第7章 過去とこれからも
移り変わる天気の中、いつもの景色、いつもの日常が繰り返される。もうすっかり見慣れた道を今日は夏樹と歩く。二人で出掛ける日もたわいのない日常に染まっていくような気がした。道を曲がると太陽が二人を照らしており、先程よりもずいぶん影が伸びていた。『そろそろおやつの時間ぐらいかな』なんてぼんやりと考える。
「ねえ、あの子どうしたのかしら。」
夏樹が指を差す方向を辿ると七歳ぐらいだろうか、小さな男の子がしゃがんでいる。微かに聞こえてきていた鼻をすする音はここからだったのだろう。美月は駆け足でその子の元へ向かう。
「僕、どうしたの?」
いつからいたのだろうか。涙は流していないものの男の子の目と鼻は真っ赤になっており、頬には涙の跡が見える。
「えっとね、みんなでね公園でね、かくれんぼしてて……。」
そう言いながら男の子はまた涙目になっていく。
「ちゃんと言えて偉いわね。みんなといた公園はどんな公園だったか覚えてる?」
「えっとね、赤くて大きい丸いグルグル回るやつがあった……。」
その返答に理科室によくある地球儀しか頭に浮かんでこなかった。
「んー、どこだか分かる?」
知恵を借りようと隣に声をかけるもそこに夏樹はいなかった。慌てて後ろを振り返ると、辺りを見渡しながらチラチラこちらを見ている。
「ねえ夏樹くん、この辺で赤くて丸いグルグルする遊具がある公園ってどこかしら。」
周りの壁に少し慌てた自身の声が反響する。
「え?赤くて丸いグルグルする遊具?ああ、多分あそこね。分かったと思うわ、そこに行けばいいの?」
ホッとした表情を浮かべながら早足でこちらへ戻ってくる。
「ええ、そこにお友達がいるみたい。」
「そうなのね、ひとまず安心だわ。こっちよ。」
夏樹が差した方向へ三人で歩き出した。太陽によって地面に映った影はまるで親子のようにも見える。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、身長高くてかっこいいね。僕もお兄ちゃんたちみたいに大きくなれるかな。」
先程の涙の影はどこかへ消え、地面に映った三人の影を見ながら男の子がニコニコと話す。
「もちろん、僕たちを追い越しちゃうくらい高くなれるよ。」
夏樹が男の子の頭上から空へ向かって手を上げる。男の子と一緒に手の先を目で追った。空は先程よりも赤みの強いグラデーションが広がっている。
「あ、一番星!」
その言葉に目を凝らすと夏樹の手のはるか先で一つ星が輝いていた。そう言えば今日のニュースで金星が見えやすいと言っていたような気がする。
「あれはね、金星って言うのよ。私達が住んでいる地球と同じ惑星なの。」
頭の片隅にある微かな知識を話す。
「へー、そうなんだ!じゃああそこから見ると僕たちは、こんな豆粒に見えてるんだね。」
小さな指で小さな丸を作る。
「えーっと、金星には誰もいないんじゃなかったかしら……。」
夏樹へ投げかけるも難しい顔をしてこちらに首を傾げるのみだった。
「そうなの?じゃあ僕が一番に住みたい!だってあそこに住んだら、ぜーんぶ僕のものになるんでしょ?お兄ちゃんとお姉ちゃんになら特別に一緒に住んであげてもいいけど!」
大きく腕を回し、キラキラした表情をこちらに直球で向けてくる。その顔に美月はなにも否定ができなかった。
「本当?ありがとう。じゃあ、僕の物になったらお姉ちゃんたちを招待してね。」
二人は男の子の頭の上で目を合わせ微笑み合った。
公園が近づいてくるとだんだん他の子供たちの声が聞こえてくる。
「あ、声がする!ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
「もう迷子になるんじゃないわよ。」
「うん!」
