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シルキーと絵描きの男

 とある街の郊外にある森の中に、古びた小さな洋館が一軒、ポツンと佇んでいました。

 いつからあるのか、誰が住んでいるのかも分からない洋館は、街の人から魔女の館と呼ばれ気味悪がられていました。

 ある日そんな洋館の前に、大きなリュックサックとイーゼルを背負った一人の男がやってきます。


 チェックのシャツに紺のオーバーオールを着た男は、洋服の至る所にカラフルな絵の具の染みをこびり付けており、その両手は洗っても落ちないくらいに絵の具が染み込んで、薄っすらと変色していました。

 彼は適当に短く切られたボサボサの頭を掻きながら、目の前の洋館を見上げて呟きます。 


「古いって聞いてたけど、思ったより綺麗だな。一人で暮らすにはちょっと広すぎるけど、ここが一番家賃が安かったし……まぁ、仕方ないか」


 一人前の絵描きになることを夢見て、田舎から体一つで出てきた彼には、市街地に住むだけのお金がありませんでした。

 そのため、街外れにあるこの古い洋館に引っ越すことに決めたのです。

 男は荷物をよいしょっと担ぎなおすと、綺麗に手入れがされている庭を眺めながら、玄関に続く道を歩きます。


(前の住人が綺麗好きだったのかな? まるで最近まで人が住んでいたみたいだ)

 

 洋館の周りを彩る植栽は、とても空き家とは思えないくらい丁寧に整えられていました。

 玄関脇に置かれたプランターにも、可愛らしい色とりどりの花たちが鮮やかに咲き誇っています。

 決して派手ではないけれど、素朴な暖かみを感じる庭でした。

 

(へぇ、良いセンスしてるな。せっかくだし後で家の庭でも描こうかな)


 男はそんなことを考えながら、玄関扉の鍵を開けて家の中へと入ります。

 すると廊下には、驚いた顔を浮かべた一人の少女が立っていました。

 

 見た目は十四、五歳くらいでしょうか。

 真っ白なシルクのエプロンドレスに身を包んだ少女は、ふわふわと流れる銀の髪を揺らしながら、男の方へと近づいていきます。

 少女が歩く度に、さわさわという絹がこすれる音が響きました。 


(住人? いや、前の住人はもう引っ越したはず……妙に安いから何か曰く付きだろうとは思ってたけど、まさか、女の亡霊?)


 男が玄関口で驚きに固まったまま動けないでいると、男の前までやってきた白い少女は、スカートを摘まんで軽く膝を折ると、柔らかな微笑みを浮かべて挨拶をしました。

 そのままくるりと翻ると、すうっと小走りに奥の部屋へと入っていきます。

 足はあるのに足音は鳴らず、響くのは真っ白い絹がこすれる音ばかりです。

 とても普通の人間とは思えません。


(そう言えば、古い家には家事妖精が住み着くとかいう伝承があったな。シルクを纏った白い貴婦人…… 確か、"シルキー" だったか。婦人と呼ぶにはちょっと幼い気もするけど、もしかして彼女はそれか……?)


 男が少女の正体について考えていると、奥の部屋から鼻をくすぐる良い香りが漂ってきました。

 気になった男がこっそり部屋の中を覗くと、そこはダイニングになっており、テーブルの上には暖かそうな湯気を立ち昇らせた紅茶が一つだけ置かれていました。

 少女は顔を覗かせた男に気が付くと、ニコニコと笑いながら軽く椅子を引いて座るように促します。

 どうやら男を歓迎しているようです。


「君は……シルキーなのかい?」


 男は荷物を下ろすと、勧められるまま椅子に腰を掛けながら、少女に問い掛けます。

 すると、少女……シルキーは、こくりと頷きました。


(なんてこった、そりゃ家賃が安い訳だ……シルキーは主人が気に入らなければ嫌がらせをして家から追い出すって言うし、家事妖精といっても実際は亡霊みたいなものだからな……ここは幽霊屋敷だったって訳か)


