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水無月 -水が注がれ月が浮かぶー  作者: 柊向とあ


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第6章 水無月

「ほら、もう二十二時よ、早くしないと!」

 せわしなくキッチンで動いている夏樹の声が、こちらまで聞こえてくる。目の前では高城が今流行りのテレビゲームをしていた。美月はソファーに座って隣にいる愛猫を撫でている。

「ふう……危ない。ハル、一時中断してちょうだい。みんなで食べるのよ。」

 そう言いながら温かい蕎麦を三つ、目の前の机の上に置いた。

「美味しそう……。年越しそばなんて大人になってから初めて食べる気がするわ。」

「え、嘘だろ……。唯一と言っていい、夜中に罪悪感なく食べられる日なのに?これからは毎年集まらないとだなー。」

 高城が手を合わせて蕎麦を啜る。美月も真似をして食べ始める。先程夜ご飯を食べたばかりだと言うのに急にお腹が空いてくる。

「年越しそばって一年の厄災とかを切り捨てるために食べるんですって。だからこれ以上は何も食べたらだめなのよ?」

 高城が持ってきた大量のお菓子に目をやりながら夏樹も蕎麦を啜った。

「おいおい、嘘だろ……?今から三人でゲーム大会するだろ?それのお供は?菓子しかないっしょ……?」

「ふふっお腹が空いたら食べましょ。年末ぐらいいじゃない。」

 夏樹の言葉にあからさまに落ち込んだ高城を見て、なんとなく『二人は似ているな』と感じてしまう。

「はあ、しょうがないわね……。今日だけ特別ね。」

「よっしゃ!お二人さん食べ終わった?ゲーム始めようせ!」

 意気揚々と食べ終わった蕎麦の器をシンクに置き、なぜかコントローラーを掲げている。

「美月さん、ゆっくりでいいからね。……ハル!やってやろうじゃない。絶対負けないから。」

 子どものように目をキラキラとさせ、夏樹と高城の二人でゲームを始めた。流行りのテレビゲームは家族向きなのか可愛らしいキャラクターで作られており、蕎麦の汁とともに温かい気持ちになっていく。

 蕎麦もすっかり食べ終わり、数時間経っても風景は何も変わらなかった。

『ゴーンゴーン』

 気が付くと今年が終わろうとしていた。

「ナツ、それはなしだろ!」

「ハルがそこに突っ立っているのが悪いのよ」

 目の前では、未だ二人がふざけ合いながら変わらず流行りのテレビゲームをしている。遠くからは今年の終わりを告げる除夜の鐘が聞こえてきていた。

「はあ。」

 鐘の音の重圧に耐えきれず、思わずため息を吐く。

「どうしたの、ため息なんてついちゃって。今年が終わることが悲しい……とか?」

 自分の心が少し落ちているからか、ゲームをしながらも他人の言動を見逃さない夏樹に関心を覚えた。

「いや、オーストラリアに住んでいた頃近くに塔があって、その一番上には大きい鐘があったのよ。その鐘が毎日十二時に鐘が鳴っていたのだけれど。日本では鐘の音なんてあまり聞く機会ないでしょ。だから前の生活を思い出しちゃって。」

 ゲームの中断はしていないが、二人の指がゲームコントローラーの上で止まり、ゲーム内のキャラクターは一切動かない。テレビゲームのBGMだけが流れ続けている。

「それって嫌な記憶がってこと?あれはあれで経験なんじゃないかってわたしは思うけど。」

「いや、途中で投げ出してきちゃったから。私の担当だった患者さんはどうしているかなって。今生きているのかなって考えてしまって。」

 自身の声があまりにも暗い声だったのだろうか、テレビゲームはいつからか一時中断画面となっていた。二人がこちらに身体を向け、視線が合う。その瞳は少し揺れているような気がした。単純なBGMと鐘の音だけが響いている。

「少し的外れな事を言うかもしれないけど……、いいかしら。」

 夏樹がゲーム機を置きながら話す。

「ええ、もちろん。」

 高城はキッチンへ入り三つのコップに水を入れ、夏樹と美月と高城の座っていた席の前に置く。夏樹はコップに入った水を一気飲みし、一呼吸する。

「隆二さんが入院していたとき、頻繁に病院に面会へ行っていたって言ってたじゃない?その度に担当の先生や、看護師さんたちが挨拶をしてくれていたのよね。病室じゃない廊下やエレベーター内でも向こうから声を掛けてくれていたのよ。その時は『わたしの事よく覚えてるな』としか思っていなかったんだけど。でも時々挨拶だけじゃなくて『お仕事、前回はハワイに行かれてましたよね?次はどこ行かれるんですか』とか、『六月はジューンブライドって言いますし、やっぱり式を挙げる人って多いんですか?』とか、わたしの事についてもなんでか声を掛けてくださっていたのよ。」