そう一言元気よく話すと公園まで駆けていった。公園の中に入ると友達だろうか、四、五人の男の子が顔を出す。二人で手を振ると男の子たちは顔を見合わせて遠慮がちに手を振る。そしてまた、公園の中へと消えていった。
「お前、どこまで行ってたんだよー。」
背中越しにそんな声が聞こえた。二人も公園に背を向け、先程三人で歩いた道へと歩き出す。
「この公園、よく知っていたわね。」
家からは少し遠く、住宅街しかない道はまるで迷路のようだった。
「毎年墓参りに来ている中で最初の方、この辺で迷子になったことがあるの。その時に目印で覚えた公園なのよね。」
「そうなのね。夏樹くんが知っていてくれてよかったわ。」
「いや、迷子を救ったのは美月さんよ、子供ってとっても素直で素敵ね。」
「そうね、本当に素直で純粋。羨ましいくらいよ。」
どこかふわふわとした感情に浸りながら先程の言葉で引っかかった疑問を投げかけてみる。
「ねえ、夏樹くんって子供苦手なの?」
「そ……そんなことないわよ。……でも小さい子と話す機会があまりないから、対応には少し焦ってしまうわ。」
「確かにそうよね。私もこの仕事で子供と関わっていなかったら苦手を意識持っていたと思うもの。」
美月は今までに関わってきた子たちを思い出す。そしてあの男の子には一先ずこの世界を知らずに生きてほしいとそう願った。
「美月さんがいてくれて本当に助かったわ。ありがとう。」
「こちらこそよ、公園の場所まで案内してくれてありがとう。」
その後も他愛もない話を続けながら、二人は同じ部屋に入った。
「ただいまー」
「お邪魔します。」
先程購入した紙袋を一つ部屋の隅に置き、まだ少し肌寒い季節がエアコンのリモコンに手を伸ばさせる。
『ピッ』
いつの間にか何も言わずに手が伸びてしまうくらいにはこの環境に慣れてしまっていた。夏樹は先程の紙袋の中身をハンガーに丁寧にかけている。
「さあ、美月さん。そこに座って頂戴。」
先程の焦った様子とは裏腹に、張りきった声と表情でソファーと机の間を指す。美月がこれから行おうとすることに少し気恥しく感じていることなど気付いていないのか、お構いなしなのかは分からないが、その声色から少し高揚しているように感じた。
「よろしくお願いします。」
気づかないうちに身体も緊張しているのか、正座をしている足がいつもより早く痺れていく。
「美月さん、早く目を瞑って。」
九歳になったばかりだったあの子と同じ言葉数なのに、聞きなれた声と信頼のある眼差しに自然とまぶたが落ちる。
『シュッ』
顔全体にひんやりしたものが降りかかる。良い香りを残したまま、柔らかいスポンジが顔に押し付けられていく。こんなにも丁寧にスキンケアをした事なんて今まであっただろうか。そんな事をボーっと考えながら、言われるがままに目を開けたり閉じたり上を向いたりする。
「やっぱり……素材がいいわね。」
どれぐらい経っただろうか。瞼を閉じたまま、暗闇の中でそう呟かれる。
「目開けてもいいわよ。」
その声掛けにゆっくり目を開ける。目の前には顔立ちがいつもよりハッキリした自分がいた。
「……。」
そしてその奥には鏡を持ちながら得意げな顔をしている夏樹がいた。
「私ってこんな顔もできるのね。」
目を吸い寄せられるように鏡に映った顔をつい見てしまう。
「とっても綺麗よ。ほら、早く着替えてみなさい。」
そう言って奥の部屋へと推し進められる。扉が閉まったことを確認し、部屋の奥にある姿鏡でもう一度自身の顔を見た。そこには見たことない自分がいた。
「……凄い。」
自分の顔だと分かっているはずなのに『綺麗』という感想しか出てこなかった。
「もういいかしらー?」
どのくらいの時間鏡を見ていたのだろう、先程の部屋から痺れを切らした声が聞こえてくる。
「ちょっと待って!」
慌ててハンガーにかけてあるワンピースを手に取り、袖を通していく。着慣れないワンピースに少しはにかんでしまう。