 男は心の中で後悔しながら、シルキーが淹れてくれた紅茶に恐る恐る口をつけます。

 下手に断って、気を悪くしたシルキーに祟られでもしたらたまりません。

 しかし、そんな男の心配とは裏腹に、紅茶を一口含むと途端に心を落ち着かせるような優しい味が口の中に広がって、男は知らずにほうっと息を吐きました。

 重たい荷物を背負って歩いてきた疲れが、体に染み渡る暖かさにじんわりと溶けていくようです。


「美味い……」


 思わず零れた呟きは、いつからか食事の味を気にすることが無くなった男が久しぶりに抱いた感想でした。

 男の言葉を聞いたシルキーは、嬉しそうに優しく笑っています。

 その笑顔を見た男は、心の中にあった後悔をすっかり忘れてしまいました。


(別に嫌がらせを受けている訳じゃ無いし、こうして美味い紅茶が飲めるなら幽霊屋敷でも良いかな……)


 そう思い直して紅茶の続きを楽しんでいると、男の荷物を片付けようとしたシルキーが、イーゼルを見て不思議そうに首を傾げました。

 木の棒で出来た変な形の枠にしか見えないそれが、何の道具なのか分からないのでしょう。


「なんだ、イーゼルが珍しいのか? これは、こうやって使うんだよ」


 そう言って男はリュックの中から一枚の木枠を取り出すと、イーゼルを広げてその上に置きました。

 木枠にはキャンバスが張られていないので、木の脚の上に木の枠が乗っているようにしか見えず、シルキーはますます首を傾げてしまいます。

 傾げすぎて体までちょっと傾いている姿に男がぷっと小さく笑うと、シルキーが恥ずかしそうに顔を赤らめて少しだけむくれました。


「ごめんごめん、後で描いている所を見せてあげるよ。ちょうど、この家の素敵な庭を描きたいと思ってたんだ」

「――!」


 男がそう言うと、シルキーは嬉しそうな顔でぽんと手を合わせたかと思いきや、両手を腰に当てて、えへんと得意げに胸をそらしました。

 どうやらこの庭は、シルキーが手入れを行っていたようです。

 自慢の庭が褒められて、嬉しかったのでしょう。


 そんな風にころころと表情が変わるシルキーを見て、また男が可笑しそうに笑いました。

 今度はシルキーもむくれることなく、一緒になってくすくすと笑います。

 その様子は、とても恐ろしい亡霊には見えませんでした。


(最初はどうなることかと思ったけど、これなら何とかやっていけそうかな?)

 

 こうして男とシルキーの、ちょっと変わった同棲生活が始まりました。




 新しい家での生活が落ち着くと、男は日銭を稼ぐために毎日街へと出かけました。

 彼の持っている財産といえば、使い込まれた画材と最低限の私物、あとは僅かばかりのお金だけです。

 いくら家賃が安いとはいえ、お金を稼がなければ支払うこともままなりません。


 男は路上にキャンバスを広げると、似顔絵を描いたり、今まで描いた絵を売ったりして、小銭を稼ぎながら暮らしていました。

 そうして少しずつ顔を売りながら、いつか自分の絵を気に入ってくれる貴族に召し抱えて貰える日を夢見て、男は今日も絵を描き続けます。

 初めのうちは誰からも相手にされませんでしたが、それでも男に不安はありませんでした。

 家に帰れば、いつでも笑顔で迎えてくれる白い少女が居たからです。


「ただいま、シルキー。今日は結構お客さんが付いたから、食材の他に新しい茶葉を買ってきたよ」


 男がいつものように玄関を開けると、家の奥からさわさわと衣擦れの音を立ててシルキーが出迎えに来てくれます。

 彼女が喋ることはありませんでしたが、こうして笑顔で出迎えて貰えるだけで、男は一日の疲れが吹き飛ぶ思いでした。


(この家を借りた時は、帰って寝るだけの場所だと思ってたんだけどな……)


 気が付けば家事妖精であるシルキーにせがまれて、料理道具や裁縫道具、洗濯道具や掃除道具に至るまで、足りなかったり古くなったりしていた家事道具は一通り新しく揃えてしまっていました。

 亡霊である彼女にはそのどれもが必要の無い物なので、結果的には男のための買い物になるのですが、それでも新しい家事道具が増えるとシルキーは顔を綻ばせて喜びました。

 それが嬉しくて、男はついつい色々な物を買ってしまいます。


(まぁ、毎日家のことを全部やってくれてるし、給料の代わりだと思えば安いもんだよな)