「優しい先生や看護師だったのね。」

 美月のその言葉に夏樹は眉を少し下げて微笑むのみだった。

「でもね、私は看護師さんたちに職業とかって言っていなかったから、どうして知ってるんだろうってふと気になって聞いてみたの。そしたら隆二さん、私やハルの写真を毎日見せて、先生や看護師さんに話してたんだって。『こいつはわしの教え子でなー』って。」

「愛宕さん、夏樹の事ほんと好きだったもんな―。」

 この職業をしていると、患者のペットの写真や孫の写真などを見せてもらう事がよくある。その時の患者の顔は大体決まって幸せそうな表情をしていた。『幸せの象徴』と言う言葉を聞くことはあるが、もしかしたらこういう実体がないものなのではないかとその度に考える。だからこそ、夏樹たちの写真を見せている愛宕の顔も容易に想像がつき、笑みが零れた。

「私も患者のお孫さんの写真とか、よく見せてもらうわ。愛宕さんにとって二人は本当に大事な存在だったのね。」

 しかしその言葉にも夏樹はまた眉を下げて微笑んだ。

「でもね、わたし面会中はいつもメイクの相談をしたり、隆二さんの体調を聞いたりとか慌ただしく動いてて。身の回りの事にしか目がいってなかったのよ。日常会話って言うのかしら……それを全然していなかったのよね。」

 夏樹と目が合っているはずなのに、なぜかどこを見て話しているのかが分からなかった。その視線を手繰り寄せるように言葉をかける。

「確かに面会時間って病院によっては時間制限が設けられているところもあるものね……。あまり長時間ではなかったら、そうもなってしまうわよね。」

 実際、美月が働いている病棟でも面会時間が終了していながらも話している患者もよく見かける。病院側のルールとして声を掛けさせて頂いてはいるが、その光景を毎日のように見ていると、じわじわとやりきれない気持ちに駆られいってしまう。

「そうなの。入院生活って自分の勝手なイメージなんだけど、つまらないものってどこかで決めつけていたのよね。でも本当は、入院することによってたくさんの新しい出会いがあって。その出会いの中で隆二さんは毎日を楽しく過ごしていたんだなって。看護師さんから写真を見せてもらって、『たくさん楽しい話を聞かせてもらっていますよ』って聞いたとき、『ああ、ここに入院することが出来て良かったな』って。素直にそう思ったわ。」

 夏樹の眉は下がらず、あの時の光景を思い出すかのようにそのまま優しく微笑んだ。

「そういや俺も面会に行ったとき、誰かと話している隆二さんの笑い声が廊下まで響いていたことがあったな。その後もすれ違った看護師さんに『経営の勉強は進んでいますか?』とか聞かれたし。あれも隆二さんから筒抜けだったのか。」

 高城も水を飲みながら夏樹の言葉に大きく頷きながら話す。

「だからね、オーストラリアで担当していた患者さんも、たとえもう亡くなっていたとしてもあなたと何気ない会話をした時間は楽しい時間で、その時間があるだけであなたと出会えて良かったって思っているはずよ。それにその患者さんの家族もね、少しの時間でもあなたが担当の先生で良かったって絶対そう思っているわよ。」