「これで……いいのよね?」
ドアを開けに行こうと歩きだすと足元から胸元へ慣れない風が入ってくる。ドアノブに触れ、少し開けると夏樹がこちらを振り返る。。
「あら!やっぱりこのワンピースにして正解ね〜。でも待って。やっぱりこの色の服ならここのメイクはもう少し薄くして、チークはブルーよりにしようかしらいや、いっそオレンジの方が……。」
顎に手を当て、ワンピースと顔を交互に見ながらブツブツと呟いている。
「そうね、もう一度……ってもう時間がないわね。素材がいいのだから大丈夫だと思うわ。うん、絶対きれいになる。当日も任せてくれるのよね?確か十時に会場だったわよね。じゃあ少し早いけど、六時半頃……ここにこれる?」
「え、ええ。もちろん。本当にありがとう。」
矢継ぎ早に話す夏樹に追いつくように一先ず承諾する。ワンピースを夏樹の家に置かせてもらい、夜道を歩いた。いつの間にかじんわりと街頭が灯っている。自宅へ帰った夜はなぜか少し落ち着かなかった。
「良い天気。良い日になりそうね。」
まだ太陽が昇ったばかりの暗い空気は澄みわたり、微かに星が見えている。そこには雲一つない空が広がっていた。冷たい風がコートをなびかせる中、いつもの道を歩く。
「いらっしゃい、寒かったでしょ。」
部屋の中は既に温められており、コップが二つとフェイススチーマーが机の上に置かれていた。
「とりあえず、冷えた身体を温めて。」
そう言われ、コップに注がれた白湯を口に含む。体の芯からじわじわと温かくなっていくのが分かった。夏樹がフェイススチーマーの電源を入れる。
「こんな感じで顔に当てるの。大体そうね…十分ぐらいかしら。その間にほかの準備をするから。」
自分よりもセカセカとしている夏樹に引け目を感じながらも言われた通りに顔に水蒸気を当てる。『何に効いているのだろうか』と感じながらも、少し息がしにくい十分間を静かに過ごした。
「そろそろいいかしらね。」
大量のメイク道具と思われるものを机の上に置きながら、いそいそと鼻歌交じりにスチーマーを片付け始めている。
「さあ、始めましょうか。」
意気揚々とした声と表情に始めて出掛けた日を思い出す。あの時も私のために行動をしてくれていた。口角を上げて話そうとしたが、既に上がっていた。目の前では先日見た化粧水が意気揚々と握られている。声を発する前に目を瞑ることにした。
『シュッ』
先日と同じ香りが鼻に届く。前回よりもゆっくりと丁寧にスキンケアをされていく。優しく、繊細な手先に安心を覚えた。
「少し目を開けられる?」
その声にゆっくりと目を開ける。目線が合っているようで合っていない真剣な顔がまっすぐこちらを向いていた。
「うん、出来たわ。綺麗ね。最後に少し強めに目を瞑って頂戴。」
目を瞑ると先程とは違う香りが鼻を抜けた。夏樹の声でもう一度目を開ける。そこには以前と少し印象の違う自身が鏡越しにこちらを見ていた。
「凄い……。メイクってこんなにも人を変えるのね……。」
その言葉に反応したのか夏樹は驚いた表情をしたあと、どこか懐かしむような表情をした。
「ええ、人ってメイクでどこまででも輝けるのよ。」
それだけ言葉にした。
「あら、もうこんな時間。メイクに時間をかけすぎてしまったわ。早く着替えちゃって。」
そう言いながら時計を見てバタバタと隣の部屋に消えていった。
先日の帰り際、紙袋の中に畳んでおいたはずのワンピースはいつの間にかハンガーにかけられ、背中のチャックも開けられていた。ブルーグレーのワンピースに袖を通していく。袖とスカートの一部にレースがあしらわれたレイヤードが入っており、レース越しに温かい空気が気持ちよく入ってくる。背中の半分まで閉め、夏樹が待つ部屋のドアノブを開ける。メイク道具を見比べながらブツブツと呟いている。
「……あら!いいじゃない!素敵!ほら、背中を向けて。チャック閉めるわよ。」
