第二話「帰還のための門出」
あれから、三日が経った。
焦燥感は募る一方だが、今はそれに飲み込まれないようにできることだけを考えている。
この三日間で、エルナがこの世界について大まかに教えてくれた。
なんでも、僕をこの世界に召喚した際に、僕のいた世界の情報が多少読み取れたらしい。
僕の元の世界との違いを中心に説明してくれたおかげで、思ったより効率よくこの世界を把握できた。
相変わらず分からないことだらけだが、それでも三日前よりはずっとマシだ。
————この世界の人々は、魔力を使って生活している。
魔力というのは、人間が体内に持つエネルギーのことで、生まれつき誰もが持っているらしい。
ただ、魔力を実際に使用するには、魔石を加工したガジェットが必要になる。
通称は「ストーンウェア」。
ストーンウェアを体内に埋め込むことで、魔力を制御して様々なことに使える。
この世界でいうところの「魔術師」と呼ばれる人々だ。
電気も、輸送も、通信も、医療も——
この世界のあらゆる生活基盤が魔力の上に成り立っている。
ストーンウェアは、この世界では服を着るのと同じくらい当たり前のことらしい。
街を歩けば、首筋や手首、こめかみに光る紋様を持つ人間がそこら中にいる。
子供も老人も、ごく自然に体のどこかにそれを持っている。
中には、戦闘用のストーンウェアもあるとのことで、外骨格や腕そのものをストーンウェアに換装している人もいるのだとか。
僕には馴染みのなさすぎる倫理感だ。
一度、そのストーンウェアの資料を見せてもらったが、なかなかにグロテスクな手術映像などもあった。
正直それを見た時はえづいた。なれるまでには時間が掛かりそうだ。
エルナに「あなたもいずれ必要になるかもしれない」と言われたとき、思わず「遠慮します」と即答してしまった。
エルナのなんとも言えない顔が忘れられない。
ごめんね。
—
そして、世界のこととは別に、仮説と希望もあった。
「ねえ、ジュディ。少し聞いていい?」
僕が召喚されてから二日たった夜、珍しくエルナから質問された。
これまでは、一方的に僕から質問を投げかけるだけだったので少し意外だった。
「なに?」
「あなた、妻がいるってことは結婚しているのよね?もうすぐ娘も生まれるって」
「そう言ったよね?だから、早く元の世界に帰らないと」
「ふ~~ん?そういう事もまぁ、あるにはあるのかな。なんだか最初会ったときの敬語も達者だし、少し違和感があるのよね。」
「敬語? え、それは……社会人として普通じゃないか?」
「シャカイジン?そういう種族なの?聞いたことないわね。」
ガクッ。
思わず膝が抜けてしまった。
確かに社会人って言葉はこの世界では使わなそうだな。
そもそも、世間を社会と言うのかも怪しい。魔法界とか?
わからん。
僕の世界の情報も『ある程度』読み取れたと言っていたし、全部理解していないのは仕方がない。
「ある程度、一人前になった人の総称みたいなものかな。」
「一人前……ねぇ?」
なんだ。さっきから何が言いたいんだ。
「ジュディ。あなた、今年で歳はいくつになるの?」
唐突な質問だった。
「え? 今年で三十二になるかな。」
あれ?三十三だっけ?
