外伝 間諜ナタリーさん その五 会合
私が来て以来アネット様は朝食を食べると街に出かけてる。話を聞いてみると、どうも街のあちこちを見て回っているらしい。
田舎者か。
そんなある日、アネット様が出かけてから家事をしているとヤンセン様が来られた。
『アネット様は不在か?』
『毎日お出かけしておられます。どうも街のあちこちを見て回っているようです。ところでヤンセン様はこちらに来られて良いのですか?』
『どうしてもアネット様にサインを頂かないといけない文書があってな』
『昼には昼食を食べに戻られると思いますよ』
『ところで、仕事は上手くいってるか?』
『上手くも何も、単に家事をしてるだけですが』
『そうか』
しばし沈黙。
『ヤンセン様、こちらにお掛け下さい』
そう言って私は椅子を引いた。
『ああ、すまない』
『ところで、少し質問して良いですか?』
『その書類と言うのはどの様な物でしょうか?ヤンセン様はこちらにいらして良いのですか?』
『本来は私がここに来るのは不味いのだが、さっき言った通りどうしてもアネット様の署名が必要なのだ。帝国とアンジュ公爵との協定書だ』
『帝国とアンジュ公爵との協定書に何故アネット様の署名が必要なのですか?』
『それは……』
いきなり扉が開いた。アネット様だ。
『ただいま戻りました。ナタリーさん』
良かった、聞かれてなかったみたい。
『おかえりなさい。アネット様、お客様がいらしてます』
ヤンセン様を見たアネット様の顔がみるみる赤くなる。
「カールさん、何やってるんですか、私の家で!」
ヤンセン様は立ち上がると恭しくアネット様にお辞儀をした。
「アネット様、ご無沙汰しております」
「帰って。もう来ないで」
「アネット様の生活の安寧を乱して申し訳ございません。どうしてもアネット様にお話ししておかないといけない事が出来ました」
「何?」
「お人払いをお願いします」
ヤンセン様とアネット様はおそらく王国語で話されてるみたい。意味は分からない。
『ナタリーさん、少し外出してて貰えないですか?内密の話があるのです』
『分かりました。暫く街に行ってきます』
私は表に出ると少し考えた。指示を仰ぐ為にクローネ亭に向かう事にする。
クローネ亭は昼食客でごった返していた。要員である給仕に案内された奥のテーブルに座っていたのはランベルト様。
『少し話が聞きたい。まあ座れ。そんなに緊張して立ってると周りの客に怪しまれる』
『お言葉に甘えて』
そう言って席に腰を下ろした。
『少しは慣れたか?』
『やってる事は家事だけですから、最初の片付けさえ済めばどうと言う事はありません』
『最初の片付け?』
『昼食時間ですから詳しく言うのははばかれますが、着いた当初のアネット様のお宅は酷い状態でした』
『そうか。それで、アネット嬢の様子はどうだ』
『家では変わった事は何もされてません。ベッドでゴロゴロされてる位です。昼間は出歩かれてますから様子は分かりません』
『そうか』
ヤンセン様が来られて席に着かれた。
『どうだった?』
『協定書にご署名頂きました』
『よし。一通をモンスに、一通を宮廷に送れ』
『ナタリーにも少し説明しておこう。今回、帝国とアンジュ公爵は和解した。アンジュ公爵はアネット嬢を前公爵の娘であり、公爵家の継承権を持つ事を認めた。この事は両者と教皇庁以外には伏せられる』
『教皇様がご存知なのですか?』
『ヨハン兄とアネット嬢の結婚式にローマから呼んでいた司教をアネットが巻き込んだ。1万グルデン寄進して買収したんだ』
『噂で聞いた事があります』
『それで、帝国とアンジュ公爵の和解を教皇庁が仲介したんだ。教皇庁が知ってる以上公式にアネット嬢が公爵家の継承者であると認められたに等しい。其方もそれを分かった上でアネット嬢の世話をしてほしい』
『了解しました。アネット様は本当に高貴なお方なのですね』
ランベルト様はけげんな顔をした。
『普段のアネット嬢はとてもその様な高貴な生まれとは見えないと思うが、ナタリーにはそうは見えないのか?』
少し思い返してから答えた。
『自分の事をろくに出来なかったり、金銭感覚がおかしかったりしたのでそう思ったのかもしれません。それとアネット様の正体を知っていたので』
『お振舞いはそうでもないのですが、言葉遣いがとても庶民とは思えません』
ランベルト様は少し考えてられてから言われた。
『私はアネット嬢と帝国語で話した事がない』
『私もありませんが、先程ナタリーに話しかけられたのは、とても丁寧な帝国語でした』
『王国語では違うのですか?』
『替え玉の時は貴族としての喋り方だが、そうでない時はとてもくだけた言い方をするぞ』
『アネット様に帝国語をお教えしたのはアメリさんですよね。アネット様はアメリさんに教えられた帝国語を喋っているのです』
ランベルト様とヤンセン様は顔を見合わせてた。
『つまり、アメリはアネット嬢に帝国貴族の様な言葉遣いを教えたという事か』
『アネット嬢は田舎で傭兵の養父に育てられた。多分金銭を使う事もあまりなかったのだろう。公爵家からの持参金は莫大だが、実際に今直ぐ自分の自由になる金はそれ程でもない。金銭について少し助言をしてくれないか』
『もうやってます。それで公爵家からの持参金は正式にアネット様のものという事になったのですか?』
『ああ、そうだ。身代金として渡された1万グルデンは帝国への慰謝料という事になり、教皇庁への寄進1万グルデンを引いた8万グルデンはアネット嬢のものだ。アネット嬢が要求するまでは帝室が管理するが』
『帝室が管理するのですか?』
『アネット嬢は1人で8万グルデンも使えないし、管理も出来ないだろう。軍を起こしたり、領地を買ったり、商売を始めたりもしそうもない、いやしないと思う。結局持参金になる』
『アネット嬢が帝室以外の者と結婚する場合は結婚相手の家に持参金を渡さないといけない。だが王侯は庶民のアネット・ロンに求婚したりしないだろう』
『アンジュ公爵は依然として帝室の誰かがアネット嬢と結婚して、公爵家と帝国が同盟する事を期待している。アネット嬢がアンジュ公爵家の後継者である事を秘密にするというのはそういう事さ』
その誰かってランベルト様しかないのでは?ヨハン様は一回自分で断ったわけだし、東方の防御に当たられてるハンス様は反対側まで来れないでしょう。
『それで私はどうしたら良いのでしょう?』
『基本的には今までと変わらない。アネット嬢の日常生活のお世話をしてほしい。それでアネット嬢の信頼を得てくれ。疑われるような事は厳に慎むように』
『理解しておいて欲しいのはこれが極めて重要な任務だと言う事だ。アネット嬢が帝室の一員となり、アンジュ公爵家を継げば、帝国は西方に拡張する。アネット嬢の事は帝国の西方政策の鍵となり得る』
『何かあれば支援を要請するように。組織全体が全力で支援する。其方は一人ではない』