先程なにかを考えていた人とは思えないくらい上機嫌に「いいじゃない、いいじゃない」と繰り替えし、話している。
「メイクもいい感じに馴染んでいるわね。……ドレスも、やっぱりこの色にして正解ね。」
「夏樹くんのおかげよ。本当にありがとう。」
夏樹は優しく微笑むのみだった。
夏樹の家を出て呼んでいたタクシーに乗り込み、数十分。タクシーの運転手に声をかけられ、着いたことを理解する。それは都会のビル街の中に馴染みすぎている、在り来たりなビルが建っていた。
「ここ……なのよね。」
半信半疑になりながら自動扉を抜け、すぐ右側にあるエレベーターで三十階まで昇る。
自動扉が開いた瞬間、目が眩んだ。目の前に開かれた両扉の向こうは太陽の光が会場内を降り注いでいる。反射した白い壁が眩しすぎるほどだった。会場内に目を奪われながら部屋前にある受付へと足を運ぶ。
「すみません、一条美月と申します。こちら、お願いします。」
「はい、一条様ですね。お預かりさせて頂きます。こちらにご記入をお願いしてもよろしいでしょうか。席次表はこちらになります。」
受付を済ませ、席次表に記載されている場所までゆっくり歩く。目を奪われた会場内に入ると青い絨毯がまっすぐ引かれ、花束が色とりどりに飾られている。それははまるで海の上に花畑が広がっているようだった。
席に着き、数分後。扉が閉まり、アナウンスと共に式が始まる。新郎が牧師前に到着後、両扉が開き、見慣れた白いナース服ではなく、純白のドレスに身を包んだ彼女がいた。自然と拍手が沸き上がる。
アナウンス通りに挙式が進み、終了後、スタッフに呼ばれ彼女がいる部屋へと通される。
「先生!今日は来てくれてありがとうございます!」
「こちらこそ、素敵な式に呼んでくれてありがとう。西澤さん、とても綺麗ね。」
その表情は幸せ以外、なにものでもない感情が溢れていた。
「先生、なんだかそのメイク……本当に似合っていますね。まるで先生のためのメイクって感じがする……。」
そう言いながらまじまじと顔を見つめられる。
「ええ、私もそう思うわ。本当にこのメイク綺麗よね。」
なぜ少し誇らしげに話したのか西澤には分かったのだろうか。目の前の彼女は更に花が咲いたような笑顔になる。西澤が口を開いた瞬間、遠くの方で彼女を探している声がした。
「え、今?先生!えっとえーっと……また話聞かせてください!先生が覚えてなくても私は覚えているので!絶対ですよ!絶対!」
声のする方へ身体を向けながら「今日は来てくれてありがとうございました!」と軽快に去っていく。美月は口元から笑いが零れてしまうくらい嬉しくなった。そしてこの事を彼に伝えなきゃと急いでエレベーターに乗り込んだ。
タクシーに乗り込み、夏樹の家の住所を伝える。行き道よりも混んでいるのか車はゆっくりと進む。そのスピードがとてももどかしかった。そのスピードに揺られて美月はいつの間にか瞼が落ちていた。
「お客さん、こちらでよかったですかね。」
いつの間にか見覚えのあるマンションの前にタクシーは止まっていた。
「ありがとうございます。クレジットカードで……。」
「ありがとうございました。扉が開きますのでご注意ください。」
車から降り、マンションのインターフォンを押す。バタバタした音とともに目の前の自動扉が開いた。エレベーターに乗り、夏樹の部屋のインターフォンを押す。足音が段々と大きくなり、扉が開く。
「お……お疲れさま。早かったのね。」
「ええ。えっと……大丈夫?」
なぜか少し息を切らしていた。
「ええ、もちろん。疲れたでしょ。早く中に入って頂戴。」
せかされながら中に入ると、朝と同じ暖かな空気とどこか柔らかい匂いが部屋中を舞っていた。
「ひとまず……、洋服着替えるわよね?朝と同じ部屋に美月さんの荷物がそのまま置いてあるわ。」
