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なら、取り返してやるか。それには、まず資金だ。買値は六十万円でも、売値は最低でも百万円はするだろう。吾作はナオミに訊いた。
「今、預金はいくらある」
「十万円ぐらいなら残っていると思う」
「それだけか。話にならないな」
吾作は腕組みをした。そしてすぐに組んだ腕を振りほどくと、ベッドの縁を歩いてナオミの服に飛び移った。布を掴んでよじ登り、肩へ乗った。
「とりあえず、計算高い叔母夫婦から返してもらうことにしよう。ごっそり貯め込んでいるし、少しぐらいなら融通利かせてくれるはずだ」
吾作が耳元で囁くと、ナオミが真顔になって頭を振った。
「叔母夫婦に八年間育ててもらったのよ。そんなこと言えるはずないわ」
「あんた、本気でそう思っているのか。お人よしすぎるぜ」
と、透視で知った事実を伝えたが、それでも口をつぐんで答えようとしない。
やれやれとあきらめた吾作は「窓を少し開けてくれないか」と告げ、服を滑り降りて窓枠のサッシに移動した。そしておもむろにキセルを取りだし、燐を擦って火をつけた。やるせなく吐きだした煙が帯状になって、すっと外へ流れていく。
「じゃ、仕方がない。院長を懲らしめよう」
「それって犯罪では……」
「ふざけんな。罪を犯しているのは向こうだぞ。こっちは相応の慰謝料を頂くだけだ。それのどこが犯罪なんだ。いいかげんに目を覚ませよ。ここで動かなきゃ盲人の被害者が増えるだけだぞ。それでもいいのか」
「わかった。それで私はどうすればいいのかしら」
「特別なことは何も望んでいない。普通に退職願いを出すだけだ。あとは俺がやる」
「できるの」
「たぶんな。方法はこれから考える」
ナオミが不安そうに首をかしげている。大言壮語のわりには作戦も何も決まっていないからだろう。
「弁護士に相談したほうが、早いかもしれないわね」
「負けるぞ」
「どうして。強制わいせつ罪が適用されるし、もう一人、被害者がいるのよ」
「それを証明できるか。証言者もいない、証拠もない、弁護士だってお手上げさ。だいいち雇う金もない」
「だったら、どうするつもり?」
「仲間を呼ぼうと思ってる」
「えっ、吾作さん以外にも、人間界に小人がいるの」
「微妙な奴が一人いる。というのも俺たち小人は、テレパシーで仲間の位置を大まかにつかめることができるんだ。今のところ俺のアンテナに引っかかる奴は鴉しかいない。それもかなりしたたかな、鴉」
ナオミが何か言いたげに口をもごもごさせていたが、結局押し黙った。きっと吾作の話が理解できなくて混乱しているのだ。
人の姿をしている小人であれば、少しは期待を持ったのかもしれないが、何せ鴉。ゴミ漁りをしている害鳥のイメージしか浮かばないに違いない。それも従順ではなくしたたかときている。
だが奴が仲間になれば、とりあえず粗暴な吾作と純粋なナオミとに一つのチームができ上る。頼りないが三人集まれば二本の矢よりは強いだろう。
「鴉さんって気まぐれな印象を受けるけど、信頼できるのかしら。役目、果たせるのかな」
「わからない、でも信頼するしかない」
吾作は戸惑うナオミの手のひらに乗り、ベランダへ出るよう促した。そして手すりに移ると、片膝を立てて座り込んだ。まだ早朝でもあるし、夜行型の鴉がやってくるかは大きな賭けだ。来ない確率は九十パーセント。いや百パーセントかもしれない。
だがきてほしい。吾作は念じた。青い空に向かって思いきり口笛を吹いた。親指と人さし指をまるめて、強く何度も吹いた。
吾作は祈るように空を見上げる。ナオミも耳を澄ましている。
しかしビルの谷間から太陽が顔を覗かせても、上空は青に塗り込まれたまま何の動きもない。わずかに泡のような白い雲が浮かんでいるだけで、鴉の姿は見当たらなかった。すでに町は、あちらこちらから通勤者の姿が現れ、ざわめきも広がりはじめている。
「どうしてもカラスさんが必要なの」
「うむ」
吾作は唇を噛んだ。「俺にとって人間は巨大なモンスターだ。まともに張り合ったら相手にされない」
「だったら無理しなくてもいいのよ。別の仕事を探して、こつこつ貯めるから」
「そうはいかない。院長を懲らしめないと、これからも泣き寝入りする障害者が出るはずだ。里にも一人いたが、性犯罪者っていうのは病気なんだ。荒療治をしなけりゃ治らない。放っとけば何度もくり返すだろうし、それに俺の腹の足しにもなる」
「吾作さん、見た目は悪いけど、ほんとうは正義感が強い人なのね」
「そんなに見た目が悪いか」
「ううん、そういう意味じゃない」
見た目の悪さは我慢できるとしても、気に入らないのが正義感だ。里では、みんなから一目置かれるアウトローとして通してきた。だからそんな気持ちになったことも言われたこともない。だが食うためにはやらなくてはいけないこともある。
「まあいい。でも勘違いするなよ、狙いはあくまでも金だ」
吾作は言葉の反動から、依怙地になって、また口笛を吹いた。
するとナオミが耳を欹て、「何かがやってくる」と、声を弾ませた。
吾作は目を向けた。羽音は聞こえないが、澄み渡る空の一角に黒い点が見え、その点が徐々に大きくなるのを発見した。
「きっと鴉さんよ。吾作さんの願いが通じたんだわ」
「ああ、きっとそうだ」
吾作は頷いた。