第二百十三話「残ったもの、失うもの」
「……っ。」
目を、開けた。
白い天井が、視界に入る。
……その視界の端に、見覚えのある顔があった。
眼鏡をかけた、小柄な女性。
その顔を、俺はよく知っている。
「……ネル?」
「……ジュディか?」
「……。」
「君は、キムラ・ジュディか?」
声が、震えていた。
眼鏡の奥の瞳が、揺れている。
……今にも、零れ落ちそうだった。
上半身を起こそうとして、右腕に力を込める。
「……っ。」
身体が、やけに重い。
左腕はなく、右脚もまともに動かせそうになかった。
……まぁ、そりゃそうか。
あんだけ、ドンパチやればな。
それでも、なんとか身を起こす。
不思議と、意識ははっきりとしていた。
……頭の中に靄はない。
同時に。
先ほどまであった、男の気配も消えていた。
……最後まで、気に食わねぇ野郎だった。
「……ふぅ。」
前かがみになり、息を吐く。
そのまま、目の前のネルを見た。
瞳は赤く、頬には既に涙が流れていた。
いつもの白衣も汚れていて、鼻の下には乾いた血がこびりついている。
……なんだよ。こいつも、ボロボロじゃねぇか。
「ジュディ、なのか?」
「……あぁ。ジュディだ。」
「……。」
「キムラ・ジュディだよ。」
「……っ。」
その瞬間。
ネルが、俺へ抱きついてきた。
「うおっ……。」
思わず身体が傾く。
慌てて右腕を伸ばし、ネルの背中を支えた。
「……ネル?」
「ずび。しばらく、このままで。お、お願いします。」
「……ん?」
「今は、とりあえず。抱きしめてほしい。」
「……ネル。」
腕の中で、ネルの身体が震えていた。
いつもの、ふざけた笑い声はない。
何かを説明するでもなく、ただ俺の身体にしがみついている。
……ネルも、怖かったんだろうか。
俺が消えることを、怖がってくれたんだろうか。
俺は右腕を回し、ネルを抱きしめた。
「……。」
小さな、身体だった。
それなのに、随分と力が強い。
俺の服を掴んだ指先が、僅かに震えている。
「……。」
何か言おうとして、止めた。
今は、何を言っても違う気がしたから。
ネルの体温が、右腕を通して伝わってくる。
耳元では、小さく息を吸う音が何度も聞こえていた。
……あぁ。そうか。
俺は、生きてるんだな。
自分の身体は、痛みも感覚も滅茶苦茶だった。
それでも、こうしてネルを抱きしめることができる。
……本当に、ここに戻ってこれたんだ。
「……ネル。」
「なに。」
「ありがとう。」
「……。」
「お前が、居てくれて。よかった。」
ネルの腕に、少しだけ力がこもった。
「……私も。」
「うん?」
「私も、君と出会えて、よかったよ。」
「……。」
「本当に、よかった。」
返事が、出なかった。
いつものネルなら、ここで馬鹿みたいに笑うはずだ。
あっは!なんて言いながら、こちらを試すような視線で刺す。
でも、今は違った。
ただ、俺に抱きついたまま。
静かに、肩を震わせている。
俺は、ネルの頭をゆっくりと撫でた。
「……。」
それから、しばらく。
俺達は何も話さず、ただ抱き合っていた。
—
ネルの肩越しに、施設の様子が見える。
見覚えのある機材。
モニターには、いくつもの数値や魔術式が表示されていた。
右手には、ガラス張りの窓がある。
……そうか。
ここが、レガシーコードを起動した部屋か。
俺が、ロイドと相対した。
その大広間の奥。
俺が、守りたかった場所で、ネルの戦場。
床には、血が落ちている。
機材の周囲にも、何かが飛び散った跡があった。
……ネル。
一体、何やったんだ??
そう思いながら、腕の中のネルを見る。
「ずび。」
「……。」
……まぁ、いいか。
今は、聞かなくても。
「……。」
ふと、視界の隅に人影が見えた。
……エミリか?