奥の部屋に入ると荷物がそのまま置いてあった。何も手を付けられていないことにもどかしさと安心さを覚える。ラフな格好へと着替え、扉を開けた。ローテーブルの上には豚汁と卵焼きと白いご飯が準備されていた。
「ギリギリ間に合ってよかったわ……。」
その匂いが疑問を口にする前に自身のお腹を鳴らす。
「式中なんて、食べられるタイミングないでしょ。途中のどこかで食べるようだったら夜ご飯になるし、すぐに帰ってくるならお昼ご飯になれるかなと思って。もしかして……迷惑だった?」
なぜか不安そうな顔をする夏樹に大きく首を振る。
「そんなわけないでしょ。とってもお腹空いてたの、とても嬉しいわ。ありがとう。」
温かい和食の前に座り、手を合わせる。豚汁を一口飲むと、口から身体の中までじんわりと温かくなっていく。慣れない疲労が取れていくような気がした。
「おいしい。作ってくれてありがとう。」
夏樹を見ると満足げな顔をしながら、先程美月が来ていたワンピースを袋の中に入れていた。
「良かったわ。これ、クリーニング持っていくのよ。」
「大丈夫よ、出来るから置いておいてちょうだい。」
食事を食べ終わり、美月は紙袋を片手に帰路に着いた。
「さむ…。」
冬も過ぎ去り、少し暖かい日が増えてきた春の朝。美月は寒さで目が覚める。
「にゃんちゃん、おはよ。」
日課である斜め上に置かれているキャットハウスの中で寝ている愛猫に挨拶をする。いつもであれば眠たそうな返事が小さく返ってくるはずだった。頭がぼんやりしている中もう一度声を掛けるも、鼻水をすするような音だけが返ってくる。急いで起き上がり目を向けると、少しぐったりしている様子だった。
「どうしよう、風邪かな……。仕事終わったらすぐに病院に行こうね。ごめんね。」
愛猫への心配な気持ちを他所に、出発時間は迫っていく。部屋の温度を少し上げ、急いで外に出る。仕事中もぐったりした愛猫が頭の片隅にいた。『今寒くないかな』や、『ご飯少しは食べられたかな』などさまざまなことが頭を駆け巡り、落ち着かなかった。病棟内は少しバタついており、美月の担当ではない患者が亡くなったようであった。気が付くと病棟に夏樹がいた。他患者の部屋へ向かう途中、夏樹と少し目が合ったような気がした。しかし美月にはその事を気に留められるほど余裕はなかった。
数時間後、患者の送り出しが終わったのか、部屋から出てきた夏樹がなぜかこちらへ向かってくる。
「あなた体調悪いんでしょ。今日は早く帰んなさいよ。」
小声で足早にそう話される。急いで否定をしようとしたが、息をつく前に夏樹の姿は離れ、見えなくなっていた。
仕事が終わり夏樹のことが気がかりではあったが、連絡をする時間よりも先に愛猫を病院へ連れて行くことにした。
「ただの風邪でよかった。今年は例年より少し冷えているものね。いっそのこと引っ越そうかしら。」
温かい毛布に包まれてペットキャリーの中にいる愛猫に声を掛けながら帰路に着く。自宅で愛猫のご飯を作っていると遠くの方からバタバタした足音が聞こえてきた。
『ピンポーン』
今日に限って宅配が来たのだろうか、そんな煩わしさを覚えながらドアを開ける。
「あなた大丈夫⁉どうしてまだ着替えてないのよ。」
少し息を切らしながらビニール袋を両手に持った夏樹が目の前に立っていた。
「えっと……。」
「体調悪いんじゃないの?……いや、なんだか元気そうね……。でも見た目じゃわからない事もあるし……。」
「勘違いをさせてごめんなさい。にゃんちゃんが風邪みたいなの。さっき動物病院も行って来たのよ。夏樹くんに連絡をしようと思っていたのだけれど、バタバタしていてすっかり抜けてしまっていたわ。ごめんなさい。」
美月は驚きを隠せないまま事の経緯を説明した。
「そうだったのね。早とちりだったわ。確かにこの部屋少し寒い気がするわね。それなら私の家で看病しましょうか。」