 などと、誰にするでもない言い訳を考えだす始末です。

 でもそんな気持ちが、今まで功名心しか無かった男にとっての、絵を描くための新しいエネルギーになっていました。


 男はシルキーに買い物袋を手渡すと、テーブルに用意されていた温かな夕食を食べ始めます。

 荷物を受け取ったシルキーも手早く中身を片付けると、向かいに座って男が食事をする様子を笑顔で眺め始めました。

 食事をとることが無い彼女ですが、男が食事をする際には必ずこうして一緒に食卓を囲んでくれるのです。

 その方が不思議と食事が美味しくなると男が気付いたのは、この家に来てすぐのことでした。


「シルキーは本当に料理が上手いな。ここにレストランでも構えたら、大繁盛するんじゃないか?」


 男がそう褒めると、シルキーは顔を赤くして照れたように笑います。

 彼女は喋らない代わりに表情や仕草でその豊かな感情を表現してくれるので、見ていて飽きません。

 男は微笑ましい気持ちでシルキーを眺めながら料理を食べ進めますが、ふと、その手が止まりました。

 副菜に、パプリカのマリネが出ていたからです。


(パプリカか……昔からどうも苦手なんだよなぁ)


 食材を買ってくるのは男の役割なので、苦手なものは極力買わないようにしていたのですが、残念なことに幾つかの野菜は家の裏庭にある小さな菜園で採れてしまいます。

 家計としては大変助かるのですが、こうして苦手な物が出てくるのは考え物でした。


 しかし、せっかくシルキーが作ってくれた料理を食べない訳にはいきません。

 顔を上げれば、マリネを前に躊躇している男を見たシルキーが、「食べてくれないの……?」と言わんばかりに悲しげな表情を浮かべているではありませんか。

 たとえ食べなかったとしても、シルキーに家を追い出されるなどとはこれっぽっちも思っていない男でしたが、そんなことよりも彼女を悲しませていることの方が問題でした。


 男はごくりと唾を飲み込んで覚悟を決めると、がばりと口を開けて一気にマリネをかき込みます。

 口の中にお酢の酸っぱさとパプリカの仄かな甘みが広がって、苦手な味に思わず顔が歪みそうになりました。

 それを堪えてどうにか笑顔を返すと、シルキーはしょうがない子供を見るように苦笑いを浮かべながら男を見ていました。

 パプリカが苦手なことなど、すっかりお見通しのようです。

 

(見た目が子供みたいなシルキーに子供扱いされるのは、なんか変な気分だな……いや、実際はシルキーの方がずっと年上なんだろうけどさ)


 男が恥ずかしさを誤魔化すように不貞腐れた顔で食事を終えると、シルキーは食後の紅茶を差し出してから食器を片付け始めました。

 その背中を眺めながら、男はシルキーに手渡した買い物袋とは別に、用意していた紙袋を取り出します。


「シルキー、ちょっと良いかな?」

「――?」


 不思議そうに振り返ったシルキーに近付くと、男は紙袋の中身を取り出してシルキーの頭の上にそっと乗せます。

 そして手鏡を取り出してシルキーに見せると、鏡の中のシルキーはエプロンドレスと同じ色のシルクで出来たホワイトブリムをつけていました。


「――!?」


 驚いたシルキーは、ホワイトブリムに手を添えながら男の方を見ます。

 パクパクと開いた口からは声は出ませんが、必死に驚きを伝えようとしていることが良く分かりました。


「シルキーに似合うと思ったんだけど、どうかな? 気に入って貰えると良いんだけど……」


 照れくさそうに頬を掻く男に向けてシルキーはこくこくと何度も頷くと、嬉しそうにはにかみながら鏡に映る自分の姿を眺めます。

 どうやら、とてもお気に召したようです。

 そのことに男はほっと胸を撫で下ろすと、小柄な少女の頭を優しく撫でました。


「いつもありがとう、シルキー」

「――?」


 贈り物を貰った上にお礼まで言われたシルキーは、何のことか分からなくて首を傾げます。

 男はそんなシルキーの頭を何度も撫でながら、日頃の感謝を口にしました。


「いつも家事をやってくれてありがとう。この家に君が居てくれて、良かった」

「――!!」


 男の言葉を聞いたシルキーは、まるで花が咲いたような満面の笑みを浮かべました。

 それは庭に咲いた花々にも負けないくらい、とっても素敵な笑顔でした。




「じゃあ、行ってくるよ。シルキー」


 笑顔で手を振って見送るシルキーに手を振り返すと、男は重たい画材を担いでいつものように街へと向かいます。

 長らく通い続けているうちに今ではすっかり顔馴染みも増え、財布も随分と重くなりましたが、それでも男は街中に引っ越そうとは思いませんでした。

 どんなに遠くて通うのが大変でも、あの家にはシルキーが居るからです。


(色々プレゼントしてきたけど、毎日つけてるのは最初にあげたホワイトブリムだけなんだよな……喜んではくれてたけど、あんまりアクセサリーとか好きじゃないのかな? でも食べ物はシルキー食べられないしなぁ……新しい花の種とか買ってみるか? その前に、家に咲いてるのが何て花か調べないといけないが……)