「そう……。そう思ってくれているといいわね。」

 また遠くで鐘が鳴り、三人は音が聞こえる方へと視線を向ける。外は澄んでいるからか、四角い小さな空からはいつもより星が綺麗に見える気がした。

「……年が変わるときにしんみりした空気なんてしょうもない!夏樹、ゲームの続きするぞ!美月ちゃん、俺と変わる?」

 高城が空気を変えるかのように声を立てた。

「いや、大丈夫よ。夏樹くんとハルくんの二人で楽しんで。」

 高城が少し驚いた表情をしながらもすぐに満面の笑みに代わった。

「えー、残念。やりたくなったらいつでも変わるから。さ、ナツ!置いてくぞー。」

 コップを口に傾けていた夏樹が慌てて喉を鳴らす。

「ちょ、ちょっと待ってよ。」

  『ピロン』

 再開の音と共に二人はまたふざけ合い出した。

「いつまでたっても男の子ね。」

 美月に背を向けたその二つの背中を見ながら、隣で丸くなっている愛猫に話しかける。

「にゃー」

 いつもこの時間には真っ暗になっているからか、愛猫はいつもより行動が遅く、鳴き声も小さい。

「にゃんちゃん、寝てもいいのよ。」

 そう声をかけると愛猫はすぐに美月の右大腿に身体を寄せ丸くなり、ゆっくりと呼吸を始めた。 窓に目を移すと小さな空から星が微かに見えるような気がした。

『ドーン、ドーン』

 花火の音が突然テレビの方から聞こえてくる。画面上には「クリア!」の文字がきらびやかに輝いていた。暗い空と花火の音、ふと夏樹と見た花火を思い出す。

ーーーーーーーー

 夏至が過ぎたころ、一番暑い時間をさけているにもかかわらず、未だこんなにも気温は高い。

「あっつ……。」

 じっとしている方が暑いのではないかと考えながらアパート前で夏樹を待つ。昨日、夏樹から『明日、〇〇花火大会見に行きましょ。十五時、家に迎えに行くから。待っていて。』とだけ送られてきた。以前より『花火を見に行こう』とは話していたがこんなにも急に決まるとは考えてもみなかったため、もしも花火大会まで時間があったなら浴衣とか買っていたのだろうか、などと思いふけってみる。そんなことを考えていると白い車が一台美月の目の前で止まる。

「ごめんなさい、待たせちゃった?助手席反対側なんだけど乗れる?」

 見慣れない車の運転席から顔を出す。

「待ってないわ。迎えに来てくれてありがとう。花火……見るのよね?どこまで行くの?」

 慣れない助手席に乗り、素朴な疑問を聞いてみる。花火大会の会場へは交通機関の方が利便性が高いとネットには記載してあった気がした。しかし夏樹は当たり前のように、車を発進させる。

「綺麗に見える場所があるみたいで。そこまで少し付き合ってくれる?」

 質問される内容が分かったのだろうか、前を向いたまま夏樹が自然と話し出す。

「ええ。もちろんよ。楽しみだわ。」

 車内では仕事の話や愛猫の話、普段と同じ他愛もない話をした。そしていつの間にか車は山道へと入っていく。整備されつくしていない道路はガタガタと身体を揺らした。夏樹が時折山道の途中で車を停止させ、携帯を念入りに確認する。

「ねえ……、ここっていつも来ている場所なの?」

「え?あ……いや、来ているって言うか……知ったって言うか……。」

 携帯の画面とこの先の道を凝視しながら話している。

「そうなのね。よく知っているわね。私、こんな山がある事すら知らなかったわ、さすが夏樹くんだわ。」

「いや……あの……ここ、同僚に教えてもらった場所なの。だからいまいちわたしも場所が分からなくて……。ごめんなさい。」

 声が徐々に小さくなり、横を見るとひとりでブツブツと自己反省会のようなものを始めていた。

「ごめんなさい。私、言い方が悪かったわ。攻めている訳じゃないのよ。教えてもらった道はあっているのでしょう?むしろ何もできなくて申し訳ないわ。」

「いや、美月さんは何も悪くないんです。多分あっていると思うんですけど……進んでみてもいいですか……?」

 自身が敬語になっている事すら気付かないくらい落ち込んでいる様子に、自身は何もできず心苦しくなってしまう。

「ええ、もちろんよ。行きましょう。」

 車のライトを消せば隣に夏樹がいるかも分からくなってしまう空間と夜の山の聞きなれない音、そして夏の蒸し暑さに汗が出てくる。漠然とした不安に駆られながら、道だと思われる道を進み続けた。

 突然視界が開ける。そこはまるでプラネタリウムのようだった。先程の不安も忘れ、端に車を止める。車からは見れない頭上の星を見ようと胸が高鳴りながら扉を開ける。頭上を見上げると、そこには暑さで息苦しい空気を忘れてしまうくらいの銀河が広がっていた。

