長空狂詩曲~Chang-Kong Rhapsody~<後編>
麻花がNueve Colasに来て一か月がたった。
その日、麻花は店主に買い物を頼まれて街へ出た。
これまでも何度かお使いには行っていたが、一人で行くのははじめてだった。
「アタシが行ければいいんだけど、仕事が入っちゃってねぇ。こんなとこにかぎって菫もいないし」
「大丈夫です、小姐。いつものお店ですもの」
「そぉ? あ、そうだ。じゃ、これ持ってって。アタシの髪飾り。これ見せれば、ちょっとはおまけしてくれると思うからさ」
「あはっ、わかりました。では行ってきます」
そういって出かけた麻花であったが、買い物をすませて店を出た直後から、誰かに跡を付けられているような感じがした。
(何? どうして? あ……なんだろう、前にもこんなことが……)
ズキリ
後頭部が痛む。
ひたひたとついてくる足音。逃げる麻花。
(嫌……怖い……助けて……。菫さん……!)
麻花は菫の名を呼ぶ。けれど、そう都合よく彼が現れるはずはなかった。
足音はどんどん近付いて来る。
麻花は、足音から逃げるうちに知らない路地に追い込まれた。
足音が迫る。何か長い物が振り上げられる。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう。
助けて――兄さん……!)
ピィィィィィ
ピィィィィィピィィィィィ
警らの笛が響く。
「チッ」
麻花を追っていた男は、その音を聞くと、麻花をあきらめ路地の影に消えた。
「おい、君、君! 大丈夫か?」
「う……痛……。あ、警ら隊の方が助けてくださったんですか? すみません。
あら? 私、どうしてこんなところに?
やだ、早く帰ってお夕飯の支度しなきゃ!」
麻花は駆けだす。Nueve Colasとは逆の方へ。
「お嬢さん、落としましたよ。お嬢さん!」
警ら隊の男が、麻花の落とした髪飾りを拾う。けれど、麻花は振り返ることなく、雑踏の中を駆けて行った。
その日の夜遅く、Nueve Colasに戻った菫は、麻花がいなくなったことを知った。
「それは、いつだ?」
「近所の人の話しだと、夕方東の方角に走って行ったって。ごめん、アタシの責任だわ。一人で買い物なんて行かせたから」
「それを言ったらボクだよ。お使いを頼んだのはボクだからね」
店主と化粧師がお互いをかばい合うが、それで麻花が戻ってくるわけではない。菫は麻花を探すため、夜の街に飛び出した。
「あぁ。香林ちゃんかい。気立てのいい子でねぇ。兄さんと二人で菓子店をしてたんだけどね、その兄さんってのが風来坊でさ」
「どっか行っちゃぁ、しばらく帰って来ないんだよな。それでもこの間まではときどきは見かけてたんだけども、最近はさっぱりだなぁ」
「そうさね。さっぱりといえば、香林ちゃんもしばらく見ないときがあったっけ。一緒に旅にでもいってたんかね」
「おうおう、そうだった。でも戻ってきてくれたんだよな。香林ちゃんの菓子がない人生なんて考えられないからね。戻ってきてくれてよかったよ」
(つまり、麻花は香林という名で、この町で菓子店を営んでいたのか。通りで料理がうまいはずだ)
朝まで歩きつづけ、ようやく麻花の足取りをつかんだ菫は、麻花――香林という名だった――が営む店の前に佇む。
そこには、埃をかぶった看板や垂れ幕を懸命に拭く麻花の姿があった。
(麻花……いや、香林)
香林、と菫は口中でもう一度つぶやく。きれいな名だ。少なくとも菓子の名ではない。 彼女の持つ、凛とした雰囲気とやわらかな物腰の両方を表す、いい名だと思った。
(香林……)
彼女は、陽の当たる世界で生きる者。
元々裏の掃除人である自分などに、関わるはずの存在ではなかった。このまま幸せに暮らしてくれ、と香林の元を立ち去ろうとした菫の琴線に、何かが触れた。
(そうだ。確かめなければ。彼女は記憶が戻った。ということは、あの夜のことも……?)
