埃っぽい荒野に花が咲いたら:2 傷を付けるための刃物とそうじゃないめまい
めまいのない世界って素敵だろうか
でも人間が目指そうとしているのはそういう世界
そんなのくだらない
なんて
思っている人はどれくらいいるだろう
地上は決して牢獄なんかじゃないけれど
そう感じてしまうとしたら何かが間違っているのだと思う
つまり
抜け出したい欲求
たぶんそれが成就するかどうかは問題じゃない
少なからず脱獄を目論む人たちって魂を信じている
そのために企てるいろんな行為の意味っていうのは
逆説的に芸術だって言えるんじゃないの?
社会芸術?
生活芸術?
いやいや
生命芸術でしょ
だからその途中で死ぬようなことがあったら
それはひとつの事故だったってことになる
本当は「死のう」なんて思っていなかった
それが彼らの意識にあったかどうかは分からないけれど
少なくとも死っていうものは「諦め」ではない
今日は香奈理子と豆腐を食べよう
◇
本人には言えなかったけれど正直なところ
久霧里さんのリストカット痕をはじめて見た時は全身が萎えた
これからセックスでしょ
って時に僕は必死こいて時間を繕うしかなかった
メンヘラ女子とセックスって倫理的にまずいでしょ
とかぐちゃぐちゃの頭で「正しい」ことを考えようとしていたけど
気持ちが正解と結びつくわけではなく
えーと
あの時どうしたんだっけ?
とりあえずの射精で僕らの夜は終わり
二度とありえない夜だって思ったけれど
けっきょく僕はまた久霧里さんの部屋に行った
だって食事の問題があるじゃん
なんて言うのはごまかしで
純粋に僕は
もう一度彼女のリストカット痕を見たいと思って行ったのだ
この時僕の何かが狂った
のではない
僕は世界のなかのいったいどこに
狂気から抜け出せる穴があるだろうかと血眼だっただけ
そしてその穴のひとつが
久霧里さんのリストカット痕だったっていうそれだけ
僕は彼女の傷を力一杯握って
本当に恍惚な気持ちになった
この赤いイビツな傷のことを
心の底から綺麗だと思った
そこにいろんな間違いがあることは分かっている
だけれどその間違いのせいで
本当に素敵なものを見落とすようなことがあったら悲しい
だから僕は久霧里さんにも同じように
クズみたいな僕の心や世界に付いている傷口のことを
綺麗だって思って欲しかった
◇
今があるなら
どうして過去があったなんて言えるのだろう
文法上の問題にすれば何でも物質的になるのだろうか
それとも僕のほうが物質的?
過去は「あった」じゃなくて「ある」じゃないの?
今だって僕には僕の過去があって
それはまだ消えていないしなくなってもいないから
僕にとって過去は今なお「ある」状態
逆に未来は「あった」なんて言うこともできるよね
いろんな未来を想像してきても
けっきょくのところ僕に選べるのはひとつだけ
つまり
過去は「ある」状態にして未来は「あった」状態にすること
それが健全な生き方だとすれば
久霧里さんはそこから逸脱したんじゃなくて
やり方が過剰すぎただけ
彼女にとって過去は「ありすぎる」状態で
地獄の亡者のしつこさみたいに
彼女の存在をがっちり捕まえていた
そんな時に薬を飲むことができる現代は
やっぱりすごいけれど異常
「デ●スがオススメだよ」
って言ったら久霧里さんはにたにたしながら
「私はソ●ナッ●ス派」なんて返してくれた
「ありすぎる」過去からの脱却
キメすぎた時には「ありすぎる」未来に愉悦を感じていた
ああでも
これって「今」を永遠にしようとしてるんじゃない?
やっぱり僕が物質的だった
◇
畦道に咲いている変わった形の赤い花の名前が
彼岸花っていうことを知ったのは小学生の時
僕はずっとその花のことを宇宙みたいだと思っていた
何かを包み込もうとしているような形
それは人の手に似ていて
ああ僕らも
こうやって誰かに優しく守られているのかな
なんて夢見ていた
その夢はずっと続いていて
あまりにも長いものだから現実との区別ができなくなってしまった
でも明晰夢っていうの?