「「わあ……。」」

『言葉を失う』という言葉の具現化はきっとこれだ、と一人で確信をする。麓へと視線を下ろしてみると、花火会場であろう場所には提灯と屋台の光が連なって灯っていた。

「ねえ、私が医者に戻れたのってあなたのおかげなの。」

 突然のこと過ぎたのだろう。夏樹は外の景色と美月の顔を交互に見ている。自身でもなぜ今言ったのかは分からないが、どこかで何かを理解をしていた。

「一緒にパフェ食べたときの続きよ。」

「え、ええ。それはなんとなく理解をしたわ。でも私のおかげって…?」

『ドーン』

 夏樹の言葉が言い終わらない内に花火が上がる。二人の顔が白く染まった。

「わあ……綺麗。」

「ええ、とても綺麗ね……。じゃなくて。どういうこと?気になるわ。」

「ああ、そうだったわね。ごめんなさい。」

 夏樹のまくし立てた言葉に笑みが零れる。隣では怪訝そうな顔をしているに違いない。そう考えると余計笑みが零れてくる。

「えっと……。随分と昔の話になるのだけれど、転職に関するホームページのインタビューに答えていたことあったでしょ?」

「ああ、あったわね、そんなことも。あの記事見たの?よく見つけたわね。」

「あのホームページはたまたま見たのだけれど、あの記事を前のテレアポの会社で働いているときに読んだのよ。あなたのインタビューを読んで、『私はなんで今、医者をしていないんだろう』って唐突に考えてしまって。将来の夢だった『医者』という人生に逃げている自分が恥ずかしくなって。それでいてもたってもいられなくなったの。その足で昔働いていた職場に出向いて先輩に事情を説明して、働かせてもらえることになって。それでまた医者という職業に就く事ができたの。だからあなたのおかげなのよ、本当にありがとう。」

 花火の光で時折見えた夏樹の顔は、今までに見たことない表情をしていた。嬉しいような悲しいような、しかしどこかで納得をしている表情だった。

「えっと……これはどういたしましてって言えばいいのかしら。よく分からないんだけどね。あのね、美月さんが『逃げた』と考えるのであれば美月さんの中でははそうかもしれないけれど、私はその話を聞いても『逃げた』だなんて思わないわよ。それはあなたがその時『そうしたい』と考えて行った結果なのだから、そのときの自分に失礼よ。それに、医者でも医者じゃなくてもどんな職業でも働いているだけ……いや、人は生きているだけで立派なんだから。あの記事で誰かを勇気づけたいとか応援しているとかそういう事は思っていなかったから、ありがとうって言われるようなことは何もしていないわ。でも美月さんが今胸を張って『今の職が楽しい』と思えるのであれば、それでよかったと思うわよ。」

 いつからか花火の音が届いてこなくなり、ただただ目尻が熱くなっていく。夢からも逃げ、上司に紹介された役職からも逃げ、現在の職場へもコネみたいなもので入っている現状。よく思う人はそうそういないだろう。この現状が良いなどとは微塵も考えてはいないが、『こういう人生もあるのもしれない』となぜかそう思えた。

「ねえ、わたしも一つ美月さんに言いたいことがあるの。」

 その急な言葉に頬に流れる涙と共に動揺が走る。

「わたしも昔のことなんだけど……飛行機で隣に座って、その時に勉強を教えてくれたでしょ。確かにあの時に教えてもらった疾患は理解が難しくて、行き詰っていたのよ。でもそれとは別に、その時わたしは隆二さんの死を乗り越えられてもいなくて、勉強に手が付けられなかったのよね。仕事中も勉強中もその他の時間も……、全ての時間に『隆二さんならこのメイクどうするかな』とか、『生きていたら、ご飯を食べたか確認する時間だな』とか。隆二さんのことを考えては、もうこの世にいないんだよな……って。いや、隆二さんを思う事が良くないこと……ではなくてね?そんなこと、思ってないわよ?その時間も……大事だと思うから。でも、隆二さんに死化粧をしたあの時に『もっと上手くなりたい』と考えたのは事実だから。でもその後も行動したいと思っても動けない自分がもどかしくて、いつまでも前を向けないでいる自分が悔しくて。その時にあの狭い機内の中であなたに丁寧に教えてもらえて、納棺師になると決めたあの瞬間をもう一度思い返すことができて。わたしのあの言葉は覚悟……いや、宣言みたいなものだったのかもしれないわね。そして他人のあなたにあの時、この職業に就く事を認めてもらえたような気がして。そして今現在、納棺師になって今の職場で仕事を行うことができているの。だから、わたしもあなたのおかげなの、本当にありがとう。」

 花火の光で時折見えているはずの夏樹の顔が歪んで見えなかった。

「……そうなのね。あの時は私も何で声を掛けたのか分からないのだけれど……、でもそう思ってもらえたのなら良かったわ。」

「ええ、あの出来事がなければ今も引きずり続けていたかもしれないし、納棺師にもなれていたかどうか分からないと思うわ。」

 自分にとって些細な出来事であっても、他人にとってはそれが大きな出来事になる可能性がある。それが怖くなるときもあるが、今はその出来事が相手にとっても大きいものであったこと、それがただただ嬉しかった。

