与力尾上介三郎 3.首無し死体は何を語るか
与力尾上介三郎
3.首無し死体は何を語るか
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「それでは、この強盗事件は、かなり裏がありそうだという事だの」
北町奉行が、与力の尾上の報告を聞いて、ため息をつく。
「さようでございます」尾上が答える。「最初はまあ凶悪ではあるけれど、通常の強盗事件として捜査に当たれば良いと立花も言っておったのですが、聞けば聞くほど、不思議な点が見えてきました。何よりも、下女の一人が首なし死体で発見された事です。それに、その前日に実家に帰ってきていたお嬢様が、この強盗事件以来行方不明になっております。このお嬢様は、幕閣の中でも高い地位に就いている大名の家老に見初められ、特に望まれて嫁いだという方で、そんな方が行方不明では、奉行所は何をしておるというお叱りがくるはずなのに、そのお大名は、奥方様が行方不明という事すら認めない状況で」
「それは体面を考えれば理解できないでも無いが」奉行がいぶかしむ。
「しかし、話を聞きに行こうとして、門番に「どなたかに目通りを」と願い出たのに対して、「町方の知った事では無いわ」と門番を通じて、けんもほろろに断ってきたのは、ただの体面の問題だけでは無いような感じであったと、立花は申しております」
「これは影奉行の出番かな?」奉行が言う。「お大名と豪商が絡んでいるとなれば、通常の奉行所の枠の中では手を出せまい。ご老中にも話は伝えておく。慎重の上にも慎重にかかってくれ」
「承知いたしました」尾上が胸をたたいて答える。「何か大きな問題が裏に潜んでいるような気がします。かならず、それを明らかにして、裁かれるべき者がおればきっちりと仕置きをし、しかも表沙汰にならぬように取り計らいます」
「よろしく頼む」奉行が答える。「配下の者たちによろしく伝えてくれ」
「刑場以外で首無し死体に出会ったのは初めてでございますが」佐吉が言う。「だいたい首を切って隠すというのは誰であるか分からないようにするという事だと思いますが、この場合、他の下女は皆無事でございましたから、首無し死体が残りの一人、お嬢様付きの下女である事ははっきりしているわけで」
「分からんぞ」立花が言う。「お嬢様が行方不明になっておる。首無し死体がお嬢様で、居なくなったのがそのお付きの下女だという事も考えねばならぬ」
「それが、私もそう思ったんで。しかも死体の手足を見るとあまり家事をしているような感じでは無かった。それで近江屋に訊いてみたのですが、お嬢様付きなので、あまり家事はさせていないということで。しかも、近江屋は、この死体は娘では無いと言うんでさあ。近江屋が、首が無くても娘なら身体を見れば分かると言うので、それ以上追求はしなかったのですが」
「近江屋が嘘を突いている可能性も無い事はない。」尾上が言う。「しかし、もし嘘をついているとしたら、なぜ嘘をつく必要があるか説明できなければならんな。それになぜ下女の着物を着ておったかという事も納得できる理由が必要だ。佐吉、殺されてから着替えさせられたという可能性はあるか?」
「いや、あの死体の状況から見て、あの服を着ている時に殺されたと見るのが順当でしょうな。殺してから着替えさせれば、血の付き方がああはなりません。もっと服や畳が血だらけになるはずです」
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「その後、近江屋を見張っていた所」佐吉が言う。「おかしな事に気がつきました。なぜか近江屋は、お金に困っているわけでも無いのに、いろいろな所からお金を借りているばかりで無く、売掛金の回収はできる限り早める。未払いの仕入れ代金はできる限り払いを遅くするということをやっております。しかも、それが近江屋の金だけでは無く、例のお大名の勘定でも、多大の借入をして、小判を集めているらしいのですが、何かあるのでしょうか」
「不思議だの」尾上がいぶかしげに首をかしげた。「資金繰りに困っているわけでは無いのだな」
「ええ、それは商売の方は順調のようでございまして、近江屋の奉公人の何人かから裏を取っております。なお、奉公人たちも、必要も無いのになぜ借金をしているのかいぶかしんでおります」
