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 ガ・アニ・マーレイシュは徐々に入聖(アウダ)を控え始めた。シダーナを伴い、専ら争いごとの調停にのみ姿を現し、実際に問題を解決しながら、つまり人々を納得させながら、本だけでは伝わらないような、細かなテクニック、つまり、老人、女、子供、様々な職能の人間を納得させやすい話し方であるとか、角の立たない折衷案の提示法であるとかを、それとなく息子に伝えた。

「何故エイペスから声をいただけなかったのか考えなさい」それは、日ごろの行いを反省せよというような通俗的な助言ではなく、ヒディア島の歴史の中の1人として、あえて「エイペスと話せない神官」という立場を与えられた者として、島のため、人のためどう生きていくべきかを考えよという問いかけであった。シダーナは努めて良き息子、良き神官であろうとした。

 「大陸」からやってきた、宣教師とは別の分類の人間が、ヒディア島の権力者に会いたがっていた。マーレイシュは、その者との交渉を円滑に行い得ることこそ、シダーナが「大陸」の宗教と言語に心惹かれ、盛んに勉強したことの意味であろうと確信した。エイペスらに許可を取った上で、父は息子を、例の石造りの一帯へ送った。教会はとうにその全容をどっしりと島に見せつけており、次いで宣教師以外の「大陸」人の住まいや、食料の貯蔵庫などが着々と完成しつつあった。シダーナは前もって言われた通り、それらの建物の1つ、「使節館」とでも訳されるべき施設へ足を運んだ。使節館の周辺は、シダーナには想像できない技術でもって岩を粉々にして地面に敷き詰めてあるため平らで歩きやすく、また敷地周辺は鈍い光を放つ金属の柵に囲まれていた。砂利や粘土を混ぜ、高温に熱して作るという赤っぽいブロック体を組み上げて施設は作られており、ちょっとしたヒディア陽木よりも大きなその建物の屋根付近には「大陸」語の看板を捧げ持つ2人の天使が描かれていた。恐る恐るシダーナが玄関へ入ると、天井からガラス細工の照明が吊り下げられた、人工的に演出された暖色の空間であった。階段、柱、張り紙、案内板など見慣れぬ上用途もわからぬもので構成された異空間にシダーナは怯んだ。手前右手のカウンターにいた「大陸」人の女性に、履物を棚に収めるよう促され、恐る恐るスリッパーなる穴あき靴のような代物に履き替えると、同じ女性から、きれいなヒディア語で要件を伺われた。

「ヒディア島第88代神官、ガ・アニ・シダーナです……」できるだけ堂々と振る舞いたかったが、建物の中は勝手がわからなかった。シダーナは自分の無知を恥じた。

「少々お待ちください」女性はカウンター奥の扉に入っていった。間もなく、その女性と共に、建物の奥から大柄の男が姿を現した。

「シダーナさんですね。どうも初めまして」男は流暢なヒディア語を用い、掌に収まる薄く質の良い紙をシダーナに手渡した。シダーナが受け取り、目を落とすと、そこには3行ほどの見慣れない単語列が小さく、Erva Don Dyernという人名らしき並びが大きく書かれていた。

「エルヴァ・ドン・ディアーノです。以後お見知りおきを」その高級品と思われる薄い紙を、曲がらないように腰の物入れに押し込みながら、シダーナは自分の見た目を恥じた。ディアーノは、ヒディア島では見ない真っ白な襟付きの服の上から、縦に薄い線の入った紺色の上着を羽織っており、首から赤いヒモを垂らしていた(これは色や形で身分を表す、「大陸」の衣装で、タイと呼ばれるものだと後にわかった)。何故そんな奇妙な服装をしているのかは分からなかったが、服の生地の良質さと汚れ1つない清潔さは、その状態を保つことのできる文明と力を暗示していた。シダーナはと言えば、村の寄合に出かける時などと同じく、最大限相手に敬意を払う際の服装ではあるものの、木綿でできた皺の寄った服を羽織ったきりであり、とても目の前の大男と対等な立場にありそうになかった。