その言葉に頷き、美月は急いで荷物をまとめた。そのまま夏樹と共に布団にくるめた愛猫をペットキャリーにそっと置き、夏樹の家へ向かった。
「猫の風邪ってどうやって看病するのかしら。」と呟きながら空気清浄機でいつもより空気中の水分量の設定を上げている。何気ない優しさが美月の心をくすぐった。愛猫は隣でいつもより体を丸ませながらソファーで眠り始めている。普段より呼吸の速度が速い気がした。
「美月さんも今日はここで休んでいったら?起こしちゃうのも可哀そうよ。」
そう言って当たり前のように寝間着とタオルを渡される。戸惑いながらもシャワーを浴び、愛猫の元へ急ぐ。ドアの向こうからは一つの物音もしていなかった。静かにドアを開けると愛猫の隣には夏樹が寄り添って座っており、二人とも眠っていた。美月は静かにドアを閉め、廊下の壁に寄りかかる。
首と腰が痛くて目が覚める。いつの間にか眠ってしまったようだった。
「痛……。今何時……?」
身体にはタオルケットがかかっていた。リビングのドアを開けるとソファーで携帯を触っている夏樹がこちらを振り返る。
「あら、起きたのね。おはよう。」
夏樹の隣で丸まっている愛猫を見ると、まるで花畑にいるような色とりどりのタオルケットに包まれて気持ちよさそうに眠っていた。
「にゃんちゃん見ててくれてありがとう。」
夏樹は「当たり前でしょ。」と言いながらキッチンに向かい、ホットミルクを手渡される。
「あの態勢、辛かったんじゃない?」
苦笑いをしながら受け取ると、手元からじんわりと痛んでいる部分まで温まっていくのを感じた。
その夜はいつもよりゆったりと話が弾む。
「そう言えば、いつかの故人さんで猫が好きな女の子いたわよね。あなたの担当の方だったと思うけど……。猫と映っている写真がたくさん飾られていて、棺桶の中にはその子と花畑ぐらいたくさんの花と、たくさんの猫じゃらしが添えられてたの。あの子の好きなもので棺桶の中が溢れているようで……あれとっても印象的だったわ。」
夏樹が愛猫を撫でながら、なにかを思い出したかのように突然話し出す。
「あ……その子、私の担当患者さんだった子よね。とっても猫が好きな女の子だったの。その写真に母親猫と映った黒い子猫、いなかった?その写真の子猫、この子よ、にゃんちゃん。」
夏樹は理解が追いついていないのか撫でていた手が固まり、どこか一点を見つめたまま動かなかった。数秒後、ゆっくりと目が合う。
「えっと……え?どういう事……?にゃんちゃんがあの子……?あの……写真に写っていた子……?」
「ええ、そうよ。」
「えっと……そうなのね。どういう経緯で……とか聞いてもいいかしら。」
ためらいながら話す言葉の中の優しさが心に染みてくる。
「最初はね、猫とか犬とか。ペット自体を買う気なんてなかったのよ。自身の生活だって適当なんだから、命を預かるって言うことが怖くて。」
不定勤務な上、自身のスキルの向上のために海外へも行っていた。だからこそ当たり前にペットの購入は考えてもいなかった。
「そうね。一つの命の責任を負うって、とても怖い事よ。だったらどうして……。」
「これは、隣にいるにゃんちゃんにはあまり聞いて欲しくない話なのだけれど。あの時はどうしても目の前にいる患者の事を元気づけたくて、勢いに任せて言ってしまったのだと思うわ。……だけれど今考えたらあの時、あの場所で他の医者と同じことしか言えない自分に存在価値のなさを感じてしまったのだと思う。医者以外に取り柄がない私なのに、医者と言う価値でさえなくしてしまったら、本当になにもなくなってしまう。その事が怖かったんだと思うわ。」
あの時必死にあの子の求めている答えを探していたと思っていたが、実はあの子の中で自身の価値を探し求めていたのだと考えた。