「こちらこそ、わたしを前に進ませてくれてありがとう。」

 二人は無言で目の前で上がる花火だけを見つめ続けた。その花火は今までに見たどの花火よりも大きく、色鮮やかに見えたような気がした。

ーーーーーーー

「……んなにもクリアに時間かかったの初めてだわ。」

「お前が余計なことばっかするからだろ。」

 花火の音と軽快なクリア音、そして二人の掛け合いが永遠に続く様子に、いつの間にか笑いが漏れていた。その声に二人は不思議そうにこちらを見てくる。

「いや、本当に二人が仲良しだなと思ったの。」

「「こいつと?いや、たまたまずっと近くにいるだけだから」」

 一言一句被った二人を見て、また笑いが零れた。

 自身は目の前の二人のように仲のいい関係を今までの人生で作ることはできなかった、いや作ろうともしていなかったのだろう。自暴自棄となり医者を辞め、一人で買い溜をして、家にあるカップラーメンを食べる日々だった。その時は、この先もこんなどうでもいい生活が無為に続くと思っていた。いや、そうだったはずなのに、いつの間にか時々暖かいご飯を自身の家ではない場所で二人で食べるようになっていった。いつからか、休日が楽しみになった。そして二人と一匹になったり、時折三人と一匹になったりと過ごす時間が増えていた。そんな日常にいつの間にか安心を覚えていっていた。医者を辞めて、飛行機に乗り込んだあの日。隣に夏樹が座っていなければ、あの時あの特集を見ていなければ、私は知らない誰かと電話をする毎日に退屈さと鬱憤さを感じ続けていただろう。そして『あの時医者を続けていたら……』と時折脳裏に過っていたのかもしれない。

 ふとあの雨が降っている月は六月の梅雨の季節だった事を思い出す。

「みなつき……。」

 その言葉に美月は思いふける。水無月とはたくさんの由来の中の一つとして『今まで水の無かった田んぼに水をそそぎ入れる時期』だという意味があることをどこかで聞いた記憶がある。あの雨が地面に水をそそぎ入れていたように、夏樹が自身に『日常』という水を注いでくれたのだろうか。いや、年末の物寂しい雰囲気がそう考えさせてしまうのだろう。

 美月から聞こえたその言葉に夏樹はふと考えた。水無月とはたくさんの由来の中の一つとして『梅雨が終わり、快晴が続く時期になり、田んぼの水が蒸発しなくなってしまうことからつけられた名前』だということをどこかで聞いた記憶がある。 田んぼの水が太陽でなくなるように、やるせなくもどかしい空間から美月が引き上げてくれたのだろうか。いや、年末の浮き足立った気持ちがそう考えさせてしまうのだろう。

「みなつき?なんだかお前ら二人の名前を掛け合わせたみたいだな」

 高城の唐突な言葉に夏樹は美月に視線を向け、何か言いたそうな顔をして口を開けた。しかしその空間を奪うように高城が笑いながら夏樹の肩を叩く。

「俺、賢くね。」

 少し驚いた表情で隣を見て夏樹はこちらを見て静かに笑った。

「そうね。」

 美月も一言だけ呟いた。

 

「明けましておめでとうございます。」

「先生、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」

 いつも通りの風景で日常が今日も始まる。年が変わったと言っても、知らないどこかの誰かが勝手に決めただけの節目に過ぎない。しかし美月はそんな日がなんとなく好きだった。年が一個増えただけなのに食事の一つ一つに意味があったり、会ったことのない他人の誕生日にケーキを食べたり、故人を想う日があったり。誰もが日常の中に年一回、同じタイミングでそのことについて考え、祝う日がある。そう考えてみると人が決めただけの日も悪くないと考えてしまうのだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 だからこそ、そんな日常が好きだった。

