第11話:冬月雫の視線
湯気の立つ味噌汁の匂いで目が覚める。
時計は六時半。俺はエプロンの紐を結び、フライパンに油を落とした。
「……起きる」
布団から抜け出したまふゆが、壁に手をつきながら洗面所へ向かう。
低血圧の朝は、いつもこんな感じだ。
水を一口飲ませ、顔を洗わせ、制服に腕を通す。
その間、彼女は半分眠ったまま、されるがままになっている。
「ピーマン」
「一切れだけ」
「……湊は鬼」
朝食のテーブルで、まふゆは緑色の欠片を箸で端に寄せた。
俺がじっと見ていると、観念したように口に放り込む。
顔をしかめながら味噌汁で流し込む姿が、妙に可愛い。
食べ終わると、検閲の時間だ。
まふゆは俺の首筋に鼻を寄せ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「……合格」
短い抱擁。
これが「上書き」。
外で誰かの匂いがついても、家に帰れば消える。
そういう儀式が、いつの間にか二人の間にできていた。
制服に着替えると、まふゆの顔から柔らかさが消えた。
背筋が伸び、目の温度が下がる。
鏡の中の彼女は、もう「朝凪真冬」だ。
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校門をくぐると、空気の密度が変わった。
いつもと違う。
生徒たちの背筋がやけに真っ直ぐで、声が小さい。
その理由は、すぐに分かった。
黒髪をきっちりまとめた女子が、校門の横に立っている。
風紀委員の腕章。
冷たい視線。
背筋が一本の線のように真っ直ぐな姿勢。
冬月雫。
二年の風紀委員長だ。
噂は聞いていた。容赦のない指導、氷のような視線、規則に対する異常な執着。
以前、一度だけ声をかけられたことがある。
だが、こうして正面から向き合うのは初めてだった。
——もう一つ、噂がある。
中学時代、雫は誰かを守れなかった。
それ以来、規則で全てを縛ろうとしている、と。
「夏目湊」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
なぜ俺の名前を知っている。
「ネクタイが五ミリ緩い。それと——」
雫の視線が、俺の足元に落ちた。
「靴下。規定は白か紺のワンポイント以下。今日のそれ、ラインが入ってる」
やばい。今朝、急いで適当に選んだやつだ。
普段なら誰も気にしない程度の違反。だが、この委員長には通用しない。
雫は俺の襟元に手を伸ばし、結び目を引き締めた。
指先が冷たい。布越しでも分かるほど、体温が低い。
だが、その動作はどこか機械的で——同時に、丁寧だった。
まるで、緩んだネクタイを許容できない「何か」を、自分の中に抱えているような。
「……すみません」
「次から気をつけろ」
それだけ言って、雫は視線を移した。
次のターゲットは——真冬だった。
「朝凪真冬」
真冬は無表情のまま立ち止まる。
二人の間に流れる空気が、さらに冷たくなった。
氷と氷。
学校で最も温度の低い二人が向かい合っている。
「……はい」
「制服に乱れはない。髪も問題なし。以上」
短い確認。異常なまでに短い。
他の生徒には三十秒以上かけて服装を点検していたのに、真冬には五秒もかかっていない。
——いや、違う。
点検の必要がなかったんだ。真冬の制服には、最初から一点の乱れもなかったから。
でも、そうじゃない。何かがおかしい。
雫が去り際に、一瞬だけ真冬の方を振り返った。
その視線に、俺は背筋が凍った。
冷徹じゃない。
監視でもない。
もっと——なんというか——
恍惚。
一瞬だけ、雫の目が別人のものになっていた。
氷の仮面の下で、何かがぞわりと蠢いたような。
信仰に近い何か。あるいは、執着に似た何か。
鉄仮面の奥で、何を考えているのか全く読めない——それが、ぞっとするほど怖い。
胃の底が、きゅっと縮んだ。
鳥肌が腕を這い上がり、首筋の産毛が逆立つのを感じた。気温のせいじゃない。もっと本能的な——生理的な拒絶反応だ。あの目には、人間として何か欠けているものがある。あるいは、普通の人間なら持たないはずの「何か」が、過剰に詰まっている。
どちらにせよ、俺の身体が警告を発している。この女は、危険だ。
次の瞬間には、雫はもう無表情に戻っていた。
何事もなかったかのように、次の生徒へ向かっていく。
俺の見間違いだったのか?
いや、違う。確かに見た。
雫が真冬を見る目は、他の生徒を見る目とは明らかに違った。
監視じゃない。もっと個人的な何か。
まるで——遠くから神殿を見上げる信者のような。
考えすぎか?
俺は頭を振って、教室へ向かった。
でも、胸の奥に小さな疑問と、大きな不安が残った。
雫は、まふゆを——どう見ているんだ?
あの女は、何を考えている?