「そう……なのね。一先ず、にゃんちゃんを引き取っていても引き取っていなくても、あなたの存在価値はあるに決まっているのよ。人に何かをしなきゃとか、頼ってもらわなきゃとか、思ってしまう気持ちも分かるけど、あなたは存在をしているだけで当たり前に価値があるのよ。それはあなただけじゃなくて、にゃんちゃんにも誰にでも当てはまることよ。だからあなたは、これからもここでご飯を食べて、仕事をして、時々一緒に遊びに行きましょ。」
その言葉に納得をしたくてもどこかでできない自分がいた。そのことが悔しく、もどかしく感じてしまう。
「そっか、そう……よね。ありがとう。」
その言葉にどこか不服そうな夏樹がいた。眉間にしわを寄せながらじっとこちらを見ている。
「もう……。わたしはあなたとこうやって話をすることが好きなのよ。日常のどうでも良い会話を話せる人ってわたしにとっても、とても貴重なの。だから、ね?」
きまりが悪い語尾とともに夏樹の視線が逸らされていく。なぜかにゃんちゃんと同じことを考えているような気がして、あの写真からだいぶ大きくなった愛猫にそっと微笑んだ。そしてあの女の子の事を思い出す。
ーーーーーーー
猫が大好きだったあの子は、五百万人に一人という珍しい病気を患っていた。治療が確立されていないにも関わらず子どものみに罹患し、極めて死亡率が高い事から現在まで医療界全体で注目されている疾患だ。それは解剖生理学基礎の教科書のコラムにも載るくらい有名であり、世界全体で研究に取り組んでいるという証なのだろう。病室であの子と話をしているとき、時々ふとあの機内での光景が脳裏に浮かんでいた。それは現在、夏樹とあの子のことを話していると、同じようにあの病室での光景が脳裏に浮かぶ。
それはいつものように病室で美月の髪の毛をアレンジされていた時だった。二つ結びなんて何十年ぶりにしたのだろう。左右の高さが違うのもご愛嬌だろうと考え、鏡に映る自分に笑ってしまう。
「美月先生、あの先生の名前分かった?」
「分からないわよ。廊下で会った高身長イケメンの先生だなんて。」
「えー、でもね。あの一瞬で『この先生と結婚するんだ』ってあたし、決めたの!初恋!美月先生の初恋はいつ?」
「初恋かー。忘れてしまったわ。」
「えー、けち。じゃあ忘れられない人とかは?いるでしょ?」
「んー、そうね。少しだけしか話してないのに、時々その出来事だったり、その人だったりを思い出すことは……あるわね。」
「え、初恋!先生、私と一緒!」
考えてもいなかった発想に笑ってしまった。頭の後ろでは「先生可愛い。」とニコニコしていそうな声が聞こえていた気がする。
ーーーーーーー
「ふふっ」
いつの間にか笑みが溢れていた。
「えっと……どうしたの?なにか面白い事でもあった?」
隣を見ると怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「いや?思い出し笑いよ。」
「そう……なの。じゃあにゃんちゃん、大切にしないと……ね。」
愛猫に向けられた眼差しは優しく、あの時を追憶しているようだった。
「そうね、大切な家族よ。」
その後も今までの人生から今後やってみたいことなど。心地の良い空間の中、いつの間にかまた眠ってしまっていた。
「にゃーん」
愛猫の声で目が覚める。すっかり元気になっているようだった。寝起きにも関わらず頭が冴え、自然と笑顔になる。
「にゃんちゃん、元気になってよかったわね。」
後ろから聞きなじみのある声がした。振り返ると、両手に白い皿を持った夏樹が近づいてくる。良い匂いのする朝、雲ひとつない空、腕にすり寄ってくる愛らしい家族。まるで自分ではない誰かの人生を体験しているのではないかとさえ考えてしまう。
「こんな朝早くからなんて久しぶりだし、どこか出掛けましょうか?」
その言葉に美月は『どうせならいつもとは違うことがしたい』なぜか頭の中で考えつく。