「その件、とりあえずお奉行様には話しを通しておく」尾上が言う。「なにか裏がありそうな気がする。それが、今回の強盗事件にどのような関わりがあるのかは分からんが」
「お奉行とご老中から呼び出されての」尾上が言う。「この前の近江屋の借金の件についてお奉行様に報告した所、その途端にお奉行が顔を真っ青にして、ご老中に会いに行かれた。呼び出されて行って見たら、ご老中直々にその件について質問をされた。もちろん佐吉から訊いた以上の事は拙者も分からないので、あまりまともに受け答えできなかったのだが、かなり重要な話しらしく、ご老中の顔も真っ青であった。この件、もっと詳しく調べるように厳命を受けたが、その後、この件について何か分かった事があるか?」
立花も佐吉も、なぜお奉行やご老中が、そんなにこの問題を気にしているのか分からないので不思議には思ったものの、首無し死体事件の捜査に関する事でもあるし、どちらにせよ近江屋とその娘の嫁いだ先のお大名を調べるのは、当然しなければならない。
「この事件に関していろいろ調べていた所、近江屋のお嬢様が実家を訪れた理由があるはずだという事になりました。実家へ帰るのが決まったのが余りに突然で、店の者が驚いていたという話を聞きました。しかも、帰ってきてすぐ、父親とかなり重要そうな話をしていたらしいということです。人払いをされて、どんな話か誰も知らないのですが、かなり深刻な顔をしていたという事です。そしてその次の日の強盗騒ぎですから、これは一つながりの話しで、しかも、その前段がありそうです」
「前段?」尾上がいぶかしむ。
「ええ」佐吉が言う。「あの強盗事件の前、一ヶ月ほど、近江屋がそのお大名の屋敷に足繁く通っていたそうで、何か打ち合わせをしていたのでは無いかと思われます。しかも、前に言った借金騒ぎは、その頃から始まったようなんです」
「お奉行やご老中は何かご存じですよね」立花が言う。「それを私どもに秘密にされているようですが、そこを話して頂かないと、こちらも、捜査が的外れになるのでは無いでしょうか」
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「これは幕閣の中でも最も中枢におる者しか知らない極秘のはなしであるから」お奉行が宣言する。「以後、ここで聞いた事については他言を禁ずる。ただ、お主たちは他言しないであろう事を確信しておるので、言う必要も無い事だが」
「へえ、決して他に漏らしたりはいたしません」佐吉が言う。
尾上や立花が他言を禁ずると言われた事を漏らすはずが無い事をお奉行はご存じだから、これは自分に言われたのだと佐吉は思って言ったのだが、奉行は笑って受け流す。
「佐吉」お奉行が言う。「お前が漏らすとは思っておらん。心配するな」
奉行所の奥深く、誰にも聞かれる心配の無い部屋で、四人はひそひそ話が出来るぐらいの近さで顔を見合わせている。
「実は近々小判の改鋳が行われる」奉行が言う。「皆も知ってのように、小判は時々改鋳されて、時代と共にだんだん小さくなってきておる。最初の慶長小判から始まって、現在の小判は金量からすれば、大分少なくなっておる」
「それをさらに少なくしようという話しですか」尾上が訊く。
「そうだ」奉行が苦々しげに言う。「それも三分の一に減らす」
「三分の一ですか」立花が言う。「三分の一減らすのでは無く、三分の一に減らすという事ですね」
「そうだ。それがどんな大きな影響を庶民の生活に及ぼすかを考えれば、どれぐらい大変な話しか分かるだろう」
「それと近江屋の話しとはどうつながるんで」佐吉が訊く。
「いいか。小判の金量が三分の一になる事が分かっていれば、借金をしてでも小判を集めておくべきだという事は分かるな」
「小判の改鋳後に返済する時には三分の一の金で済むという事ですか」尾上が納得したように言う。
「その通りだ」お奉行が言う。「借金の証文には金の重さでは無く、金百両とか小判の枚数で書かれているからな」
「これを決めた時」奉行が言う。「そんな事が起らないように、絶対に秘密にすることと、その決定に関与した者は絶対にそのような取引をしてはならないと決めた」
「しかし、それを漏らした者がいると?」尾上がつぶやく。