僕は自分の夢に気が付いた
香奈理子
君はいつまで僕と一緒にいてくれる?
◇
ある日久霧里さんはぎりぎりまで顔を近付けてきて
「私気付いたの」
と話し始めた
「泣き方にもいろんな種類があって
人間ってなぜ泣くかで方法が変わる
何に泣くかでも方法が変わるの」
久霧里さんはいろんな表情を見せてくれたけれど
僕には「泣き顔」としての違いが分からなかった
「だから
過去を思って泣く時はこう
未来のために泣く時はこう」
久霧里さんによる泣き顔講座はしばらく続いて
僕は何気なくそれに付き合っていたけれど
途中からこれって単に感情の違いってだけじゃないの
と思っていた
でも久霧里さんにとっては感情と泣き顔はまったく別物で
きっとそれを言いたかったのだと思う
「セックスの時に泣くのはどうして?」
といじわる半分で訊くと
彼女はふっと止まってしまって
「あれは
今を思って泣いてるの」
とそれまでの元気を消滅させた表情で呟いた
久霧里さんは途方に暮れていて
きっと
感情と泣き顔が一致してしまったことがショックだったのだと思う
僕はというとその時
過去と未来が今という場所で一致してしまったことに脱力していた
◇
久霧里さんは一度たこ焼きを作ってくれて
食べるとなんだかレバーみたいな味がしたから
「今日はたくさん切ったでしょ」
って訊くと
「おいしい?」
って返された
僕は急激な吐き気に襲われて席を立ったけれど
なぜだか駄目だと思って喉まで上がってきたものを意地で飲み込んだ
僕はこの時
久霧里さんの本当の味を知ったわけだけれど
それはまず僕のなかで強い反発となった
そりゃそうでしょ
僕とはまったく異質なものが自分のなかに入るだなんて
それがいくら久霧里さんでも無理がある
のだけれど
僕は自分のなかで起こった究極の免疫反応に対して
「そうじゃない
そうじゃないんだ」
と必死に叫んだのだった
何事もなかったかのように戻ってきた僕を
久霧里さんは見たことないような笑顔で迎えてくれた
「そんな顔もできるんだ」
と言うと
「たまにはね」
と普通の返事
なんだか
まるで自分を見ているみたいで
それが気持ちいいような悪いような……
久霧里さんはどんどんたこ焼きを焼いて
次々と皿に盛ってくる
「久霧里さんは食べないの?」
と訊くと
「お願い
ぜんぶ食べて」
とどこか寂しそうな顔で言うものだから
僕は頑張って全部のたこ焼きを一人で食べたのだった
◇
ちりめんジャコをかけた冷奴を食べながら
香奈理子はそっと目を上げて
「ワインが飲みたい」
なんて言った
君がお酒なんて珍しいね
なんて思うのは僕の妄想だろうか
安売りの時に買った税込505円の赤ワインを開けて
僕と香奈理子
二人のグラスにとくとくと注ぐ
グラス同士をぶつけるなんて無粋なことはせずに
僕らは互いの目を見合って
表情で乾杯をする
今日は何のお祝いだろう
なんて特別な気分になるのは寂しいことで
僕はどんな時だってできる限り真実を見ていたい
だから香奈理子と一緒にいられると
僕は生きるということ以上の意味合いを持つことができる
きっと久霧里さんの生き方だって芸術で
彼女と僕が一緒に過ごした時間は総合芸術だ
つまり
彼女もまた真実に近付きたいと思っていたわけで
僕らは紛れもなくそのための共同作業を行っていた
ワイン何杯飲んだかな
香奈理子はまだまだ平気そう
僕はともかく何か喋りたくて
ずっとずっと香奈理子のことを話した
出会った時のことから
今の今までのことまで
僕らってどうして離れなかったのだろう
と最後にそう疑問に思った時にはもう頭がくらくらしていて
香奈理子を中心にして世界が回っていた
そうか
めまいの中心に君がいるんだ
だから僕は
道に迷わないんだな