床に座り込む、小さな少女。
黒いパーカーに、ポニーテール。
その膝の上には、一人の男が頭を乗せていた。
「……ロイド。」
思わず、声が漏れた。
ネルが、ゆっくりと身体を離す。
俺の視線を追い、二人へ顔を向けた。
「エミリも、意識を取り戻したよ。」
「……ロイド、は?」
「気になるかい?」
「……あぁ。」
「じゃあ、行こうか。」
「……。」
立ち上がろうとして、右脚に力を込める。
「……っ。」
上手く、立てない。
……くそ。
「あっは。無茶しすぎだよ。君は。」
「……ごめん。肩、借りていい?」
「あっは。役得ぅ。」
「なんそれ。」
ネルが、俺の右側へ回った。
肩を借り、ゆっくりと立ち上がる。
ネルも足元が覚束ないのか、少しだけ身体が揺れた。
「……ネルも、結構限界じゃん?」
「いやぁ、死ぬかと思ったよ。頭沸騰してさ。」
「……何したんだよ。マジで。」
「あっは。」
小さく笑う。
……今更、どっちが無茶したとか。
そんなことを言っても仕方ねぇか。
俺達は互いに身体を支え合いながら、ゆっくりと歩いた。
一歩ずつ。
二人の元へ、近付いていった。
—
「……ジュディか?」
近づくと、ロイドが声を掛けてきた。
エミリの膝に頭を乗せたまま、俺を見上げている。
その胸元は、赤く染まっていた。
傷口には何かの処置を受けた跡があった。
それでも、当てられた布には血が滲んでいる。
「……あぁ。あんたの、おかげらしい。」
「そうか。」
ロイドが、ゆっくりと息を吐いた。
「私は、間に合ったのか。」
「……あぁ。」
ネルに支えられながら、その場に膝をつく。
ロイドを、見る。
何を言えばいいのか、分からなかった。
……俺は、こいつを撃った。
それは間違いない。
この胸の傷は、俺がつけたものだ。
なのに、こいつは。
俺を、ここまで運んでくれた。
理由なんて、分からない。
「本当は、言いたくねぇけどな。こんなこと。」
「……なら、言わなくていい。」
「……。」
ロイドが、小さく笑った。
……くそ。
本当に、最後まで。変わらねぇ。
俺は、一度息を吸った。
そのまま、頭を下げる。
「ありがとう、ございました。」
「……。」
少しだけ、沈黙が流れた。
頭を下げたまま、返事を待つ。
「……いいさ。」
ロイドの声が、聞こえた。
「最後の、悪あがきみたいなものだ。」
「屁理屈言ってねぇで。素直に、受け取れよ。」
顔を上げる。
ロイドは、ほんの少しだけ笑っていた。
「……あぁ。そうだな。」
それ以上、何も言えなかった。
俺達は、最後まで分かり合えなかった。
役割についても。エミリについても。生き方についても。
……それでも。
こうして、最後に礼を言えることが。
不思議と、嬉しかった。
「……ごっふ。」
ロイドの身体が、小さく跳ねた。
口元から、血が溢れ出す。
「ロイド!!」
思わず、身体を前に出した。
ロイドの胸元へ手を伸ばしかけて、止まる。
「……っ。」
その血の量を見て、思わずネルへ視線を送った。
「……ネル。」
ネルは、ロイドへ視線を落とした。
眼鏡の奥の目が、僅かに細められる。
ロイドの様子を確かめるように見つめた後、ほんの少しだけ首を横へ振った。
「……。」
……そう、か。
他ならぬネルが、そう言うのなら。
もう、本当に——
ロイドが、口を開いた。
「……ジュディ。」
「……なんだよ。」
「気にしているのか?」
「……当たり前だろ。だって、この傷は——」
「違う。」
「……。」
「これは、私の生き様の結果だよ。私の選択の、結果なんだ。」
「……屁理屈だろ。それも。」
「っふ。そう、だな。」
ロイドは、苦しそうに呼吸を繰り返した。
目を閉じ、一度だけ大きく息を吸う。
それから、ゆっくりと視線を動かした。
もう、俺のことは見ていなかった。
……そうだよな。
こいつは、今は親なんだ。
言うべきことが、言いたいことが、あるはずだ。
「……。」
ロイドの視線の先には、エミリがいた。
少女は、ロイドの頭を膝に乗せたまま。
何も言わずに。
ずっと、その顔を見つめていた。
「……エミリ。」
「……はい。」