殺しの現場を見ているのなら、処分しなければならない。
香林を、殺す。
この手で――
その日から、菫は香林の店を見張るようになった。
殺すのは、いつでもできる。
まずは、生活パターンを知り、もっとも安全に効率よく近づく方法を考えなければ。
そのために自分は、香林を見張る。そう、そのために。
カララン
ドアベルが鳴り、香林の店に客が入って行く。
「いらっしゃいませ!」
香林の声が聞こえる。
数日前までは、ごく近くで聞いていた声。ときには自分の腕の中で、直接体に響かせていたあの声。
それが、今は隠れるようにして聞いている。
カララン
一人、客が出て行った。その客と入れ替わるように、次の客が入って行く。香林の店は、評判通り、なかなか繁盛しているらしい。
(当然だ。麻花の作る菓子はうまい)
それを、身を持って知っている菫である。
カララン、カララン
「いらっしゃいま……あら、王さん、こんにちは」
王と呼ばれた男が入って行く。あの男は、香林の店に最もよくやってくる男だ。
中肉中背。どこにでもいるような優男で、たぶん、香林に好意をいだいている。
「や、やぁ、香林。今日のおすすめは何かな」
「いつもありがとうございます。そうですね、こちらの焼饅頭と……」
香林は、他の客に向けるのと同じ笑顔を王に向けている。香林はあの男のことを何とも思っていないようだ。少なくとも、自分にはもっと違う笑顔を見せていた。
自分には――
そうだろうか、と菫は思う。違うと思っていたのは自分だけで、香林が本当に自分のことを好いていたかなどわからない。
それどころか、今普通に日常生活を送っているということは、麻花であったときのことなど忘れているものと思われる。
そこに自分があらわれたらどうなるのだろう。少なくとも、連日通っているあの優男のほうが、菫よりよほど身近であろう。
「はっ」
(何を……。何を考えている。とっとと客を装っていけばいい。客の少ない時間帯はわかった。他の客に会わない頃合いを見計らって店に入り、二~三質問して、覚えていなければそれまでだ)
なのに、それができない。
もしそれでおぼえていないことがわかったとしたら、この見張りは終わる。
もしそれで殺しの現場を覚えていたとしたら、やはりこの見張りは終わる。香林の死をもって。
どちらにせよ、もう会えなくなるのだ。
(しかし、いつまでもずるずると引きずっていても仕方がない)
カララン
ドアベルが鳴り、王が店を後にする。けれど、帰り際いつもはしない行動を、王はした。花を渡したのだ。香林に。
「まぁ、きれい」
香林の濃褐色の瞳が花を映す。そして、王を見上げた。その頬が、赤く染まっていた。
(麻花……!)