この歳になると、自分の年齢がどうも曖昧になってくる。
まぁ、細かいことはいいだろう。
「あなた、鏡を見たことある? この世界に来てから。」
言われて気づいた。
この二日間、まともに鏡など見ていなかった。
そりゃー部屋や洗面所にはあるので、ちらっとは視界に入っていたが違和感はなかったはずだ。
そもそも、そんな鏡をじっくりと眺める余裕なんてなかった。
エルナに、壁際の鏡の前に案内される。
映っていたのは、見知らぬ顔だった。
いや——知っている顔だ。でも、昔の顔だ。
自分が確かに持っていた、でも十数年前に置いてきたはずの顔。
頬の輪郭が柔らかく、目元に疲れがない。三十二歳の自分にはないはずの、若さがそこにあった。
「……何歳に見える?」
「十六、七くらいかしら。」
びっくり。
鏡の中の自分が、ゆっくり手を上げるのを見た。
連動して、自分の手も動いた。本当に鏡だ。そりゃ鏡なんだけど。
「なんで……。」
「召喚の影響ね。詳しくはまだ分からないわ。」
エルナはあっさりとそう言った。
三十二歳のサラリーマンが、十六歳の体に入っている。
なんとも言えない気分だった。得したのか損したのかも分からない。
ただ、鏡の中の自分がひどく他人に見えた。
「……だから敬語がむず痒かったのか。」
「そういうこと。なんだかあなた、年相応な感じがしなかったのよね。」
エルナが静かに頷いた。 何故か少し、申し訳なさそうな顔をしていた。
「でも、これは『いいこと』かもしれないわ。」
「……どういう事ですか?」
「召喚と時間軸は、調整できる可能性がある。」
意味が飲み込めずにいると、エルナは続けた。
この異世界召喚という現象は、場所だけでなく時間軸も関係している可能性が高い。
僕の見た目と精神の年齢が合致していないのも、それが原因だろう。とのこと。
つまり、帰還する時間を指定することができれば——僕がこの世界に来た、その直後の時間を指定して帰ることが、できるかもしれない。
「できるかもしれない、か。」
「あくまで可能性の話よ。でも、ゼロじゃない。」
ゼロじゃない。
その言葉が、ずっと少しだけ僕の胸の内を軽くした。
気休めかもしれないし、嘘かもしれない。
それでも、エルナが僕に対して気遣ってくれたその言葉が嬉しかった。
いい奴だな。エルナは。
明里のお腹の中で、娘が育っている。
厳密にはいつ生まれるかは分からないが、少なくとも一ヶ月以内には生まれる予定だった。
帰る時間を指定できるなら、娘の誕生に間に合うかもしれない。
いや、もしかしたら——この世界でどれだけ時間が経っても、帰る場所の時間は変わらないかもしれない。
完全に気持ちが楽になったわけじゃない。
でも、焦燥感の色が少し変わった。
ただ焦るだけだった二日前とは違う。
今は、やるべきことをやれば帰れると思えている。
—
三日目の昼過ぎ、エルナが薄い板状の端末を差し出してきた。
金属と透明な素材でできた、手のひらサイズのそれは、見た目だけなら元の世界のタブレット端末によく似ていた。
「メモや情報の整理に使えるわ。この三日間、矢継ぎ早に世界のことを教えてしまったし、必要じゃないかしら。」
「いいのか?高そうだけど。」
「この世界じゃ、子供の小遣いでも買えるわよ。遠慮しないで。」
ありがとう。そう言いながら受け取り、電源を入れようとした。
どこかにボタンがあるはずだと側面を探したが、それらしいものが見当たらない。
「……どうやって起動するの?」
「魔力を流せばつくわよ。」
心なしかエルナがニヤついているように見える。
魔力を、流す。
言葉の意味は理解できる。でも、やり方がわからない。
端末を両手で握って、念じてみた。 つけ、つけ、つけ——。 何も起きない。
「……念じてもダメか。」
「ストーンウェアがなければ魔力は外に出せないわ。念じても意味がない。まぁ例外はあるけど。」
エルナはさらっとそう言った。
「じゃあ僕が使えないのは、魔力がないんじゃなくてストーンウェアがないから?」
「そういうこと。あなたに魔力があるかどうかは、まだわからない。ストーンウェアを通してみないことには確認できないから。」
それは、可能性があるということだ。
「この世界の人間なら赤ちゃんでも持っているものを、あなたも持っているかもしれない。」
「赤ちゃんと同列か。」
「っふ。……そういう言い方はしていないわ。」
エルナが少し視線を逸らした。フォローになっていない。
あ、これ分かった。
意地悪だ。
「使えないの、分かってて渡したな?」
「いえ。そんなことはないわ。例外もあるっていったでしょ? そのままでも使えるか試したかったのよ。」
とはいえ、エルナの表情はどこか高揚している。
本当三割。からかい七割ってところだろう。
こういう茶目っ気は、年相応に感じるな。
端末を返そうとすると、エルナは受け取らなかった。
「持っていなさい。後で私がなんとかしてあげるから。」
「なんとかって、ストーンウェアなしでどうするんだよ。」
「方法がないわけじゃないわ。でも今は急ぎの話がある。」
まぁ、使えるようになるなら文句はないけど。