 仕事が終わり、愛猫と共にいつも通り夏樹の家に入ると年始の柔らかい匂いがした。

「こんばんは。そして明けましておめでとう。ご飯も作ってくれてありがとう。」

 キッチンにいる夏樹に声を掛ける。鍋の中には白い餅と青菜がふわふわと湯気を立てていた。

「おかえりなさい。明けましておめでとう。」

 雑煮を黒い椀に盛りつけながら、声を掛けられる。

「もう正月だなんて一年ってほんと早いわよねー。あ、そういえばここで正月を迎えるのは初めてなんじゃない?」

 夏樹から黒い椀を二つ受け取り、両手が温まっていくのを感じた。食卓には二人分とは思えない三段のお節が置かれていた。

「そうね、初めてだわ。正月はいつもこんな感じなの?」

 その言葉に夏樹は得意げな顔で冷蔵庫の扉を開ける。

「ええ。初めての出来事だったり、一生に一回しかないものって私、大事にしたいのよ。だからいつもより豪華にしてみたわ。」

 中から出てきた大きな皿の上には皿から飛び出す勢いがありそうな大きな鯛の頭が乗った大皿料理があった。

「え、凄い……。本当にありがとう。私もそういう出来事って大事したいわ。」

 そう答えると夏樹はおせち料理を少し乱暴に美月へ渡した。鯛がまるで生きているかのように動きだすような気がした。

「えっと……。なにか私、気に障ること言ったかしら。」

 始めて見る夏樹の挙動に心がざわついた。夏樹はまた冷蔵庫の方まで歩いて行ってしまう。

「いや、違うのよ。自分から言い出したことなんだけど……気恥ずかしくって。」

 そう言いながら冷蔵庫からいちご大福を取り出して美月に手渡される。目が合ったその顔は頬が微かに赤くなっていた。

「なんで恥ずかしいのよ、大事な事じゃない。」

 いちご大福は冷蔵庫によって冷やされており、『頬と同じ色なのにこっちは冷えてるな』なんてどうでもいい考えが頭を過って笑みがこぼれていく。

 二人がローテーブルを挟んで座る。テーブルの上には二人分とは思えない量の料理が並んでいた。

「たくさん作ってくれてありがとう。……いただきます。」

「これは趣味みたいなものよ。でもそう言ってくれてありがとう。いただきます。」

 静かに手を合わせて、お雑煮を口にする。餅が伸びて上手く食べられないもどかしさに、日本を感じている気がしてそれすらも楽しかった。

「さっきの話しの続きなんだけど、前職はメイクアップアーティストで今は納棺師という職に就かしてもらっているでしょ。結婚式も葬式もどちらの出来事も自分が主体として経験する日って一生に一回ぐらいしかないことだと思うのよ。」

 改めてそれらのイベントを考えてみると、確かに『人生一度きり』と言う文言が付いてきやすいものばかりだった。

「そうね。確かにそれぞれ一回ぐらいなのかしら…。」

「私ね、その事に最近気が付いたの。どちらもメイクをして着替えると自分や自分の周りが泣いたり笑ったり、数秒前にどんな表情をしていたか忘れてしまうくらい表情が変化するのよ。日常って過ぎていくのが早くて『もう一カ月経った?』って感じる事あるでしょ。でもこの瞬間だけはいつも時間が立ち止まってくれている気がするの。」

 その時、愛猫が膝の間へ飛び乗ってくる。そしてあの女の子が亡くなった日のことを思い出した。あの時も美月には音が聞こえず、まるで全員のときが止まったような時間だったような気がする。

「私も仕事をしていて、そう感じる瞬間があるわ。」

 あの時間を思い出すと、悲しいはずなのになぜか少し心が暖かい。

「そうでしょ。この仕事を続けていく中で思ったの。その瞬間を共有することで、その場の空気が、時間がその人と関わった人達の心を優しく撫でているような、そんな気がするの。」

 キッチンにいる夏樹の顔を見ると、昔を懐かしむようなそしてなぜか悲しんでいるような、そんな表情をしていた。

「そうね。私は今まで夏樹くんみたいに深く考えられていなかったけれど、あの少し不思議な感覚がやっと具現化できた気がする。それに、その時間の共有をしないと今後生きていく中で、心残りになってしまう気がしてきたわ。」

 夏樹は優しく微笑むのみだった。

「そうね、きっと後悔すると思うわ。それにね、これはわたしだけかもしれないんだけど、その日だけ晴れている日は雲間の光芒から、雨の日は雨音に乗せて微かに声が聞こえてくるような気がするのよ。」

「そうかもしれないわね……。」

 その言葉に今までの記憶の風景が頭に浮かんできた。亡くなった患者の家族から『今日が晴れていてよかった』『あの子、意外と雨が好きだったのよ』と聞くことが多くある。そして美月はその度に空を見上げ、「そうですね、今日で良かったのかもしれないですね。」そう声を掛けることしか出来ずにいた。