 若き神官は、ディアーノに導かれるままに、敷き詰められた絨毯のおかげで足音のしない、どこから流れているのか小気味良い音楽の流れる廊下を歩き、階段を上り、206という金属のプレートがかかった部屋の中に入った。海の見える大きな窓と、1つの机、そこに向かい合って配置された椅子。壁にはその場所を切り取ってきたような、美しい風景画が掛けられており、棚に観葉植物と、「大陸」語で書かれた分厚い本が数冊立てかけてあった。

 シダーナはもう、新しい情報に頭がくらくらするようで、ろくに交渉が行える状態ではなかった。席についてディアーノが始めた話もまた、シダーナを混乱させるものだった。

 今、ヒディア島内部及び周辺島との交易は、物々交換によって成り立っている。これは取引の公平性を欠きやすく、またその場にあるものとしか交換できない点で合理的ではない。そこで、この島にも我々の所と共通の「貨幣」というものを導入したい、というのが、大男の第1の提案だった。男はポケットから銀貨を数枚取り出した。

「これは、「大陸」の鋳造所で作られた、コインという金属片です。是非手に取ってみてください」シダーナは言われるままにその不思議な塊を手に取った。どれも驚くような精度で同じ横顔が彫られており、同等に美しい物を、シダーナはそれまでの人生でジュレル・ラ・エイペスの他に見たことがないことを確信した。

「これ自体でも価値があるのはお判りでしょうが、これは皆に共通の約束を為した時、更に輝くのです」なんでも、これ1枚をヒディアの魚10匹、別の島の魚8匹、浜果実6房等々と等しい価値を持つと皆で了解すれば、これを介してより多量の交換がよりスムーズに為せるという。

「あまり魚が獲れない時も、直ちに貧しくはなりません。前もって魚をコインに変えて貯めておけば、不作の備えになるというわけです」ヒディア島周辺は、「大陸」と違い、自然の恵みが豊かで、魚が獲れなくなったからとて直ちに飢えるわけではなかった。シダーナは、正直コインなるものの必要を疑ったが、ディアーノは友好的に見えて有無を言わさぬ取引上手でもあった。

「それに、コインを介せば、「大陸」の物をもっと島に取り入れることが出来ます」と言って、男はキラキラしたいくつもの「大陸」製品を机に並べ、1つ1つ説明を始めたが、シダーナはあまりよく聞いていなかった。玄関に入ってからこれまでで、覚えていられる容量を超えていた。

「最後に、」と、そのスーツの男はシダーナに、コイン4枚の価値があるという黒っぽい板を渡した。

「今回はお代はいただきません。是非、家族の方々と食べてみてください。西方のコルカ島で収穫されるコルカ豆をすりつぶし、砂糖や獣乳と混ぜ合わせた菓子です。これで必ずや、コインの必要性を感じられると確信しています」一旦父や寄合の老人方と相談します、と辛うじてシダーナが言うと、大男は頷き、にこやかに、次の交渉日を決め始めた。万事「大陸」側のテンポで進み、疲れ切ったシダーナが使節館を出るともう太陽が姿を隠し始めていた。シダーナはもうあの強烈な大男が後ろから追ってこないことを確認し、家に帰り、父に報告する前に眠ってしまった。

 次の日、入聖(アウダ)を終えて家に戻る森の中、ふと昨日貰った板を思い出した。恐る恐る取り出してみると、板はそのままの形を保っていた。少し砕いて口に入れると、強烈な甘味と苦みがして思わずシダーナはそれを吐き出した。浜になるジュラの実や森のあまり熟さないエーメルしか食べたことのないヒディア島人にとって、コルカ・レートというその菓子はインパクトが強すぎた。しかし、食べるのを断念してしばらく進むと、また口に入れたくなる魔力を持っていた。シダーナは、少しずつ、欠片ずつ口に入れていたが、ついに家にたどり着く前に、その銀貨4枚分の菓子を、ヒディアの魚40匹分の価値を、すべて1人で食べてしまった。そうして家に戻ってから、熱心に、父にコインの導入の必要性を訴えた。


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