「そうだ」お奉行が苦々しげに言う。「これまでただ家老と言っておったが、実は大藩の家老で、そこの藩主は幕閣でも私たちより上の立場にいる。その藩がそんな事をするというのは許しがたい。近江屋はその取引を行うための手駒であろう」
「これから庶民にとって大災害とも言えるような事がおこる」お奉行が言う。「それなのに、それを利用して私腹を肥やすことしか考えない者が、しかも幕閣の中心にいるという恥ずべき事態だ。多くの武士や脱藩浪人たちの間で倒幕の企みも兆しを見せている中、幕閣がこんな状態ならば、幕府も先は長くないかも知れん」
「しかし、三分の一に改鋳などということがなぜ決まったんです」佐吉が訊く。「その人たちが儲けたいから決めたというわけではないですよね」
「それはもちろんだ」お奉行が言う。「この件についてはご老中から説明を受けておる。話しはドルラルと我が国のお金との交換に関する取り決めから始まった。アメリカの領事のハルリスが、一ドルラルを三分と主張したのに対して、我々は一ドルラル一分と主張した」
「ずいぶん差がありますね」佐吉が呆れたような声を出した。
「ハルリスの主張は、一分銀三枚と一ドルラル銀貨との銀量が一緒だから一ドルラルは三分という主張だ」
「それは正しいんですかい」佐吉が訊く。彼はもちろん、尾上も立花もドルラル銀貨など見たことも無い。
「一ドルラルと一分銀三枚が同じ銀量だという事は間違ってはおらん」
「それじゃあハルリスの主張が正しいということですか」尾上が訊く。
「それがそうでは無い」奉行が言う。「それまでも長崎での交易などで一ドルラルは一分で交換されていた。その理由は長崎奉行が詳しく説明をした」
「どういうことなんで」佐吉が言う。
「金と銀とどちらを基準に考えるかという事なのだ。仮に一ドルラルを一分銀三枚と交換するとしよう。四ドルラルは一分銀十二枚に変わるな? これは小判三両だ」
「へえ、その通りで」
「その三両をアメリカに持ってゆくと、十二ドルラルで売れる」
奉行を除いた三人が唖然とした顔をした。
「一度の渡航で三倍になるということですか」尾上が確認する。
「そうだ」奉行が答える。「そうならないためには一ドルラルを一分銀一枚という交換比率にする必要がある」
「じゃあ、そう言えば?」
「それがよく分かっている勘定奉行や長崎奉行は、異国との交渉をすることができるような高い地位ではないと退けられた。位だけは高い連中が分かりもしないのに交渉をしたのさ。自分でもよく分かっていない理屈でハルリスに対抗できるわけが無い。どうもハルリスも一ドルラルは一分という幕府の主張が正しいことは分かった上で、自分の利益のために無理を通したのではないかと私は疑っておる」
「それで改鋳ですか」尾上が納得がいったように言う。
「そうだ。すでに小判が大量に外つ国に流れておる。これを防ぐには小判を三分の一に改鋳するしかないという苦衷の選択だ」
「なるほど、お金の交換比率という外交交渉の失敗がこのような事態を生んだわけですな。分かりもしない者が地位が高いというだけで交渉に当たったら失敗するのは目に見えていますな」
「分かる者に担当させるという当たり前のことが出来ない制度の中で、ご老中も苦悩しておられる。その中でもご老中は、地位は低いが能力のある者を抜擢して、頑張っておられる。しかしそのようなご老中の足を引っ張る者も幕閣には多い。この激動の時代に、何をやっておるのだというのが偽らざる思いだ」
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「それで近江屋を呼んで詮議をしました」尾上が言う。「ご老中が後ろに突いているのでは、さすがの近江屋の黒幕になった某藩家老もあまり無理は言えなかったようで、事情はだいたい分かりました」
「いやご苦労であった」奉行が集まった皆に声をかける。横でご老中も頷いている。
首無し死体事件の真相が概ね分かった時点で、影奉行所の面々は、ご老中の屋敷に呼ばれた。事件の概要を確認して、今後の方策について話し合うことになったのだ。