 しかしその人との思い出を、これからの自身の生活を、そして空気を忘れないようにこの時間を共有しているのだと今さらではあるが気付かされた。そして同時に今までどうして考えられなかったんだろうと自己嫌悪になる。

「夏樹くん、私を人間にしてくれてありがとう。」

 いつの間にか口から言葉が溢れていた。

「ん……、え?どういう事……?」

 餅を食べようと掴んだ箸が止まり、箸から滑り落ちた餅が波音を立てて沈んでいった。

「そんなに深く考えないで、とりあえず感謝しているってことだけ伝わればそれでいいのよ。」

 独りよがりだとしても、心が温かくなっていくのを感じた。目の前を見ると先程の餅で汁が飛んでしまったのか零れてしまったのか狼狽えている。慌てて夏樹にティッシュペーパーを渡した。

「ありがとう……いや、『人間にしてくれて』ってさすがに気になるでしょ。でも、私の知る限りの私と出会う前のあなたを想像すると、だいぶ人間らしい生活になったと思うわね。」

 服に跳ねた生温かい水を拭きながら夏樹は独り言のように話し、納得をするように頷いている。

「ええ、本当にそうよ。だからありがとう。」

 夏樹に聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をする。いちご大福を一口食べてみると冷えた求肥とあんこの中から果実がジュワっと溢れ出した。

 

 正月の面影はすっかり消え、いつもの日常に戻ったある仕事終わりの夕食。バーカウンターで隣に並び、カレーライスを食べている夏樹から唐突に声をかけられた。

「今度の土曜日は少し用事があって、ご飯作れないと思うわ。ごめんなさいね。」

 もちろん約束をしている訳でもないし、『絶対一緒に食べたい』なんていう気持ちがあるわけではない。

「ええ、もちろん。謝らないで。」

 快く了承する。しかし、なんだか夏樹の声と表情にどことなく物悲しさを感じてしまった。

「答える強制はしないんだけれど、なにかあるの?」

 その言葉に夏樹はカレーライスを見つめたまま考え込んでしまった。沈黙が続く。

「えっと、ね。……今度の土曜日は、隆二さんの墓参りに行くの。」

 そう一言告げられる。

「そう……なのね。隆二さんがいたから今のあなたがいるって前言っていたじゃない?難しければ遠慮なく断って貰いたいのだけれど、その予定、私も同行して良いかしら。」

 愛宕に会ったことないにも関わらず、夏樹や高城の話を聞いているうちに美月にも親近感が沸いていたことに気が付いた。そして愛宕にただ一言『ありがとう』と伝えたいと思ったのだった。しかし、他人には踏み込んではいけない領域があることを理解はしている。それでも愛宕に会って直接伝えたかったのだ。

 また沈黙が続く。

「ええ、……いいけど。」

 いつもより小さく低い声が聞こえる。そして数秒後、やっと視線が合った。美月が少し微笑むと、つられるように夏樹も微笑んだ。しかしその顔は少しやり切れない気持ちがあるかのようにも見える。

 いつもより早い時間の帰り道、一人で夜道を歩きながらお供えするものを考える。しかし、夏樹や高城から話しを聞いているだけの人物。勝手なイメージだけが膨らんでいく。

『思い出のないものを送るよりも少しでも喜んでもらえるものを送りたいと思っているのだけれど、なにがいいのかしら。』

 長時間考えた結果、思い至り夏樹へメッセージを送る。

『特にいらないわ。気を回さなくても大丈夫よ、ありがとう。』

『いや、私が渡したいだけなのだから大丈夫よ。当日、早めに集合してもいい?隆二さんの好物とか分からないから一緒に選んでもらいたいの。』

『じゃあ明日、花を買いに行こうと思っていたからお願いしてもいいかしら。』

『ええ、もちろんよ。』

『ありがとう。』

 当たり前に連絡を取り、共通の話題が広がっていく。夜道は肌寒い風が吹いているにも関わらず、美月には寒さを感じることは無かった。

「いつの間にかこんなにも月日が経っていたのね。」

 冬の空気で澄んだ空を見上げると、そこには月が輝いていた。

 

 愛宕の墓参り当日、ドアを開けると霧雨が降っていた。なぜか『今日の日にピッタリだ』そう考えてしまうのはおかしくはないだろうと考える。玄関に置かれた傘をさし、歩き出す。雨の音はそれほど聞こえてこないにも関わらず、真上に広がっているビニールと足元が少しずつ濡れていく。夏樹の家に近づくとちょうど夏樹が玄関から出てくるところだった。