 そんなことを考えながら今日も男が絵を描いていると、ガラの悪そうな三人の男が近づいて来ました。


「兄ちゃん、絵描きか? ちっとオレの似顔絵でも描いてくれねぇか?」


 三人のうちの一人が、男の前に置かれたモデル用の椅子に乱暴に座りながらそう言います。

 残りの二人は、キャンバスを覗き込むように男の後ろに回りました。


(なんだ? 妙に態度が悪いな……正直断りたいけど、下手に断って変に絡まれるのも嫌だしな……仕方ない、ささっと描いてお帰り頂こう)


 男はそう考えると、愛想笑いを浮かべながら答えます。


「ええ、良いですよ。描くのはお一人でよろしいですか? 三人ご一緒も出来ますが……」

「あーいい、いい、描くのはオレだけだ」


 ガラの悪い男はどうでもよさそうに手を払うと、大股を開いて面倒くさそうに頬杖をつきました。

 暇そうに欠伸を浮かべる姿は、とても今から似顔絵を描いてもらおうとしているお客には見えません。

 男は不審に思いながらも、出来る限り関わり合いになりたくなくて、何も言わずに黙って筆を進めます。

 すると、後ろで覗いていた男の一人が、絵の具のビンを一つ手に取って尋ねてきました。


「兄ちゃん、これなんて言うんだ?」

「? 水彩絵の具ですよ、カーマインの。見たこと無いんですか?」

「へー、ゲージュツとか良く分かんねぇからなぁ……こっちはなんだ?」

「木炭ですよ。主にデッサンに使うんですが、たまに木炭で描いて欲しいというお客様も居ますね」

「炭だぁ? 金持ちってのは何を考えてんだかね。こっちの絵の具はさっきのと違うのか?」

「それはガッシュですね。同じ水彩絵の具ですが、透明度が異なります」


 やけに色々と聞いてくる男にしばしば筆を止められながら、それでもどうにかモデルの男の似顔絵を描き上げます。

 結局いつも以上に時間が掛かってしまい、出来上がる頃には後ろで覗いていた二人の男は居なくなっていました。

 男はキャンバスを手に取ると、椅子から立ち上がってガラの悪い男に声をかけます。


「すみません、お待たせしました。こちら、ご依頼の――」

「いらねぇ」

「……え?」


 全てを言い終わる前に口を挟んだガラの悪い男は、それだけ言うと絵も受け取らずに立ち去ろうとします。

 男は慌ててその肩を掴んで呼び止めました。


「ちょ、ちょっと、お代! まだお代を頂いてませんよ!?」


 たとえ絵が要らなかったとしても、描かせた以上は代金を払って貰わなければいけません。

 絵を描くために使った時間や画材は、タダではないのです。

 しかしガラの悪い男は掴まれた手を振り払うと、威嚇をするように声を荒げました。


「いらねぇってんだよ、そんな下手クソな絵! テメェそんなんで金が取れると思ってんのか!? 何様のつもりだ、あ!?」

「なっ――」


 依頼の参考用に展示している絵もあるのに、そんなことを言われるとは思ってもいませんでした。

 自分の絵が気に入らないのなら、なぜわざわざ似顔絵の依頼なんてしてきたのか、男には分かりません。

 男が言葉を失っていると、ガラの悪い男はキャンバスを奪い取って地面に叩きつけ、描き上げたばかりの似顔絵を踏みつけ始めます。

 男にはその光景が、まるで悪い夢を見ているように感じられました。


(夢なら早く覚めてくれ――!)