そんな顔をするな。
そんな、顔をするな。
俺、以外に。
気が付けば、飛び出していた。
香林、その人の前に。
「? お客さんですか。いらっしゃいませ」
「麻花……」
「麻花ですか? ありますよ。袋に入ってるのもありますし、量り売りもできます。どちらがよろしいですか」
香林は、王にもらった花を花瓶に差し、店の奥へと入って行く。王は邪魔が入られたとばかりに菫を睨みつけると、そのままどこかへ行ってしまった。
「お客様? こちらへどうぞ。えっと、袋でよろしいのですか?」
「あ、あぁ。これを一つ。それから……杏仁豆腐はあるか」
「すみません、あいにく今日の分は売れてしまって……。
よろしければ、明日お取り置きしておきますが」
「いや……それには及ばない。では、これだけもらおう」
「ありがとうございました。またお越しください」
菫は、香林から菓子の入った袋を受け取る。そして帰りかけ、本来の目的を思い出した。
「そうだ……。兄上はしばらく留守だとか」
「兄をご存じですか? そうなんです。まったくいつもの病気が出たんですね。気になることがあると、ふらっといなくなってしまうんだもの。きっとまたどこかでおいしいお菓子があるとかいう噂を聞いたんですよ」
香林が話す。菫を見て、話す。懐かしい声。懐かしい香り。
「その、君もしばらく出かけていたとか?」
「えぇ……。でもその、お恥ずかしいんですが、よく覚えていないんです。ある日気付いたら見知らぬ場所にいて、知らない間に時間が経ってしまってたみたいな感じで。私としては、つい昨日まで普通に店に出ていたはずなのに、ご近所さんに聞いたら一か月経ってるっていうんですよ。まったく、何があったのかしら」
そう話す香林は、菫のことなど一向に思い出さない様子だった。
「そうか……。覚えていないなら、無理に思い出す必要もないだろう。時間をとらせた」
「いえいえ。ぜひまたいらしてください」
店を後にする菫に、香林が深々と頭を下げる。
香林は、あの夜のことを覚えていなかった。もちろん、Nueve Colasのことも。そして、菫のことも。
(これでいい。これでいいじゃないか)
香林を殺さずにすむ。
そのことにほっと胸を撫で下ろしつつも、暗闇の底に突き落とされたような感覚を覚える菫であった。
その夜、Nueve Colasに戻った菫は、化粧師と店主に事の次第を語って聞かせた。
「そうだったの……。麻花ちゃん、香林ちゃんって名前だったの。それで、アタシたちのことはすっかり忘れてるわけね」
「けれど、いつ何時思い出すかはわからないんだね。一応、見張りをつけておくか」
「そうねぇ。あ、ちょっとまって。じゃぁ麻花ちゃんが狙われてたわけってのはなんだったの?」
「狙われてる?」
「そぉよぉ。ほら、麻花ちゃんが最初に運び込まれたとき、大けがをしてたじゃない? あれって事故じゃないと思うのよね。絶対に故意にやられた傷だったわ。
物取りとかじゃないわよ、あきらかに殺意があった。
あれってどうなったの?」
「……!」
そうだ。
失念していた。
麻花こと香林を殺すかどうかだけに気を取られ、彼女が狙われていたことを忘れていた。
それに気付いた菫は、愕然とする。
自分が見張っている間は、それらしい気配は感じなかった。しかし、だからといって相手があきらめたとはかぎらない。
「出かけてくる」
「えぇ?」
「こんな時間に?」
店主と化粧師が止める。けれど菫はそれに返事もせずに、香林の店へと向かった。
「いやあああ、やめて! やめてください!」
「いいから来いよ! うちのお坊ちゃんがアンタを御所望なんだよ!」
「お坊ちゃんって誰ですか! そんな人知りません!」
「うるっせぇ!」
ガシャーン
大きな音がして、店の硝子が割れた。
「香林!」
「あなたは……昼間の……」
Nueve Colasから菫が急ぎ駆けつけてみれば、昼間は何の気配もなかった香林の店に、二人の男が乱入していた。
「おまえら……彼女の手を離せ」
「なんだてめぇ。関係ねぇだろ! 怪我ぁしたくなかったら、ひっこんでろ!」
「そうだ、そうだ」
「引っ込むのはおまえたちのほうだ」
菫が男たちに対峙する。彼に引く気がないとわかった男たちは、腰の刀を抜いて威嚇をした。
「んだとぉ、生意気なやつめ。女の前で格好つけようってのか。あとで後悔しても遅いんだぜ」
「へっへぇ、そうだ、そうだ」
男の一人が、自分の刀の刃をべろりと舐める。醜悪なその顔に、菫が顔をしかめたのが、切り込むきっかけとなった。
「死ねええぇぇぇぇ」
「!」
片方の男が、力任せに刀を振り下ろす。菫はそれをひらりとよけて、足をかけた。
ズダン!!!