「ピクニック……はどうかしら?でも、にゃんちゃんが心配だから遠くの公園とかではなくて、ベランダでとかがいいわ。」
「あら、いいわね、ピクニック。さっそくお弁当用意しましょ。」
そう言って夏樹はキッチンにある棚の中から重箱のような弁当箱を取り出してきた。
「さあ、作るわよ!」
はりきった声をあげ、髪の毛をポニーテールのように一つに結ぶ。髪と共に藤の花が艶やかに揺れた。美月も隣に立ち、同じように髪の毛を結んだ。弁当箱の中にサンドウィッチや唐揚げ、フルーツなどが色鮮やかに詰められていく。
いつの間にか時間は過ぎ、お昼が過ぎたころ。外のベンチに腰掛け二人と一匹で空を見上げる。雲ひとつない空に一匹の鳥が優雅に飛んでいた。その春の陽気に数年前の四月をふと思い出した。
ーーーーーーー
医師免許を取得し、研修医になった四月。初めてある患者の担当医師になった。今となってはあまり気に駆けないであろう一年に一回、定期的な健康診断目的の患者だった。昨年と同じ検査を行っていく。患者にとって同じルーティンであっても美月は毎日病室に顔を出し、時には世間話をしていた。学生時代から上手く話せなかったにも関わらずに話しができたのは、相手が話し上手だったからなのもあるのだろう。病気の悩みや仕事の悩みまで、数分から数時間毎日様々な話をした。
『こんなに良くしてもらったのは初めてだ。俺の治療なんてみんなルーティンでやるもんだから、担当の先生なんて入院期間全て通して三十分も話したかなってぐらいのときもあるのに。俺の話を親身になって聞いてくれて嬉しかったよ。あんた、まだ研修医って言ってたっけ。そんじゃそこらの医者より良い医者してるよ。来年もここに来るから、よろしくな。』
退院前の診察終了時、その患者からそう話された。今までまともなコミュニケーションを取ってきていなかった美月にとっては衝撃的で、言葉が詰まり、なにも話せなかった。それでもよかったのか、患者は右手をあげて診察室から出ていった。しかし、その言葉で医者の道を他人に認められた気がした。
ーーーーーーー
「あなたの人生、素敵になったわね。」
過去の出来事に浸っていると、唐突に隣から声がかかる。
「え?えっと……ええ。とても。」
まるで見透かされたようなその言葉に動揺を隠せなかった。
「なに驚いてるのよ。もしかして、まだつまらないとでも思っているわけ?そんなの私が許さないわよ。」
夏樹は無邪気にそう笑いながら目の前にあるお弁当からサンドウィッチを手に取り、食べ始めた。
「いや……そうね、私の人生っていつの間にかこんなにも素敵になっていたのよね。本当にありがとう。」
夏樹と出会ってからの人生を思い出し、空を見上げる。自身の心を表しているのではないかと考えてしまうほど青空がどこまでも広がっていた。その空に目を細め、美月も同じように食べ始める。二人で作った弁当はいつもの食事と比べて、何倍も美味しく感じた。
「礼なんていいのよ。代わりにね、これからも目一杯私に飾らせてちょうだい。……最期まで。」
文末の言葉が上手く聞き取れなかった。しかしなんとなく聞き返さない方が良いと思えるくらいには心が充実していたのだろう。
これまでの人生の中で長いような短いような一番濃い時間。そしてこれからもこの時間を共に歩み続けて行けるのだろうと考える。
「きっと最期まで。」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。改めまして、柊向とあと申します。
美月と夏樹はこれからも共に歩んでいくのでしょう。私も傍観者の一人として、二人のこれからをあなたと共に見守っていきたいと思っています。
評価、コメント等頂けましたら活動の励みになりますので、どうぞよろしくお願いします。
柊向とあ