教室に入ると、翔太が目を丸くして近づいてきた。
「お前、雫さんに触られてたぞ。レアだぞあれ」
「触られてねえよ。ネクタイ直されただけだ」
「同じだろ。あの人、基本的に生徒に触らないんだよ。指差しで済ませる」
翔太の言葉で、胃が重くなった。
なぜ俺だけ触られた。
たまたまか。それとも、何か目をつけられる理由があったのか。
「ていうか、朝凪さんと同じタイミングで校門くぐってたよな」
翔太が何気なく言った一言が、胸に刺さる。
「たまたまだ」
「まあ、そうだよな。あの二人が並んでたら目立つもんな。氷の女王と……お前」
笑ってごまかしたが、背中が冷たい汗で濡れていた。
一限目の授業が始まっても、集中できなかった。
チョークが黒板を叩く音。
窓の外で体育の授業をしている生徒の声。
全部が遠い。
雫の視線だけが、頭の中に残っている。
昼休み、弁当を開くと、翔太が覗き込んできた。
「お前の弁当、いつも美味そうだよな。彼女でもいんの?」
「自分で作ってる」
「マジで? 料理男子じゃん」
翔太が騒いでいる間、背中側で椅子が動く音がした。
真冬が席を立ったのが分かる。
視線は合わせない。
でも、同じタイミングで水筒の蓋が開く音がして、喉の渇きが一致したことに気づく。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
放課後。
俺は人の流れに紛れて校門を出た。
真冬とは視線を合わせない。
でも、足音のリズムだけで彼女の位置が分かる。
アパートの階段を上る直前、死角に入った瞬間——真冬の指が俺の袖に触れた。
ほんの一秒。
それだけで、一日分の緊張が少し溶けた。
玄関の鍵が閉まると、まふゆは靴を脱いだ瞬間に崩れ落ちた。
「……疲れた」
「だろうな」
俺の背中に回り込み、検閲の鼻先が首筋に触れる。
すんすん、と小さな音。
「……合格」
抱きつかれ、体温が重なる。
俺は彼女の髪を撫でながら、雫の冷たい指先を思い出していた。
「雫って人、知ってる?」
「……風紀委員長」
「今日、俺のネクタイ直された」
まふゆが黙った。
抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなった。
いや——少しどころじゃない。痛いほど、強い。
「……触った」
「ん?」
「雫が。湊に。触った」
声が、平坦だった。感情が削ぎ落とされた、怖いほど静かな声。
「ネクタイを——」
「知ってる。見てた」
見てたのか。校門で。あの距離から。
「……あの指」
まふゆは俺の胸に顔を埋めたまま、呟いた。
「湊に触った、あの指……」
沈黙。長い沈黙。
俺は彼女の次の言葉を待った。
「……切り落としたい」
背筋が凍った。
冗談の声色じゃない。本気だ。この子は、本気でそう思っている。
「私以外が湊に触るの、許せない。頭では分かってる。学校だから。仕方ないって。でも——」
まふゆの指が、俺のシャツを掴む。握り締める。布が引き攣れるほど、強く。
「——心が、許してくれない」
その声には、自分でも持て余している感情の重さがあった。
彼女自身、この衝動に怯えている。でも、止められない。
俺は彼女の頭を撫でながら、静かに言った。
「家では俺しか触らない。お前だけだ」
それだけが、今の俺に言える全てだった。
台所で鍋に火を入れると、玉ねぎがじゅっと鳴いた。
まふゆはテーブルに箸を並べながら、こちらを見ている。
その視線には、学校では見せない甘さがある。
「……雫、また来る?」
「分からない。でも、気をつける」
「学校では、もっと離れる?」
「今まで通りでいい。急に変えたら逆に目立つ」
まふゆは小さく頷いた。
俺は味噌汁をよそいながら、ふと気になったことを聞いた。
「なあ、雫って……まふゆのこと、どう思ってるんだろうな」
まふゆの手が止まった。
「……どういう、意味」
「今日、校門で。お前を見る雫の目が……なんか、変だった」
「……変?」
「うまく言えないけど。他の生徒を見る目と、全然違った」
まふゆは箸を置き、少し考え込む顔をした。
眉間に小さな皺が寄っている。
「……雫、前から私のこと見てた」
「知ってたのか」
「……気づいてた。廊下ですれ違う時とか。授業中とか。ずっと、視線を感じてた」
「なんで言わなかった」
「……言っても、どうしようもないから」
まふゆは味噌汁に目を落とした。
湯気が彼女の顔を隠すように揺れている。
「雫の視線、冷たいのに……なんか、熱いの。矛盾してるけど」
「……」
「何を考えてるか分からない。それが、一番怖い」
俺も同じことを感じていた。
雫は、ただの風紀委員長じゃない。
あの鉄仮面の下に、何を隠しているのか——考えるだけで背筋が寒くなる。
夕飯のあと、ソファに並んで座る。
まふゆは俺の肩にもたれ、目を閉じた。
「……おやすみの充電、早めにする」
「今日は疲れただろうしな」
腕を広げると、彼女は迷いなく胸に飛び込んできた。
体温が重なり、髪の匂いが深くなる。
石鹸と、少しだけ汗の匂い。
雫の冷たい視線も、学校の緊張も、今は遠い。
ここは俺たちの家だ。
誰も入ってこない場所。
まふゆの呼吸が深くなる。
眠りに落ちる前、彼女が小さく囁いた。
「……湊のネクタイは、私が直す」
答える前に、彼女はもう眠っていた。
俺はその言葉を胸にしまい、明日の距離を静かに覚悟した。
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