「順を追って話させて頂きます」立花が書き物を見ながら報告する。「この事件の始まりは、近江屋のお嬢さんが、ご主人の動きに不審の念を持ったことから始まります。何が問題かは良くは理解できていなかったようですが、ばれれば切腹ものの悪行をしていることに気がついて、近江屋へ帰って父親に相談したようです。」
「なるほど」奉行が頷く。「まさか自分の父親がその悪行の片棒を担いでいるとは思わなかったのだな」
「左様で」尾上が話を続ける。「近江屋はびっくりして家老に連絡する。家老は近江屋と謀って妻を屋敷の座敷牢に閉じ込めることを考えた。しかし、急に奥方がいなくなっては不審がられるというので、強盗騒ぎを起こして、妻が殺されたと見せかけて、屋敷に連れ帰るよう近江屋と打ち合わせをしたようです。そのために奥方と下女の服を取り替えておくようにした。つまり実際には下女を殺して、しかし殺されたのは奥方であるように見せかけるためですね」
「しかし、奥方が服を取り替える事に不審は抱かなかったのか?」奉行が訊く。
「娘には、危ないので身を隠すのだと言い聞かせ、下女に化けて家を出ると言ったらしいのです。それで打ち合わせ通り、藩の武士が六、七名強盗に扮して近江屋に押し入ったのですが」
「殺されたのは奥方であったという事だの?」ご老中が口を挟む。
「ええ、家老は最初からそのつもりだったようです。しかし近江屋は、やはり自分の娘が殺されるのを黙って見ているほどの覚悟は無かったということです。首無し死体が下女の服を着ていたのはそういう理由ですが、裏切られたと思った近江屋は、奥方付きの下女を遠くの親戚に預け。いざという時の証人として隠しておいたようです。どうもトカゲの尻尾切りをされるのでは無いかと思い、その時には一蓮托生で家老を巻き込むつもりになったようです」
「その下女は?」お奉行が訊く。
「既に押さえて詮議も済んでおります」立花が報告する。「近江屋のいう事と概ね一致しておりますので、まずそれが真相かと」
「しかし、奥方を殺したものの、表向きは、死んだのは下女、奥方は行方不明という形になってしまった」お奉行が言う。「それでも奥方の口を封じることの方を優先したという事だの。後は奥方は強盗に連れ去られたということにして、探すふりをするぐらいか」
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「結局、例の藩主には、はっきりとした罰を与えることは出来なかった」ご老中が苦々しげに言う。「脅し上げて、顔色を変えさせるのが精一杯だった」
「しかし、その後、そのような動きが止まったのは、その脅しが効いたからでしょう」尾上が慰めるように言う。
「例の件が商人たちの間に漏れている。かなり問題になってきている。誰が漏らしたのかは知れませんが、この世情で、我々が襟を正さないと、ちまたで倒幕を叫んでいる者たちに格好の言訳けを与えることになる。今、京都やこの江戸で、事態は幕府の役人が暗殺されるというところまで来ている。今は目明かしや同心、与力という所だが、これが大名にまで広がらないという保証は無い。幕閣の皆様も心して用心されるように」
「そう脅し上げたのですな」お奉行が笑う。「しかも、その本人の方を向いて」
「まあ名指しこそしなかったが、皆、誰のことか気はついているようだった」
「近江屋は遠島」お奉行が言う。「まあ磔獄門という事になると、近江屋が何を言い出すか分からない。自分に飛び火しないように大分無理をして、遠島にまで持って行ったというところか」
「しかし、幕閣の中心がそのようでは、今後が心配ですな」尾上が言う。「本当に暗殺の対象が大名にまで広がらないという保証はありません。というか、実際いくつかの陰謀はつかんでおります」
「影奉行がよく働いてくれるので、我々も心強い」
事件に一応のけじめがついたので、ご老中が自分の屋敷で皆を慰労してくれている。
「しかし」尾上が言う。「彼らの困った所は、意志や誇りはあっても、誤った考えを持ったまま、その考えに基づいて行動を決めることだ。幕府の役人はすべて悪、勤皇の志士はすべて善。幕府の中も、ご老中のような方もおれば、あの男のような者もいるということが分かっていない」
「そこが問題なのです」お奉行がご老中の方を向いて言う。「彼らにとってはご老中のようにこの日本にとって無くてはならない方も、あの男と同じにしか見えておりません。そのような連中にとっては、ご老中も暗殺の対象になっております」
