大丈夫だと思う」
「……え?」
「冬月は——たぶん、敵じゃない」
まふゆが顔を上げた。
不思議そうな目。
「……冬月さん、めっちゃ詰めてきたけど」
「あれは——まあ、ポーズみたいなもんだ。たぶん」
「……ポーズ?」
「俺もまだ確信はないけど。あいつ、わざと穴のある証拠ばっかり出してた気がする」
まふゆは数秒、黙って考えた。
そして、小さく首を傾げた。
「……よく分かんない。でも、湊がそう言うなら。そう」
まふゆが再び俺の腕に顔を埋めた。
くぐもった声で言った。
「……湊とのこと、隠すのは——嫌じゃないけど、ちょっとだけ、寂しい」
「……」
「……でも、今はこれでいい。このままで」
まふゆの声が、少しだけ大人びていたのは——気のせいだろうか。
夜。
冬月のノートの表紙を思い出す。
「監視記録(兼:保護対象経過観察)」。
あいつは風紀委員長という鎧を着たまま、俺たちを守ると決めたのだ。
表では追及し、裏では保護する。公式カップリングの守護者。
——冬月との心理戦は、もう終わっているのかもしれない。
でも、表向きは続く。お互い、そういうことにしておいた方がいい。
明日の弁当のメニューを考える。
——とりあえず、ブロッコリーのごま和えは外そう。
いや、外したら外したで「突然品目が変わった→証拠隠滅の意識がある→クロ寄り」と分析されるかもしれない。
……いや、冬月ならそれすら「尊い……品目を変えてまで守ろうとしてる……尊い……」に変換しそうだな。
——まあ、いつも通りでいいか。