エミリが、ロイドの顔を覗き込む。
その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「お前を守ることを。私は選べなかった。」
「……。」
ロイドの声は、酷く掠れていた。
それでも、エミリから視線を逸らさない。
「……いいんです。」
「……。」
エミリが、小さく首を横へ振る。
「愛があることは、知っていましたから。い、いいんです。」
ロイドが、目を見開いた。
「……そうか。」
「うん。」
エミリは、涙をこぼしながら笑った。
「お父さんが、大好きだもん。」
「……っ。」
ロイドの顔が、歪んだ。
口を開きかけて、閉じる。
何かを言おうとしたようだったが、言葉にはならなかった。
しばらくして、ようやく。
「……そうか。」
ロイドが、笑った。
こいつが、こんな顔で笑った所を、初めて見た。
——ス。
ロイドが、右手を伸ばす。
エミリも手を伸ばし、その手を握った。
小さな手を、ロイドが包み込む。
「……。」
ロイドは、握った手を見つめていた。
何かを確かめるように。
ゆっくりと、指先へ力を込める。
エミリも、その手を握り返した。
「……エミリ。」
「……うん。」
「これは、命令ではない。」
ロイドは、一度言葉を切った。
浅く、息を吸う。
少し苦しそうに眉を寄せ、それでも言葉を続けた。
「これは、私の願いだ。」
「……うん。」
エミリは、頷いた。
そのまま、ロイドの言葉を待っている。
「幸せだと思えるように、それを見つけられるように。生きなさい。」
「……う、うん。うん。」
エミリが、何度も頷く。
小さな手が、ロイドの手を強く握りしめた。
「苦しければ、人に、頼りなさい。」
「……う、う、うん。うん。」
ロイドが、一度目を閉じた。
息を整えるように、何度か呼吸を繰り返す。
エミリは何も言わず、ただ待っていた。
「……。」
もう、声を出すことすら辛いんだろう。
それでもロイドは、もう一度目を開けた。
その目には、エミリだけが映っている。
「……エミリ。」
「……ロイド。」
エミリが、ロイドの手を握り直した。
頬を伝った涙が、握った二人の手へ落ちる。
ロイドは、その手を見て。
それから、もう一度エミリの顔を見た。
「お前は、私の誇りだよ。」
「……っ。」
エミリの顔が、くしゃくしゃに歪む。
「……う、うん。」
ロイドは、小さく笑った。
その笑顔は、さっきまでとは違っていた。
苦しそうでもなく。
何かを堪えるようでもなく。
ただ、目の前の少女を見つめて。
静かに、笑っていた。
——そして。ゆっくりと、目を閉じた。
「……。」
握っていた手から、力が抜ける。
「……ロイド?」
返事は、なかった。
「……。」
エミリが、もう一度名前を呼ぶ。
「……ねぇ。ロイド?」
その手を、両手で握り直す。
もう一度、少しだけ揺らした。
「……。」
それでも、返事はない。
「……あ。」
小さな声が、漏れた。
「あ、あぁぁぁぁ……。」
エミリが、ロイドの手を握りしめる。
「うわぁあああああああ!!!!」
泣いた。
エミリは、泣いた。
ロイドの頭を抱えて、泣いていた。
「お父ぅさん!!!あぁああああああああ!!!」
俺は、何も言えなかった。
隣にいるネルも、何も言わない。
ただ、俺の身体を支えながら、二人を見つめていた。
エミリは、ロイドを抱きしめている。
何度も、何度も。
お父さんと、呼び続けていた。
「お父さん……っ。お父さん!!!」
もう、その声に答える者はいなかった。
「……。」
気がつけば、陽は傾いていた。
ガラス張りの壁から、夕日が差し込む。
世界はただ。
二人を照らしていた。
第二百十三話、お読みいただきありがとうございます!
ロイド・カーター。
最後まで、本当に屁理屈で、不器用な男でした。
役割を選び続けた彼が、最後に自分の願いを口にしました。
エミリにとって、ロイドはずっとお父さんだったんですよね。
次回も20:10、更新予定です!
ブクマやコメントをいただけると、励みになります。
次回、第二部最終話です!
よろしくお願いします!