重そうな音を立てて、男が床に倒れる。
「痛ってぇ……。くそ、舐めたマネしやがって」
「兄貴に何しやがる! この野郎!」
菫のほうが上手とふんでか、今度は二人がかりで襲い掛かってきた。
「きゃぁっ」
間近でそれを見ている香林が、両手で顔を覆う。
男たちの刃が菫を追いかける。しかし、足を狙ったものはすばやく跳び退ってよけられ、首を狙ったものは、体をひねって避けられた。さらに、避けた拍子に繰り出された足蹴りに、男の一人は跳ね飛ばされ、もう一人も返す足で刀を弾かれた。
「ひ……っ」
くるくると宙を舞った刀を、菫が空中でつかむ。
「……」
菫は、無言でその男の鼻先を切り裂いた。
「ぎぃやああああぁぁぁぁぁ」
「あ、兄貴ぃ、兄貴いぃぃぃぃ!」
「俺のっ、俺の鼻が」
「兄貴っ、とりあえず手当てをっ
てめぇ、覚えてろよ!」
二人の男たちは、あたふたと店を出て行く。
後には、菫と香林だけが残された。
「……大丈夫か」
「あ、はい。あ、あの……ありがとうございました……」
「いや」
菫は、座り込んでいる香林を起こそうと、手を差し出す。
香林はびくっと肩を震わせると、菫の手を断って自分で立ち上がった。
「すみま……すみませんでした。見ず知らずの方にこんな……ご迷惑をかけて」
「見ず知らずでは」
「あ、そうでしたね。昼間来てくださったのでした。では、あの、お客様にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「そうではなく」
「では、あの? え、あの、あなたも私を連れて行こうとするんですか?」
「違う!」
思わず、菫が怒鳴る。すると、再びびくりと香林が肩を震わせた。
「あ……すまない。怖がらせるつもりは……」
「はい。ごめんなさい、私こそ失礼な態度を……。あの、血ってあんまりみたことなくて……。助けていただいたのに、本当にすみません」
香林は、小さくなってあやまる。菫はそんな香林の頭をぽんと撫で、不器用に笑った。
「血に……慣れている人間などいない。俺だって……。
君が、無事でよかった。もうこんなことは二度とない。安心して眠れ」
「え……?」
それはどういう意味ですか、と香林が聞く前に、男は店を出て行ってしまった。
「待……っ」
「香林ちゃん! なんの騒ぎだい!?」
「おおい! すごい音が聞こえたけど、どうしたー?」
香林は男を追いかけようとした。けれど、物音に気付いて駆けつけてくれた隣の青果店の夫婦に、それは阻まれてしまった。
「あ、あの、私は大丈夫ですから。あの、待って……」
「大丈夫って、全然大丈夫なんかじゃないよ!