「こんなモン薪にでもした方がまだ価値があらぁ!」


 ぐりぐりとキャンバスを踏みにじっていたガラの悪い男は顔を上げると、今度はイーゼルを乱暴に蹴りつけました。

 バキリ、と嫌な音を立てて、イーゼルの脚が折れ曲がります。

 その音が、呆然としていた男を現実に引き戻しました。


「ちょっ、やめ、止めて下さい!」


 咄嗟に倒れたイーゼルを庇うように身を伏せると、振り上げられた足が男の背中を強く蹴りつけました。

 じんじんと広がる鈍い痛みと恐怖で、体がガクガクと震えます。

 今まで絵ばかり描いてきた男にとって、暴力というものは無縁だったからです。

 暫くイーゼルに覆いかぶさってカメのように身を縮めていると、ガラの悪い男は気が済んだのか、そのままどこかへと行ってしまいました。

 それでも男は、暫くその場から動くことが出来ませんでした。


 ようやく落ち着きを取り戻した男が顔を上げると、そこには破れたキャンバスと、折れたイーゼルが転がっていました。

 どうしてこうなったのか、男には分かりません。

 分かりませんが、どうしようもなく悲しかったことだけは、確かでした。


 悲しくて、悔しくて、やりきれなくて。


 男はぐっと奥歯を噛みしめると、泣かないように必死に堪えながら、荷物を片付け始めました。

 もう今日は、とても絵を描く気にはなれません。

 

 消沈しながら片付けを行う男は、その途中で理不尽な暴力の意味を知りました。


 財布が、無くなっていたのです。


 今までの努力が全部無くなってしまった気がして、男の目から涙が零れました。

 どんなに袖で拭っても、次から次へと溢れ出してきます。

 それを誰かに見られるのが嫌で、男は荷物を担ぐと一目散に走り出しました。


 走って、走って、走って、走って。


 息が切れても、胸が痛くなっても、足が動かなくなっても、男は走りました。

 嫌なことから逃げるように、辛いことを忘れるように、必死で。


 そうして走り続けて家に帰ると、玄関に荷物を放り出してベッドの中に駆け込みました。

 シルキーにただいまを言う余裕もありませんでした。

 ただ怖くて、ベッドの中で布団を頭から被ってブルブルと震えます。

 こんな情けない姿をシルキーに見られたくなかったという気持ちも、あったかも知れません。

 

 男がベッドの中で震えていると、キィと寝室の扉が開く音がしました。

 足音が聞こえなくても、シルキーが心配して男の様子を見に来たことが分かります。

 けれども、男が布団の中から出ることはありませんでした。


 暫くシルキーはじっと男を見つめていましたが、やがて悲しそうに目を伏せると、そっと扉を閉めます。


 シルキーには、男を慰めるための声が、ありませんでした。



 次の日、いつの間にか布団を被ったまま眠ってしまっていた男は、ゆっくりとベッドから起き出しました。

 胸にはまだ淀んだ気持ちが渦巻いていますが、それよりもシルキーのことが気になって、引き籠ってなどいられませんでした。


(シルキーは何も悪く無いのに、無視するようなことしちゃって、きっと傷ついただろうな……)


 男の方がずっと傷ついていましたが、だからといってシルキーを傷つけて良いとは思いませんでした。

 自分が傷ついたからといって別の誰かを傷つけては、いつか皆が傷ついてしまうでしょう。

 男は、そんなことはしたくありませんでした。


(シルキーに昨日のことを謝ろう。そして、昨日何があったかをちゃんと話そう。金が無くなったことも……)


 男は心を決めると、シルキーを探すために寝室を出ます。

 すると扉の前には、昨日玄関で放り投げたはずの荷物が置かれていました。

 ただし、昨日と違うものが二つだけありました。


 張り直されたキャンバスと、テープでくっ付けられたイーゼルです。


(これ……シルキーが……?)


 男は恐る恐る、生まれ変わった画材に手を伸ばします。

 目元から、じわりと涙が滲みました。

 けれどそれは昨日とは違う、とても温かな涙でした。


「……あーあ、キャンバス、しわしわ……イーゼルも、歪んじゃって……これ……うっ、く……ひっ……」


 とめどなく溢れ出る涙を、止めようとは思いませんでした。

 皺だらけのキャンバスの上に涙が落ちて、更に皺が増えても構わずに、男は泣き続けます。


「ごめんなぁ……ごめん、シルキー……ごめん……ごめんな……」


 膝をついてキャンバスを抱きしめながら謝る男の頭を、傍に立ったシルキーがそっと撫でました。

 大丈夫だよ。

 心配ないよ。

 そんな想いを込めて、シルキーは男の頭を優しく撫で続けます。

 男はシルキーの細い腰に抱きつくと、お腹に顔を埋めて泣きました。

 

