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綾辻穂香は感動する③

 その時。


 突然、三日前に生徒指導室での清沢先生の言葉がフラッシュバックした。


「もし再びパチンコ屋に足が向きそうになったら、何があっても足を止めろ。アスファルトに片足を突き刺せ」


 あの時、先生は平然とした様子で滅茶苦茶なことを言っていた。


「私は本気だ。指の骨が折れてもいい。お前は何があってもそこで止まらなきゃいけない」


 先生の表情は真剣だった。俺はその迫力に思わず息を飲み込んだ。


「そして止まることができたなら、今お前に協力してくれている人たちの顔を思い出せ。そうすれば今のお前ならきっと誘惑に勝てるはずだ」


 でも、俺はダメなんだ。今も訳の分からない誘惑に心が支配されかけている。

 ここで誘惑に負けてしまったら俺は……。


「ハハハッ! 簡単なことだ有金。そしたらまた一からやり直すせばいい」


 ……そうだ。


 俺は足の指の骨が折れても、絶対にここで止まらなきゃいけないんだ!


 止まれ……。止まれ!!


 右足を地面に突き刺すつもりで、全力で爪先をアスファルトに垂直に振り下ろした。


 ……。


 止まった。


 右足の指先が熱を帯び、脈を打っている。きっと全力で叩きつけたことで出血しているのだろう。


 でもそんなことはどうでもいい。


 なんとかギリギリのところで止まれたことに、心の底から安堵した。


 良かった。またあの地獄に戻らずに済んだ。


 しかし。


 我に返って辺りを見回すと、無意識の内に先輩に呼ばれたパチンコ屋の目の前まで来てしまっていた。


 その事実に安堵から一転して一瞬の内に血の気が引いていく。


 ……俺は何を狂ったことを。


 ギリギリで止まれて良かった。

 でも。やっぱりまだ治ってなんかいなかったんだ。


 俺は未だにギャンブルの檻の中にいる。

 簡単には抜け出すことが出来ない鋼鉄の檻の中に……。


 光に向かってすすんでいたはずの自分が、また暗闇の方へと歩き出してしまったような気がした。


 疲れた。もうどうでもいい。


 負け犬のような気持ちが心の中を埋め尽くしていた。


******


 次の日。


 吐き気を催すほど気が進まなかったが、何とか気持ちを奮い立たせて学校に向かった。


 いつも通り通学し、授業を受け、放課後はちゃんと心から部に向かった。


 行動だけはいつもと同じようにしたものの、心の内は最悪だった。

 どす黒い何かに支配されるようなあの感覚が、まだ少し残っている。


 依存症というものの怖さを改めて実感した。


 気持ちを入れ替えたところで簡単には治せない。やはり俺はこの部室でのほほんと将棋をする前に、心療内科や精神科に通うべきなんだろうか。


 十五歳でギャンブル依存症になり精神科通い、か……。あまり気が進む話ではないな。


「今日は将棋のすっごーい強いゲストを呼んであるから♪」


 ハピ子が満面の笑みで嬉しそうに言った。

 俺の将棋のために誰かを呼んでくれたらしい。


 ゲストか。将棋部のやつだろうか。

 正直に言うと、昨日からすでに鵜久森相手では物足りなくなってきていた。だからより強いやつが来るのであれば、ありがたい話ではある。

 できるだけ強いやつと一局でも多く指したい。シンプルではあるが、その繰り返しが一番自分を強くする気がした。


 さて。一体どんなやつが来るのか。


 そしておよそ十分後、三回のノックの後に部室のドアが開いた。


「……よばれてとびでてじゃじゃじゃじゃーん」


 抑揚の無い声で入って来たのは、金髪にサイドテールの眠たい目をした女の子だった。

 身長が著しく低い。百四十センチあるかないかくらいだろうか。

 とても将棋なんて出来そうにない人間の登場に、俺は思わず面を食らった。


 こいつが強いゲスト……? ただの幼女にしか見えねえ。ていうかうちの制服着てるけど、こいつまさか高校生なのか?


「……最初は実力をみさせてもらう」


 金髪幼女は抑揚のない声でそう言い、将棋盤を挟んだ向かい側にちょこんと座った。


 話を聞くと、アマチュア五段の実力ということらしい。


 アマ五段がどの程度の力なのかは良く分からないが、鵜久森の反応からしておそらく相当強いのだろう。


 この金髪のチビ助がそんなに……? 将棋部でもないのに。

 ……まあいい。実力の程はやりゃあわかるか。


 せっかく強い人と対局する滅多にないチャンスなんだ。

 昨日のことはいったん忘れて、今出せる全力をこのチビ助にぶつけるしかねえ。


「お願いします」


「……おねがいします」


 お互いに頭を下げ、俺とチビ助の初対局が始まった。


 

 対局が始まり十分。局面は早くも終盤に入っていた。


 むちゃくちゃ強え。こっちがどんなに読みを入れても必ずその上を行きやがる。

 しかも悔しいことに、こいつは本気を出してない。

 最初「力をみさせてもらう」と言っていた通り、いつでも俺のことを殺せるくせに、上手い具合にで殺さず、一手一手俺の力を計るように指しやがる。


 ほらまただ。この一手だってどう考えても最善じゃねえ。俺の次の一手が正解かどうか見定めてやがるんだ。


 チッ。こんなチビ助に。いや、見た目で判断した俺が間違っていたか。


 何か相手の思惑を上回る改心の手がないだろうか。このチビ助をあっと言わせるような手が。


 俺は脳細胞を一点にかき集め、目の前の盤に集中して読みを入れた。


 ……。


 …………。


 閃いた。五3銀だ。そしてそこからこうしてああして……。いける。


 この一手で、こいつの何を考えているのかわからねえ表情を曇らせてやる。


 俺はいつもより力を込めて渾身のその一手を差した。


「…………」


 その手を指した瞬間、これまで無表情だったチビ助は微かに眉間に皺を寄せた。


 よし。どうやら良い手だったらしい。

 これで五分近くまで戻したはずだ。あともう一息で……。

 

 と、思っていたその時。突然背中からゾクッとする悪寒に襲われた。


 こ、これは、殺気……?


 今まで人生で一度も感じたことがない感覚だったが、それが俺に向けられた殺気だということが一瞬で分かった。


 そしてその殺気を放っている人間も。


 ……このチビ助。


 意図せず体が震える。苦笑いが込み上げる。

 

 何がアマチュア五段だ。せっかく今の一手で五分まで戻したんだ。このまま俺が押し切ってやる!


 そして。それから僅か十数手で俺の玉は詰んだ。


 完全に叩き潰された。

 いや、そんな生優しいものではない。


 時速百五十キロの十トントラックに、身体を粉々にされたような感覚を感じた。丸腰の俺が勝てないのは当然だった。


 高くて分厚い壁が、今俺の目の前に立ちふさがっている。そいつは無表情のまま、今も盤を見つめている。


 おい。すげえぞ将棋は。


 あんなにボコボコに叩きのめされたのに気持ちが高揚している。それはこんなに強い人間がいるんだという喜びと、自分ももっと強くなりたいと純粋に思う気持ちからだろう。


「負け、ました」


 俺は対局前よりも深く頭を下げた。


 昨日から再びまとわりついたどす黒い何かが、体から消えたような気がした。

いつも読んでいただきありがとうございます。


真面目パートはここまでで次回から通常のギャグパートに戻ります。



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