あーぁ、店、こんなにされちまって! 警ら隊を呼ぼう」
「香林ちゃん、怪我はないかい?」」
「怪我は、ないです。あぁ、せめて、お名前だけでも……」
香林はすでに見えなくなった背中を思い浮かべる。
なぜだろう。
自分は、あの背中を知っている気がする……。
「香林ちゃん? 香林ちゃん、どうしたい。やっぱりどこか打ったんじゃないかい」
「いえ、大丈……夫……」
「でも……泣いてるよ?」
「えっ」
青果店のおかみに言われて、慌てて香林は自分の頬に手をやる。そのときはじめて、香林は自分が泣いていることに気付いた。
「あれ、おかしいな。なんで……」
「よっぽど怖かったんだね。よしよし。今日はうちにおいでよ。こんなところに一人でいるのはよくないからさ。ね?」
「はい……ありがとうございます……」
香林は、青果店のおかみの言葉に甘え、その日は隣の家で休んだ。翌日から警ら隊の調査が入り、店舗を修繕し、通常営業に戻ったが、嫌がらせをする男たちが来ることはなく、また助けてくれた男が現れることもなかった。
カララン
ドアベルがなる。
客が来て、客が帰る。
いつも通りの生活。
なのに、何かが足りない。
「そういえば、最近王さん見かけないねぇ」
「え、あ、そうですね」
あの事件のあと、心配してちょくちょく顔を出すようになってくれた青果店の夫婦が、香林の店先でお茶を飲みながら話をする。
「そうですねって、あーぁ。王の旦那もかわいそうに。あれだけアンタに入れ込んでたのに」
「いやいや、それでよかったんだよ。知ってたかい? 王っていえば、この辺りを仕切ってる組の総元締めの息子だったんだってよ。警らの奴らが言ってたよ。
案外、あの男たちも、王の手先だったのかもしれないね」
「あぁん? あぁ、そっか。いつまでもなびかない香林ちゃんにしびれをきらして、攫っちまおうってわけかい? はっ、情けない男だねぇ」
「やだ、そんな、まさか」
「そのまさかかもしれないよ。ほら、香林ちゃん、前、変な人につけられてる気がするって言ってた時期があったじゃないか。あれだって怪しいもんさね」
「私……そんなこと言ってましたっけ」
「言ってたよぉ。兄さんと出掛けるちょっと前だったかねぇ」
「兄さんと……」
香林は記憶をたどる。
兄と、出かけた。
それすら、覚えがない。わかっているのは、過去の記憶が、一月分ほどすっぽり抜け落ちているということ。
(私は……あのとき何をしていたんだろう……)
ぽりっ
ぽりぽりぽり
青果店の主人が。香林の出した菓子をおいしそうにかじっている。
「こら、アンタ。食べ過ぎるんじゃないよ。最近また腹が出てきてるだろ」
「うるせぇ。たまにはいいじゃねぇか。いやぁ、香林ちゃんの作る麻花は上手いねぇ。
油っぽすぎず素朴な味で、おふくろが子どもの頃作ってくれたのを思い出すよ!」
「あ、ありがとうござ……」
その瞬間。
香林の中で、何かがつながった。
麻花。
小麦粉を練って油で揚げた、昔ながらの菓子。
『麻花……』
あの、人。
あの夜、香林を助けに来てくれた男は、その日の昼間、香林の店で麻花を買った。
「麻花……麻花。
あれは……う……っ、頭が……痛い……」
香林は、後頭部をおさえてしゃがみこむ。
「香林ちゃん? 急にどうしたんだい!」
「頭? 頭が痛いのかい? 医者! 医者を呼べ!」
「いえ……平気……大丈夫……。
え、医者……。お医者様……。私、頭を怪我して……それで……」
『杏仁豆腐は……あるか』
『手、は』
『……うまい』
『徐々にもどるというなら、自然にまかせるのも手だろう。焦ることはない』
『傷に障る』
『す、すまない。俺は……』
「香林ちゃん!」
心配した青果店のおかみが、香林に駆け寄る。
そのおかみが来ている服の模様。大輪の赤い花が胸元に描かれている。
赤。赤い丸。赤い、月――
「私……私は……麻花……」