 流した涙の分だけ、シルキーの温もりが胸いっぱいに広がっていくような気がして。



「ありがとう。大丈夫、もう落ち着いたよ」


 シルキーの淹れてくれた紅茶を飲みながら、男は安心させるように微笑みかけます。

 それを見たシルキーも、胸に手を当てて微笑み返しました。


(やっぱりシルキーには、悲しい顔よりも笑顔の方が良く似合うな)


 そう思った男は、あることを思いつきました。


「そうだ、シルキー。良ければ君の絵を描かせてくれないか?」

「――?」


 男の提案に、シルキーは不思議そうに首を傾げます。

 男にはそんな他愛のない仕草まで、絵に描き残しておきたいと思うくらい愛おしく見えました。

 

「えっと……色々迷惑かけたし、そのお詫びというか……なんというか……」


 もごもごと言い訳がましく口をついて出るのは、そんな取り繕った言葉ばかりです。

 本当は、愛しいシルキーを描きたいという気持ちと、シルキーのために何かを残してあげたいという気持ちと、まだほんのちょっとだけ一人で街に行くのは怖いから、絵でも良いからシルキーと一緒に居たいという気持ちから出た提案でした。

 もちろん、そんなこと男として絶対に口に出せるはずがありません。

 散々みっともなくしがみ付いて大泣きした後ですが、それはそれです。


 男がしどろもどろになっていると、そんな内心を知ってか知らずか、シルキーは無邪気そうに微笑んで頷きました。

 了承を得た男は、善は急げとばかりにさっそく道具の準備を始めます。

 筆に絵の具、パレットに水、イーゼルはシルキーが直してくれた物を広げました。

 さすがに皺だらけのキャンバスに描く訳にはいかないので、キャンバスは新しく別に用意したものを使います。

 

「それじゃあ、そこの椅子に座って向こうの壁の方を見てて。十分くらいしたら姿勢を崩しても良いけど、後で何回か同じポーズを取ってもらうかも知れないから、その時はよろしくね」


 男がそう言うと、シルキーはこくりと頷いてすっと背筋を伸ばすと、一点を見つめ始めました。

 男はその様子を目に焼き付けるながら、鉛筆を手に取って真っ白なキャンバスに大まかなアタリをつけていきます。


 暫く黙々と作業を続けている間、シルキーは姿勢を崩すことなく、じっと同じ姿勢で座っていました。

 男も黙って筆を進めていましたが、やがてぽつり、ぽつりと口を開きはじめます。

 話したのは昨日起きた出来事でした。


 ガラの悪い男たちに騙されて、有り金を全部失ったこと。

 その時に画材を壊されたこと。

 暴力に晒されて、怖くなって逃げ帰ったこと。


 一通りを訥々と語り終えた後、男は「でも」と言葉を続けます。


「もう一度、頑張ってみるよ。シルキーの……シルキーに、元気をもらったから」


 淀みなく動く男の手とは裏腹に、淀んだ言葉は想いをうまく紡ぐことが出来ませんでした。

 それでもシルキーは、男に向けて柔らかく微笑んでくれます。


(いつか、ちゃんと言おう。シルキーの傍に居たいんだ――って)