「おはよう」

 少し緊張を感じるような声で一言交わす。そのまま二人無言で歩き出す。

「ねえ、夏樹くん。今日ここの花屋に行ってもいいかしら。」

「え?ええ。もちろん。近くだし、このまま行きましょうか。」

 少しぎこちないような空間が広がる中、近くの花屋に着いた。美月の中で既に購入する花は決まっていた。店内に入った瞬間からその花の匂いがした。

「いらっしゃいませ~」

「月下美人ってありますか?」

「はい、こちらになります。どのようにお包みいたしましょうか。」

 まだ蕾の切り花がショーケース内に詰められている。

「私センスがなくて……。仏花にしたいんですけど、開花した時に良い感じにしてもらえると嬉しいです。」

「大丈夫ですよ、かしこまりました。」

 店員が開花した瞬間の月下美人を引き立てるような花束を二つ仕立ててくれた。それは白い太陽を中心とした強気でどこかもろく、しかし芯の強さがある花束だった。

「綺麗……。ありがとうございます。」

「お役に立てて光栄です。五千円になります。」

 その言葉に動き出した夏樹を抑え、財布からお金を取り出す。

「これで、お願いします。」

「五千円ちょうどお預かりいたします。ありがとうございました。」

 二つの花束を持ち、店外へ出る。月下美人の匂いが二人の道のりを辿った。

「……払ってくれてありがとう。」

 少し不服そうな表情と声色だった。

「私が払いたかったのよ。」

 少し話しをして、また無言が続く。少しぎこちないと思っていた空間も穏やかな空間なような気がした。

「……ねえ、どうして月下美人?」

 花の香りを楽しんでいると隣からぽつりと声がかかる。

「私も調べた知識なのだけれど、月下美人って夜にしか咲かない花なのよ。それと花言葉が『ただ一度会いたくて』って言うみたいなのよね。だから、もしかして愛宕さんが夢の中とかに間違えて会いに来ないかなって思って。」

「……あの人ならやりかねないわね。」

 そう言うと二人で静かに笑った。

「そういえば、愛宕さんが好きだったものってなにかしら。なにかお供え物、必要でしょ?」

「あ、それはハルが買ってくることになったのよ。」

 夏樹はそう言いながら携帯を取り出す。

「そっか。じゃあ大丈夫かしらね。」

「ええ、ありがとう。」

 夏樹は「あいつにもう着くって言わないと。」と呟きながら文字を打つのと同時に歩く速度がゆっくりになる。美月は愛宕と夏樹が歩いている姿を想像しながら夏樹の隣をゆっくり歩いた。

  墓場近くには見覚えのある顔が待っていた。

「おはよ。ナツ、一条さん。」

「おはよう、高城さん。」

 挨拶のみを交わし、また無言のまま愛宕が待つ場所まで三人で歩く。墓周りは定期的に手入れされているのか綺麗だった。三人で丁寧に掃除をし、夏樹と共に仏花を花立に挿す。月下美人が咲く瞬間は見られないだろうが、その花の蕾は凜と愛宕を引き立てるように咲いているように見えた。真ん中には愛宕が好物だったのであろう緑茶とたこ焼きが供えられている。先程購入してきたのだろうか、霧雨にもかかわらず湯気が立っているのが分かる。

 夏樹と高城が墓石の目の前にしゃがみ込み、手を合わせて目を瞑る。

「今年も来てあげたわよ。今日は一人増えたの、気がついた?隆二さんと同じ……。いや、隆二さん以上に手がかかっているのかもしれないわね。それでも今、とても充実した毎日を送っているわ。……私も変わらないのかもしれないわね。」

 始めてみる夏樹のあどけなさが残った幼い表情。それはなぜか一人ぼっちの子どものようにも見えた。空から降る雨が夏樹の心を表しているのだろうか、とさえ考えてしまう。そんな表情にただただ胸が苦しくなった。そして自分の無力さを感じ、どうしていいか分からなくなった。

「今日は来てくれてありがとう。」

 考えているとふと声がかかる。その声がする方へ意識を向けた瞬間、なぜかあの時の言葉を思い出す。

『繊細で、ときに大胆で。だけれども壊れそうなくらい儚い。』

 素肌に優しく無機質に当たる雨は冷えているはずなのに、心は温まっていくような感覚がした。

「こちらこそ……ありがとう。」

 そしていつからか自分の視界がぼやけている事に気づく。

「これは雨のせい。」

 目を瞑り、手を合わせる。自身の頬が静かにゆっくりと冷たくなっていく。

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