「香林ちゃん?」
香林が、突然がばっと立ち上がる。
「そうだわ、私……。菫さん……!」
「香林ちゃん、どうしたんだい、急に。
香林ちゃん? 香林ちゃん――!」
香林は駆けだす。蒸気に煙る、長空の街へ。
菫を、探して――
冷たい雨が降る――
(菫さんに初めて会ったのも、こんな雨の日だった)
香林は、今日も菫を探して夜の長空の街を歩いていた。
あの日、菫のことを思い出して以来、徐々に失われていた記憶がもどり、いまではすっかり空白の一か月間の出来事を思い出している香林である。
(小姐、店主さん……。私、どうして忘れていたのかしら)
香林は、親切にしてくれた店の人々を思い出す。
男性のような、女性のような、不思議な貸衣装屋。狐の耳をもつ装身具店の店主。やけに肝の座った、それでいて神経質そうな風貌の医者。そして――菫。
あまりしゃべる人ではない。
話しても、いつも一言か二言。あとは黙って、動作で示すことが多い。
それでも、その一言に、彼の優しさが滲み出る。
ぽつ、ぽつ……。
雨が降ってきた。
ザー……。
降り出した雨は、あっという間に雨脚が強まり、蒸気の町をさらに煙らせる。
「ん、もう」
香林は、自分の上着を傘代わりにして、家路を急いだ。この雨では、菫を探すどころではない。
道路が濡れ、跳ね返りで服の裾が濡れる。香林は足元に気を取られ、前をよく見ていなかった。
どんっ
夢中で走るあまり、誰かにぶつかった。
「きゃっ、すみません」
ぐらり
香林がぶつかった相手が倒れる。
「だ、大丈夫ですか」
香林は、相手を助け起こそうと手を伸ばして驚いた。
「菫さん!?」
その日、菫は店主にこう伝えた。
「組織を抜けたい」
「……本気かい?」
「あぁ」
「あの子のため?」
「……」
理由などいう必要はない。菫は無言で返したが、店主にはそれ以外にこの男が突然組織を抜けたいなどという理由が思い浮かばなかった。
「裏切り者には死を。
組織の約定を忘れたわけじゃないよね」
「裏切るわけではない。抜けるだけだ」
「同じことだよ。はぁ。あなたはもっと賢いと思ってたんだけど」
店主の耳が、ぴくぴくと動く。表情は冷静を装っていても、内心動揺している証拠である。
「ま、今のはさ、聞かなかったことにしてあげるよ。それがボクの答え。ね?」
ぷるるっ
耳が震える。
“聞かなかったこと”。つまり、黙認。協力はしないが、そのかわり積極的に組織に報告もしない。菫にとっては、それだけでもありがたかった。
「すまん」
「ん? 何? ボクは知らないよ。さぁて、今日の夕飯は何にしようかな」
店主が伸びをして席を立つ。菫はその背中に静かに目礼をすると、愛刀を片手に店をあとにした。
菫がNueve Colasを出て初めに向かったのは、王の屋敷だった。
菫が調べたところによると、先日香林をおそったのは王の手先であり、菫と香林が出会うきっかけになった傷を香林に負わせたのは、下町の娘に懸想する息子を案じた王の母親の手の者だった。
(息子を咎めるより相手を消そうとするあたり……下衆な輩だ)
菫は単身王の屋敷に乗り込むと、二度と香林に手を出せないよう壊滅状態に追い込んだ。次にむかったのは、王の母親の元である。こちらも脅しをかけ、余計な手出しをしない旨、誓約書を書かせた。
これで、もう大丈夫。
香林のため、成し遂げておきたかったことはできた。菫の所属する組織では、任務以外での力の行使を固く禁じている。これは、つまらない乱闘騒ぎなどから、素性がバレるのを防ぐためである。よって、私怨で一つの組をつぶすなど、組織に属したままではできないことだったから、無理とわかっていても抜けるしかなかったのだ。
菫は、安心するよう伝えようと、香林の店に向かう。
賑やかに行きかう人々。
いつもと同じ、長空の街。
ここまでは、菫の予定通り……のはずだった。