 男は描きかけのシルキーの絵を持って、今日も街へと出かけます。

 いつもの場所には嫌な思い出があるので、今までよりももっと人通りの多い場所にやって来ました。

 ジロジロと沢山の視線が向けられてなんだか落ち着きませんが、我慢するしかありません。

 初めはとても緊張していましたが、時折見知った顔が声をかけてくれるので、すぐに落ち着くことができました。


「災難だったなぁ」

「また来てくれて嬉しいよ」


 彼らはそう言いながら、僅かばかりのお金を男に恵んでくれます。

 そんな優しさが、街を嫌いになりかけていた男の心を温かく溶かしていきました。

 よそ者だった自分がこの街に受け入れられたことが嬉しくて、男はまた少し泣きました。


 そうしていつものように絵を描いていると、ふと、誰かが後ろから絵を覗き込んできました。

 財布をかすめ取られた苦い経験のある男は、警戒心を顕わにして振り返ります。


「何か御用ですか?」

「これは失礼。こちらの少女の絵は、貴方様が描かれたものでしょうか?」


 男の後ろにいたのは、ぴんと背筋を伸ばして真っ直ぐに立っている、執事のお爺さんでした。

 執事は丁寧な所作で、描きかけだったシルキーの絵を指し示します。


「ええ、そうですが……」


 反射的に男が答えると、執事は恭しく頭を下げてこう言います。


「旦那様がこちらの絵を大層お気に召されまして、何卒、私共にお譲りいただけないでしょうか? もちろん、お代は出来得る限りをご用意させていただきます」

「……え?」


 男は一瞬だけ、頭の中が真っ白になりました。

 執事の身なりを見る限り、シルキーの絵を欲しがっているのはお金持ちの旦那様で間違いないでしょう。

 そんな人が、男の絵を買い取りたいと言ってくれているのです。

 お金に困っている男には、大変ありがたい申し出でした。

 しかし――


「申し訳ありません。この絵は既に持ち主が決まっております。お譲りすることは出来ません」


 男はハッキリと、断りの言葉を口にしました。

 シルキーに絵を贈ったところで、お金は一円も増えません。

 けれど男は、どんなに大金を積み上げられたとしても、この絵を売るつもりはありませんでした。

 この絵に込めた想いは、それだけ特別なものなのです。


「そうですか……」


 断られてしまった執事は少し残念そうに目を伏せると、一礼を残して立ち去ります。

 それを見送る男に、後悔の気持ちはありませんでした。



 次の日、男が同じ場所で絵を描いていると、昨日の執事が再びやって来ました。

 今度は隣に、綺麗な衣装を身にまとった小太りの男を連れています。


「旦那様、彼が例の絵描きで御座います」

「うむ」


 旦那様と呼ばれた小太りの男は大きく頷くと、のしのしと男の傍まで近づいてきました。


(もしかして、昨日断ったから腹いせに嫌がらせをしに来たんだろうか)


