与力尾上介三郎 1.影奉行
与力尾上介三郎
1.影奉行
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「許せん」尾上が大きな声を上げた。「佐吉、今の話し、真であろうな」
ここは尾上の屋敷だから、大声を上げようが何をしようが外に漏れる事は無いが、それにしても、いつもはにこやかで菩薩の介さんと呼ばれている尾上にしては珍しい怒り方である。多分、尾上の家族もびっくりしている事であろう。同心立花格之進も、目明かし佐吉も唖然としている。ただ、二人もこの件にはものすごい怒りを感じており、尾上がその怒りを共にしてくれた事をうれしく感じている。
「今の話し、一切誇張はございません」佐吉が答える。「まさにお話ししたとおりの非道な行いでございまして、大藩の江戸家老とも思えぬ所業に、まったく呆れ果てた次第でございます」
「この件、佐吉と一緒になって調べて参りましたが」立花が怒りを込めて言う。「まことに天をも恐れぬ所業とはこの事かと」
「武士は奉行所の管轄では無い」尾上は言う。「しかし、我々には町人を守る役割が与えられておる。武士が町人に理不尽な振る舞いをしているのを黙ってみているわけには行かん」
「どう計らいましょうか」佐吉が訊く。
「本来の筋を通せば、お奉行様が老中に報告し、それから幕閣でお取り調べをする段取りではあるが、どうせお取り調べのなんたるかもご存じない大名の方々がする事で、らちがあくとも思えない。お奉行様から証拠も添えてお話しするしかない」
「つまり、捜査は我々がしなければならないということですな」立花が言う。
「そのとおりだ」尾上が苦々しい口調で言う。「それもその藩から苦情が出ないように隠密に行動する必要がある。場合によってはお家お取り潰しにもなりかねないような案件だけに、奉行所が探っていると分かった途端に、「奉行所が我が藩士を探るとは越権行為であろう」とくちばしを挟んでくる」
「やりにくいですな」佐吉が言う。「もし見つかって奉行所に文句が来たら、トカゲの尻尾切りですな」
「まあ、お奉行にまでは責任を及ぼすわけにはいかんが、私はお前たちを切り捨てる事はせん。何、いざとなったら腹を切る覚悟ぐらいなくて与力は務まらん」
「いや、尻尾切りされるのがいやだと言っているのではございませんよ」佐吉が周章てて言う。「むしろ、目明かし風情が勝手にやった事で、奉行所としては一切関知しておらんと言って頂いて結構です。私にだって、なんでしたかね。そう一寸の虫にも五分の魂という奴でさあ」
「いや、佐吉だけを切り捨てて逃げるような事はせん」立花も言う。「俺も一蓮托生だぞ。屍は尾上殿に拾ってもらおう」
「そうですな」佐吉が笑う。「知り合いの伊賀同心が「隠密は死して屍拾う者なしという覚悟で働いている」と言っておりましたが、それよりはましだ」
「要するに今回が初めてではないという事だな」尾上が訊く。
「そうなんでさあ」佐吉が怒りを含んだ声で答える。「今回は水戸屋のお嬢さんですが、その前にはある藩のお姫様。その他、普通の職人や商売人の娘を合わせると両手の指で足りないという次第で、しかもお姫様、お嬢様の場合にはそれなりに手間をかけて準備をしておりますが、普通の町娘の場合など、その手間を省いて、無理矢理拉致して小判を数枚放り投げて行くという荒っぽさで」
「なぜ、これまでそれが発覚しなかったのだ」尾上が不思議そうに訊く。「最初の事件などもう半年以上前ではないか」
「よほど親に脅しをかけたんでしょうね」立花が答える。「佐吉と二人で噂を頼りに回ってみたんですが、誰も彼もが尻込みをして、本当の事を聞き出すのにずいぶん骨を折ったのですが、佐吉が上手く尋問してくれまして」
「いえ、立花様のおかげでして」佐吉が苦笑いをする。「立花様があんなに口説きが上手いとは初めて知りました。あれなら女を口説く時もさぞやなんて思ったりしましてね」
「なるほど」尾上が笑う。「佐吉がきつく出て、そこに立花が優しく声をかけるという作戦だな。中々良い組み合わせだ」
「へえ、何となくそういう役回りが決まってしまいました」佐吉がぼやく。「逆にして欲しかったですけれどね」
「そうだの」立花が笑う。「別に逆でも構わないはずだが、自然にそうなってしまったな。良い方の役をさせてもらって済まんな」
「いやまあ、その分何かおごってもらいたいなんて考えておりませんから」
「おい、立花」尾上が佐吉の言葉の裏を読んで笑う。「佐吉がその代わりに何かおごれと言っているぞ」
「そうですな」立花は笑って答える。「ではちょうど良い時刻だし、今から三人で食事にでも行きましょうか。今日、伊勢源は鴨鍋があるそうで」
「ああ、それはいいな」尾上は言いながら立ち上がる。あわてて佐吉も立ち上がった。
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「水戸屋の件は一応裏がとれました」立花が言う。「水戸屋の借金の証文に、払えなかった場合、娘を差し出すと書いてあるので、その通りにしただけだという言い訳が立つようにしてありました」