しかし、思ったより早く組織の手が回った。
人々の中に、するどい視線が混じる。
何気ない風をよそおった町人の中に、気配が読めない者がいる。
ぴりっ
首の後ろが、総毛立つ。
(これは……まずい)
菫は、香林の店に向かうのをやめて、細い路地へと身を隠した。
いくつかの影が、菫を追ってくる。
(香林……。最後に一目、君に会いたかった)
夕暮れが街を包むころには、菫は街の片隅に追い詰められ、逃げ場を失っていた。
「ぐ……。はぁっ、はぁっ」
追手を逆に仕留め、なんとか逃げおおせた菫はしかし、深手を負っていた。
冷たい雨が降り始めた街を、片足をひきずりながら逃げる。
バシャバシャバシャ
家路を急ぐ人々が、道路を走って行く。
どんっ
「きゃっ、すみません」
後ろからぶつかられ、菫がよろめく。いや、よろめいたのはぶつかられたせいだけではなかった。
この声は――
「菫さん!?」
香林だった。
香林が、菫の名を呼ぶ。
(記憶が戻ったのか? なぜ、こんなときに……)
「菫さん、怪我をしてるんですか!? ひどい、誰がこんな……」
香林が、菫の傷に気付き、心配そうに手を伸ばす。
「誰だ、おまえは。馴れ馴れしく触るな」
「菫さん?」
「去ね。おまえと俺は、何の関係もない」
「菫さん、何を……。何をおっしゃるんですか!」
香林の髪が、雨に濡れる。
俺になどかまうな。
風邪をひくじゃないか。
家に帰れ。
喉まで出かかった言葉を、菫は口にすることができない。
(香林を……逃がさねば。長居をすると、ここにも追手が来る……)
「娘。おまえなど知らぬ。とっととどこへでも行け」
「菫さん!」
香林の瞳に涙が浮かぶ。
菫はそれを見ないように目をそらし、足をひきずってその場を離れようとした。
「菫さん、菫……きゃあっ」
「!」
香林の悲鳴を聞き、菫は反射的に振り返る。そして――息をのんだ。
「はぁい、菫。男前になったわねぇ」
「おまえは……」
傷口を押さえながら、菫が声のした方を向く。そこには、香林を片手で羽交い絞めにし、片手には鉄扇を持った化粧師がいた。
「小姐、どうしてこんなこと」
「あら、麻花ちゃん、記憶が戻ったの?
ん、麻花ちゃんじゃなかったんだっけ?」
「本名は香林といいます。その節はお世話になりました」
「ふふっ 礼儀正しい子って好きよ。香林ちゃんね。こっちも素敵なお名前だこと☆」
化粧師は、片目をつぶっておどけてみせる。香林は、化粧師に拘束されながらも、相手が見知った人物であったせいか、さほど怖がってはいない様子だった。
「その手を、離せ」
「いやよぅ。離したらあなた、香林ちゃん連れて逃げるでしょう?」
「逃げはしないさ。追手がおまえだったという時点で、あきらめはついている」
「あら、そう? でもね、香林ちゃんも離すわけにはいかないの。彼女は……知りすぎたから」
「おまえ……」
何を、知りすぎたというのか。
隠れ家の位置か。菫の正体か。それとも組織に関わる面々か。
そのどれも、香林の意志で知ったものではない。いわば、不可抗力。
「悪いけど、あなたたち二人とも死んでもらうわ。天国で仲良くやってね」
ひらり
化粧師が、鉄扇を開き、要に結ばれた紐をほどく。
すると扇と思われたそれは、多数の刃物の束となった。
「菫、ごめんね」
「くそっ」
菫が化粧師に体当たりをする。化粧師は不意をつかれバランスをくずし、香林を手放した。
「こっちだ!」
菫が香林の手を引き走る。
「待ちなさい!」
化粧師の鉄扇の一部が、小刀となり空を切る。
「ぐはっ」
化粧師が放った小刀が、菫のふくらはぎをえぐった。
「菫さん!」
菫が路上に倒れ込む。香林は彼をかばおうと、大きな体の上に覆いかぶさった。
ひたり。
化粧師が近づく。
「香林ちゃん、どきなさい」
「嫌です!」
「さもないと、あなたも一緒に殺しちゃうわよ」