 お金を盗られた時のことを思い出して男が顔を青くしていると、旦那様は男の両肩をバンと叩きました。

 そして逃がさないとばかりにがっしりと肩を掴むと、目を白黒させている男に向けて、真剣な眼差しでこう言います。


「君、私の家で専属画家として働く気は無いか?」

「――え?」


 突然の言葉に、男の頭は理解が追い付きませんでした。

 そんな男に対して、旦那様は熱心に語り始めます。


 シルキーの絵がどれだけ素晴らしいかを。

 どれだけ自分が欲しがっているかを。

 そんな絵を、お金に困っているはずなのに売らなかった男の高潔さにどれだけ感心したかを。

 旦那様は唾を飛ばす勢いで、熱く語ってくれました。


「私はこれでも子爵の位を持っていてね。絵を売って貰えないのならば、ぜひ君自身を専属画家として召し抱えたいのだが……どうだろう?」

「そ、それは……」


 それは、ずっと男が夢に見てきた誘いでした。

 いつか貴族に召し上げられて、一人前の絵描きとして生活すること。

 その夢が、今まさに目の前に差し出されています。

 しかし男は、すぐにその夢を掴むことが出来ませんでした。

 貴族の屋敷に召し上げられるということは、シルキーの居る洋館を離れることになるからです。


「少し……考えさせてください……」


 男は俯いて、そう答えます。

 すぐにでも頷いてくれるだろうと思っていた旦那様は、驚いた表情を浮かべました。

 しかし、何か事情があるのだろうと察すると、一つ頷いてこう告げます。


「一日だけ時間をあげよう。明日、もう一度この場所を訪ねる。その時に答えを聞かせて欲しい」

「……はい」


 男が俯いたまま返事をすると、旦那様は執事を連れて去っていきました。

 後に残された男は、もそもそと片付けを始めます。

 今は一秒でも早く、シルキーに会いたくて仕方がありませんでした。



「ただいま、シルキー」


 いつもより早い男の帰宅に、シルキーは驚きながらも笑顔で出迎えてくれます。

 けれど、どこか男の様子を気にかけるように、そわそわと落ち着きがありません。

 たとえ言葉に出さなくても、街で何かがあったのだと分かるのでしょう。

 それくらい、男とシルキーは一緒に過ごしてきたのです。


 男は荷物を下ろすと、無言でシルキーのことをぎゅっと抱きしめました。

 あまりにも突然のことに、シルキーは目をぱちくりと見開いたまま固まってしまいます。

 そんなシルキーに、男は絞り出すように言いました。


「シルキー……俺と一緒に、街に行かないか?」


 その言葉を聞いて、シルキーの体がビクリと震えました。

 男は離したくなくて、きつく、きつくシルキーを抱きしめます。

 けれどシルキーは、弱々しく男の胸を手で押すと、ゆっくりと体を離しました。


「――」


 そして、静かに首を横に振りました。


 家事妖精のシルキーは、この館に憑りついた亡霊です。

 出歩けるのは家の敷地の中だけで、門の外に出ることも出来ません。

 男にもそれは分かっていましたが、どうしても口に出さずにはいられませんでした。

 夢も、シルキーも、どちらも男にとって、同じくらい大切なものだったからです。


 シルキーは尋ねるように男を見上げます。

 どうしてそんなことを聞くのかと、その目は告げていました。

 だから男は答えます。


 貴族の屋敷に、雇いたいと誘われたことを。

 そして――その返事を。


「でも、断ろうと思う」

「――!?」


 シルキーは大変驚きましたが、男の心は決まっていました。

 絵はどこでだって描けます。けど、シルキーはここにしか居ません。

 だから男は、自分の夢よりもシルキーと一緒に居ることを選びました。

 ずっとこの家で暮らして、街に絵を描きに出かける生活を続けよう。

 そう、思いました。


 気持ちを吹っ切った男は、朗らかに笑います。

 けれどもその時、シルキーの顔はずっと曇ったままでした。



 翌朝、男は寝室から出ると、朝食をとりにダイニングへ向かいます。

 その途中、玄関前の廊下に、いつもの画材の他に大きなリュックサックが置かれているのを見つけました。


(シルキーか? 中身がパンパンになってるけど、何に使うんだろう?)

 

 男は首を傾げながら、ダイニングの扉に手をかけます。

 しかし不思議なことに、扉が閉まったまま開きません。

 押しても、引いても、叩いても、鍵なんてついていないはずの扉は、ビクともしませんでした。

 不審に思った男が辺りを見回すと、閉まっているのはダイニングの扉だけではありませんでした。

 客室も、トイレも、さっき出てきた寝室の扉さえも、固く閉ざされていたのです。

 

 開いているのはただ一つ、外へと続く玄関の扉だけでした。


「シルキー……? おい、シルキー! シルキー! どういうつもりなんだ、シルキー!」


 男は家中に響くような大声で、シルキーに呼び掛けます。

 しかし、いつもは呼べばすぐに出てくるシルキーなのに、今日は一向に姿を現しません。

 男に覚えが無い以上、家中の扉を閉ざしているのはシルキーの仕業に違いありません。

 けれども男には、なんでシルキーがこんなことをするのかが分かりませんでした。


 声が枯れるまで叫び続けた男は、シルキーが用意したであろう大きなリュックサックを開きます。

 ここに引っ越してからずっと仕舞いっぱなしだったリュックサックの中には、来た時よりも大分増えた男の荷物一式が詰まっていました。

 

 開かない扉、纏められた荷物、唯一開いている玄関の扉。


 それらの事実が、男にシルキーにまつわる伝承を思い出させます。


 それは、"シルキーは気に入らない主人を追い出す" というもの。

 

 男の背筋を悪寒が駆け上がりました。

 それは家を追い出されることへの恐怖ではありません。

 シルキーに嫌われてしまったことへの恐怖でした。


(昨日まで仲良くやってこれてただろ!? なんでだ、何がいけなかったんだ!?)


 男は頭を抱えて蹲ります。

 するとリュックの中に、小さな花が一輪、添えられているのを見つけました。

 家の庭に咲いている、青くて小さな、星形の花。



 以前に調べたその花の名前は、忘れな草。

 花言葉は、"私を忘れないで下さい"



 男は、初めてシルキーの声を聞いたような気がしました。


 シルキーは男が嫌いになったのではありません。

 男に、立ち止まって欲しくなかったのです。

 歩くことが出来ない自分の代わりに、最後まで歩き続けて欲しかったのです。

 

 男は声を殺して泣きました。

 泣きながら、道具を手に、一心不乱にシルキーの絵を描き上げました。


 やがて男は筆をおくと、一枚のキャンバスを残して洋館を出て行きました。



 誰も居なくなってしまった廊下に、さわさわと衣擦れの音を立ててシルキーが姿を現します。

 シルキーは男が残したキャンバスを拾い上げると、そこに描かれた絵を見て、ぎゅっとキャンバスを抱きしめました。


 絵の中のシルキーは、薄紫色の綺麗な花に囲まれていました。



 描かれているのは、紫苑の花。

 花言葉は、"君を忘れない"





 それから数十年後。


 とある大きな美術館に、一風変わった絵が飾られていました。

 皺だらけのキャンバスに描かれたその絵は、森の中に浮かぶ小さな洋館と、白い衣を身にまとった、可憐な少女の絵でした。

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