「まあ、仕方ないな」ご老中は決然と言う。「この国に命を捧げる覚悟は、老中に就任した時から持っておる。ただ無駄死にはしたくないな」
「させません」お奉行が言う。「私が北町奉行で居る限り、ご老中には絶対に手を触れさせません」
「それは心強いことだ」
「しかし、幕府が腐っているから倒幕して、政を帝の手に戻すといっている奴らは何を考えているのでしょう」尾上が言う。「これまで幕府に押さえつけられていた彼らが政を始めたらどんなことが起こるか分からないのでしょうか?」
「分からんだろうな」ご老中が言う。「外つ国の歴史を書いた資治通鑑などを読んで政を論じておるが、幕府から帝に政が移ったらどういうことが起るか我が国に先例があることは知らない。そんな頭でっかちの連中は太平記を読んだことは無いのではないか?」
「あ」佐吉がびっくりしたように声を上げる。「そう言えば、私も寄席で太平記読みの話を聞いたことがあります。今の今までそれを今の日本に当てはめて考えることがありませんでしたが、まさにそうですね。あの時に起ったことがもう一度起るのなら、この国は滅びますね」
「そうだ」ご老中は苦痛の表情で言う。「あの時より悪い。あの時には外つ国の圧力は無かった。元寇の危険は一応終わっていたからな。しかし今回は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアとこの日本を虎視眈々と狙っておる最中だ」
「外つ国に支配される事になりかねないという事ですな」
「そう言えば、知り合いに土佐郷士の方がいるんですが」佐吉が思い出したように言う。「土佐郷士は元は長宗我部家の武士で、関ヶ原で負けて、土佐をもらった山内家の下でずいぶん虐げられてきたという話を聞きましたが、日本の帝以下すべての人が、今の土佐郷士みたいに外つ国の支配の元で虐げられるようになるという事ですか?」
「ああ、それはよく分かる喩えだな」ご老中が言う。「一歩間違えれば、日本のすべての者が土佐郷士のような立場に立たされるようになる。勤皇か佐幕かなどと言いあっている時では無いのだ。それなのに」
「ご老中」お奉行が声をかけた。「余り思い詰められませんように。たとえまかり間違って外つ国に支配されるような時代になっても、心ある人々がいる限り、それで終わりではありません」
「そうだの」ご老中が何かを思い出したように付け加える。「宗門改の件に関して調べていた時に、耶蘇教の教えに関して幾らか調べたのだが、その中にエキソダスという話があった」
「エキソダス?」佐吉が訊く。「それは何です?」
「昔、耶蘇教が生まれた国の住民が、エジプトという国で奴隷になっていたのだが、モーセと言う人に率いられてエジプトを脱出し、彼ら自身の国を作り上げたという話しだ」
「なるほど」尾上がうなずく。「今、我が国に必要なのは、そのモーセという男みたいな指導者ですな」
「そうだの」お奉行が言う。「幕府か帝かではない。誰がその政の中心になるかだ。今でも日本の政の道筋を決めているのはお上では無い。帝が政を見るようになると言っても、実際に政の道筋を決めるのは、長州か薩摩の誰かということになろう。その男がどういう男であるかによって、日本のこれからは大きく変わる。望むらくは、無能で自分の欲を満たすことにだけ熱心な者でないようにということだな」
「今のようにですか」ご老中が苦笑いしながら訊く。
「ご老中も人が悪い」お奉行が笑う。「あえてそれを言わなかったのに、わざわざご老中がそれを言われるとは」
「まあ私も、今回のことで呆れているしな」ご老中が嘆く。「位階勲等というものがある。それがこの日本の政にどれぐらい害悪を流していることか。今回の改鋳騒ぎでも、長崎奉行か勘定奉行が外交交渉にあたれば、何も問題は起らなかった。それを妨げているこれまでの先例を崩すためには、一度幕府を解体した方が良いのかもしれんな」
「しかし」ご老中が言う。「今は我々は我々が出来ることに全力を尽くすことだ。今回の影奉行の働き、うれしく思う。今後ともよろしくお願いしたい」
ご老中の心の底からの叫びにも似た言葉に、そこに居る者すべてがただ平伏するしか無かった。
(完)