「どうせそのつもりじゃないですか! ならば私はここから離れません!」
「まったく、愛されてるわねぇ」
ふぅ。
化粧師が、溜息をついた。
「香林ちゃん、どいて。悪いようにはしないから、ね?」
「……小姐?」
香林の目が、戸惑いに揺れる。化粧師が一歩近づく。香林は、震えながらも菫にしがみつき、離すまいとがんばった。
「くすっ
もう、しょうがないわねぇ」
化粧師が、鉄扇をしまう。代わりに腰の刀を抜くと、香林と菫めがけて振り落とした。
「――!」
もうだめだ。
香林は目をつぶる。
菫さん。
あなたのこと、忘れててごめんなさい。
ようやく会えたのに、こんなことになって……。
菫さん……、菫さん……。
……。
……。
「……?」
ぎゅっと目を閉じていた香林は、何の衝撃もなかったことを不思議に思い、そっと目を開ける。
「小……姐……?」
香林が、化粧師を見上げる。化粧師は、菫の服の裾を刀で切り裂き、横を駆け抜けようとしていた鼠に刃を突き立て、その血をなすりつけていた。
「こうでもしないと、ごまかされてはくれないわよ」
「小姐……」
香林の目に涙が浮かぶ。
小姐は、やはり優しい人だった。私たちを、助けてくれようとしている。
「う……」
失血のため、一瞬気を失っていた菫が、意識を取り戻す。
「菫さん! 大丈夫ですか? 今、小姐が」
香林は、菫を助け起こしながら化粧師のことを説明しようとする。
「私たちを助け……小姐?」
香林が、菫のほうに気を逸らしたのは、ほんの数秒だったはずだ。
けれど、再び化粧師の方を向いたとき、すでにそこに彼の姿はなかった。
「え……」
「行ったか……」
ザー……
雨は足跡を消し、もはや彼がどの方向へ去ったかさえ、わからなかった。
カララン
ドアベルがなる。
「いらっしゃいませ!」
香林の元気な声が、長空の街に響く。
「いよぅ、香林ちゃん! ……と旦那」
「……」
じろり。
今日の分の果物を持ってきた青果店の主人を、今は考升と名乗っている菫がにらむ。
「考升、そんな顔しちゃだめ! ほら、笑って!」
香林が、菫の頬を左右にひっぱる。
「香林ちゃん……。そんなおそろしいこと、しなくていいよ」
「え? そうですか? 考升、笑うとかわいいんですよ」
「かわ……?
そんなこと言えるの、香林ちゃんだけだって。ま、仲良くやってるようでいいけどね。ごちそうさま」
「? まだ何もごちそうしてませんけど」
「はははははっ
そういう意味じゃないよ」
青果店の主人が笑う。
香林はますますわからないという顔をし、菫は己の頬をひっぱる香林の手をはずすと、ぽんと頭を撫でた。
「なぁに?」
「いや、なんでもない」
きょとんとした顔で見上げる香林に、つい菫の頬がゆるむ。
「おや、まぁ。ほんとだ、笑った」
「ね、かわいいでしょう?」
「かわいいかどうかはともかく、いいもん見せてもらったよ。
末永く仲良くおやりよ」
「はい!」
カララン
カララン
長空の街に、軽快に鳴り響くドアベルの音。
青果店の主人が言うように、二人はいつまでも仲良く暮らしたとさ――
FIN.
***出演***
菫 考升:クラウス・アルムスター
麻花,李 香林:コレット・ラヴィネル
化粧師:BB
Nueve Colas店主:ゾロ・プテアラード
医師:ロイ・クストーデ
その他:エキストラのみなさん
☆BBはsho-ko様より、ゾロさんは水居様より、ロイさんは鳥越様よりお借りいたしました。皆さまありがとうございました。
☆ゾロさんについてもっと知りたい!という方は水居さんのお話「幸運の尻尾」(http://ncode.syosetu.com/n4599bc/)へどうぞ!
☆長空、朔月の設定は、タチバナナツメ様主催企画「ティル・ナ・ノーグの唄」(http://tirnanog.okoshi-yasu.net/)によるものです。




