鵜久森春は真実を知る⑧
「……鵜久森くん。お夕食も食べ終えたことだし、そろそろ勉強の続きをしましょう?」
会長は表情をひきつらせながら席を立とうとした。
「いやいやいや。ちょっと会長! 待ってくださいって。ねえ婚約者は?」
納得がいくわけがない。サラッと話を流せるはずがない。
だって僕は会長に婚約者がいると思っていたからずっと……。
「イヤだわー鵜久森くんったら。婚約者なんてVシネマの見すぎよ。ははははー」
いや見たことないからVシネマ。ていうかVシネマってヤクザの抗争とかだろ。婚約者の要素一つもないわ。
「そ、そうか。ハルちゃんの勘違いか。わ、私も全く知らない話が出てくるものだから動揺してしまったよ」
僕の婚約者という言葉に驚いていた様子で立ち上がっていたおじさんも、安心したように再び椅子に座った。
「いや、これは勘違いじゃなくてですね」
勘違いであってたまるか。中学校の時の記憶だけならともかく、つい先日会長が部活に入るときに僕と綾辻の前で言ったばかりじゃないか。
「麗に婚約者……? うーん、おかしいわね。そもそも麗は……」
かなり動揺していたおじさんとは反対に、緑さんは座ったまま何かを考えこんでいるようで、ぶつぶつと独り言を呟いている。
「ねえ麗」
「は、はひい! な、何? ママ」
緑さんの言葉にビクッと反応する会長。動揺している様子からも、何かを隠しているのは明らかだ。
「麗はハルちゃんに婚約者がいるって言ったことがあるの?」
「な、無いわ。さっきから言っている通りよ」
会長はあくまでもしらを切るつもりのようだ。ただいくらご両親の前とはいえ、これだけは曖昧にしたくない。
「いやいや、言いましたから」
「言っていないわ」
腕を組んでプイッと僕から視線を逸らす会長。
「言いました」
「言ってない」
ダメだ。このままでは水掛け論だ。
と、そこで緑さんが、
「まあ、言った言わないはとりあえずいいわ。ねえ麗、ハルちゃんはさっきイケメンでお金持ちの御曹司でとか、かなり具体的なことまで言っていたけど」
「そんなことを言ったことは神に誓って一度も無いわ!」
先ほどの何かを隠している様子から一転、会長は語調を強くした。そして少し睨むような視線で僕の方を見ている。
「そう。と、麗は言っているけど、どうかしらハルちゃん。ハルちゃんは本当にそこまで具体的に麗から聞いたの?」
緑さんは、今度は僕の方を向いてそう聞いた。
「それは当然、聞きましたけど……」
と、自分で言いかけて途中で思い返してみた。
会長が婚約者の話をしたのは二度。一度は中学生の時に会長の部屋で、二度目は学校の帰りに綾辻と会長と三人の時だ。
その時のどちらかに、確か具体的にどんな婚約者なのかを……。ん? そう言えばどっちだ……? 二度目の時はつい先日だから覚えている。確かあの時はそんな話はしていなかった。ということは一度目? でも一度目も……。
「それはいつのことか思い出せる?」
「そう言われると、記憶は曖昧ですね……。でもどんな人かは別にして、つい先日婚約者がいるってことは聞いたんですけど」
「な……! この間の時も婚約者がいるなんて言っていないわよ!」
「それは流石に言ってましたよ!」
「言っていないわ!」
「言ってました!」
またしても水掛け論になりそうだ。このまま曖昧な状態で終わってしまうのだろうか。
しかし緑さんは僕と会長の状況をすべて把握したらしく、
「ふーん、なるほどね。何となくわかったわ」
と、顎の辺りに手を置いて言った。そして細くて綺麗な人差し指を立て、
「その時に麗が言ったのは、『婚約者がいる』ではなくて、『結婚する相手が決まっている』とかそんなところかしら」
「ぐっ……!」
緑さんに図星を突かれたのか、会長の表情は一瞬のうちに曇った。
「確かにそうだったかもしれませんけど、それって何か違いがありますか?」
ていうか同じだろ。結婚する相手イコール婚約者じゃないの?
「うふふ。どうかしら。それは麗から聞くといいんじゃない?」
緑さんは僕に向かって優しい表情でそう言った。
「会長から?」
「ええ。ね、麗」
緑さんが会長に言葉を促すと、
「う……わ、私は……」
と、眉を八の字に曲げ、オロオロと露骨に困っている様子だ。
「もしかしてハルちゃんがしばらくの間うちに来なかったのは、その婚約者の話があったから?」
「そうです。会長に婚約者がいる以上、僕は邪魔になるかと思って……」
緑さんは額の辺りに手を当て、「はぁー」っと深いため息をつき、
「それで三年間も。なんてことかしら……。まあ過ぎたことを悔やんでも仕方が無いわね」
「? はあ……」
「でもねハルちゃん、これだけは麗の母親である私が保証するわ。麗にはね、婚約者なんて……」
「ま、ママ!」
会長は緑さんの言葉を遮るように叫んだ。
「どうしたの?」
「自分で言える……。そのことについては私の口から鵜久森くんに話すわ」
「そう。それがいいわね。偉いわ麗」
緑さんは会長に向かって優しい微笑みを向けた。
「あなた。後は二人に任せて、私たちは夕食の片付けをしましょ?」
「ん? あ、ああ。そうだな」
おじさんは状況を飲み込めていない様子だったが、緑さんの言葉にカチャカチャと食器の片付けを始めた。
「さ、二人はお部屋に戻りなさい。ここじゃあ話しづらいでしょ?」
「え、でも僕たちも片付けを……」
と、言いかけたところで服の裾をくいっと引っ張る感覚があり、そちらを振り返る。
「……鵜久森くん。行きましょ? あなたに大切な話があるの」
会長の表情はいつになく真剣で、何かを決心したかのようだった。