ちょっと悔しい。
この世界で、僕はまだスタートラインにも立てていないようだ。
「これから、情報屋と話をするわ。」
「情報屋?」
「そう、情報屋。あなたの現状は、残念ながら私だけでどうにかできるものじゃないの。なんせ謎が多すぎるからね。」
「その情報屋なら、僕の帰る手段が分かるってことか?」
「いいえ。それはないわね。でも、詳しい人物は紹介してくれるかも。条件付きでね。」
条件付き。
妙な言い方だが、相手は情報屋。
食い扶持をただで渡すようなことは、僕の世界でもしないだろうしな。
「メッセージで、時間は指定してあるわ。もうすぐ相手と通話をする予定よ。」
「動きが早くて助かるよ。」
—
エルナは机の前に移動して、机の上にある通信装置に手をかざした。
装置が低い音を立て、空中に淡い光の膜が広がる。
繋がった先に、人物が映し出された。
大柄な男だった。 浅黒い肌に、短く刈り込んだ髪。
喉仏にはストーンウェアが光っている。年齢は四十代前後だろうか。
腕を組んで画面の前に座っていて、その体格だけで圧があった。
「エルナ。久しぶりだな。」
低い声だった。落ち着いていて、威圧感はない。
ただ静かに重みがある、そういう声だ。
「久しぶりねガレス。頼みがあるの。」
「なんだ。珍しくそちらから連絡してきたと思ったら。いつも頼み事のときしか連絡しないな、お前は。」
男——ガレスは口の端をわずかに上げた。
笑ったのだと気づくのに少し時間がかかった。表情の動きが最小限だった。
「その隣のガキは?」
視線が僕に向いた。
値踏みするわけでも、警戒するわけでもなく、ただ確認するような目だった。
「はじめまして。木村樹莉といいます。えっと、ちょっと訳あって別の世界から来まして。」
ん?別世界のことは言っても良かったのだろうか。
まぁ自分を端的に紹介する術がこれしかないのだからしょうがない。
「ジュディか。別の世界から?」
「……はい。」
あの、名前。違うんですけど。
樹莉なんですけど。もういいや。
「……エルナ。お前は何をやっている。」
ガレスは一瞬エルナを見た。エルナは視線を逸らした。
「ちょっとした手違いよ。まさか別世界の人間が来るなんて思わないじゃない。」
「ただでさえ、お前たち魔法使いは人からの心象が悪いんだ。あまり目立つようなことをするんじゃない。この召喚だって通常であれば——」
「はいはい。お説教を聞きたくて通話してるわけじゃないのよ。この時間もお金がかかっているんだから、手短にお願い。」
「……仕方がないな。」
それだけだった。驚くでも呆れるでもなく、ただ「仕方がない」と言って納得した。
この人物の懐の広さが、その一言でなんとなく伝わった。
「頼みというのは、召喚実験の研究者を探しているの。心当たりがあれば教えてほしい。」
エルナが本題を切り出した。
「まぁ。そうだろうな。」と、ガレスは少し考える素振りをした。
「心当たりがないわけじゃない。ただ、タダでとはいかないな。」
「わかってる。何が必要?」
「俺が今抱えている仕事を一つこなしてくれ。難しい話じゃない。ある場所で荷物を受け取り、届けるだけだ。特別に色もつけてやる。少し込み入った場所でな。俺の顔じゃ行きにくい。」
ガレスはちらりと僕を見た。
「新顔なら、かえって都合がいいかもしれない。」
僕を使う気か、とすぐに理解した。悪い気はしなかった。
この世界に来て三日、ただエルナから話を聞いているだけだった。
何か動ける理由ができることが、単純にありがたかった。
「やるよ。」
エルナより先に答えていた。
ガレスがまた最小限の動きで笑った。
「話が早いな。気に入った。判断が早いやつは得をするぞ。」
「じゃあ、後で詳細を送って。」とエルナが続けた。
「ああ。——ジュディ。」
ガレスに名前を呼ばれて、背筋が少し伸びた。
「帰りたい気持ちは分かる。だが、焦らぬことだ。ただその場で足踏みしていても、元の世界に戻れるわけじゃない。気をたしかにな。」
それだけ言って、ガレスは通信を切った。
光の膜が消えて、部屋が静かになった。
「……いい人だな。」
「えぇ、信用はできるわ。ただ、仕事には厳しいから気をつけなさい。」
エルナは机の上の荷物を確認しながら、淡々と続けた。
「準備ができたら出発よ。今日中に街を出る。」
今日中。
こちらとしては早ければ早いほどありがたい。
特にこの三日間は情報ばかりで、特に行動には移れていなかったからな。
手の中に、端末がある。
ストーンウェアがなければ使えない。
でも、魔力があるかどうかはまだわからない。
可能性は、ある。
エルナの指示に従い荷物をまとめながら、鏡に映る十六歳の自分をもう一度見た。
三十二歳のつもりで、十六歳の体で、別の世界にいる。
笑えるような、笑えないような。
「エルナ。」
「なに?」
「……ありがとうございます。」
「……。」
どうしても最後は敬語になってしまう。
エルナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情が和らいだ気がした。