「ただ、もう少し遡ってみると、話しが違ってくるんでさあ」佐吉が付け足す。「まず、なぜ借金をしなければならなかったかと言う事なんですが、実は例の家老と佐賀屋がグルになって、裏で水戸屋の商売の邪魔をしていたので、水戸屋としては仕入れの資金にさえ困るようになってきていたんです。そこへ佐賀屋が水戸屋に大きな商談を持ちかけているんで。水戸屋はその仕入れするには少し金が足りなかった。もちろん佐賀屋はそれを知った上で商談をしているわけですが、「自分が出入りしている藩で金の運用先を捜しているご家老がいる。そこに話しを持って行ってやる」と言って、その家老の邸宅へ佐賀屋が水戸屋を連れて行ったんでさあ。そして借金の証文を書かせたんですが、そこに払えなければ娘を差し出すという文言を入れたんです」
「もちろん水戸屋は難色を示したのですが」立花が話しを引き継ぐ。「家老は、笑って「勿論冗談に決まっておろう。佐賀屋との取引が終われば、この借金は返せる事間違いないのだから、心配する必要はあるまい。ただの座興だ」と言って、丸め込んだらしいんです」
「その上で、佐賀屋が注文を取り消したのだな」尾上が確かめる。
「へえ、それがあまりにひどいんで」佐吉が言う。「納品の時に、これから納品しに行きますと番頭を言いにやったら、何のことだとけんもほろろで」
「商談は無しにするじゃあないので」立花が怒る。「そんな商談はした事も無いという一点張りで。勿論最初から水戸屋を陥れるのが目的ですから」
「そこで始めて、注文の証拠が無いと言う事に気づいたんだな」尾上が言う。
「そうなんでさあ」佐吉が言う。「注文について一切文書を残していないんです。水戸屋もまさかそんな思惑があっての事だとは思っていませんでしたから、いつものように口約束だけで」
「例のお姫様が身請けされたのも同じ手口のようです」立花が苦々しい口調で言う。
「それで、その身請けされた娘たちはどうなっているのか」尾上が訊く。
「へえ、それをこれから見てこようと思っております」佐吉が言う。「尾上様は知らなかったということにしておいて下さい。下手をすると、ちょっとややこしい事になりますので」
「それで、例のセンセーにご助力頂こうと思っておりまして」立花が言う。
彼がセンセーと呼んでいるのは佐吉の知り合いで、砂絵描きという大道芸で食べている浪人で、なめくじ長屋という最下層の長屋に住んでいる。実は、このセンセー、なめくじ長屋の連中を上手く使っての裏家業があるらしい。こういった御法度すれすれの捜査などでは非常に役に立つ人物で、佐吉はこれまでもいろいろと一緒に働いているようである。立花や尾上もそこは良くわきまえていて、彼らを上手く使いこなしている。
「まず、佐吉とマメゾーに屋敷に密かに入り込んでもらって、見てきてもらおうと思っております」立花が言う。「かなり荒っぽいですが、そうでもしないとらちがあきませんので」
「そうだの」尾上がうなづく。「それしか無かろう。まあ、佐吉とマメゾーなら、そうドジは踏むまい」
マメゾーは、なめくじ長屋の住人で、軽業や手品を得意としている大道芸人である。この二人は忍びの術の使い手で、佐吉がたまたま知り合った伊賀同心から習ったものをマメゾーに伝えたという経緯がある。
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例の家老の屋敷の塀をセンセーが見つめている。門がある通りではなく、塀の端から端まで見渡せるが、人の目は時々通る通行人しかいない。
今朝早く、まだ暗いうちに佐吉とマメゾーが塀を乗り越えて屋敷に潜入し、今頃は床下に忍び込んで探っているはずだ。何かあった時のために、通行人からは見えない所に長屋の連中を配置している。
「センセー」用水桶の影から長屋の住人の一人ユータが家をかけてくる。「あの二人は大丈夫ですかね」
「まあ二人の事だ。一日潜んでいても屋敷の者には見つかるまい」センセーが独り言のように言う。「まるで講談の忍者その者だの。まあ、夜になって出てくるまで待つしかあるまいよ」
ちょうどその頃、庭で屋敷の奉公人たちが何かの準備を始めた。床下からそれを見ている四つの目がある事には気づいていない。
「今日はどんな趣向だ」一人が訊く。
「首枷を庭に準備をしておけとの仰せだ」もう一人が答える。
庭に打ち付けられている二本の柱に、首枷を取り付けている。柱その物はずっと立てられたままである事は、マメゾーと佐吉は昨夜のうちに既に確かめている。それと少し離れた所には刑場で使われるような磔柱を据え付ける穴があり、その時には柱が立っていた。使う時には柱を外して、罪人を縛り付けてから再び立てるのだろうが、武家屋敷の中にあるというのが異様であった。
床の上で人が近づいてくる足音が聞こえた。足音から判断するに六、七人であろうか。ちょうど彼らの潜んでいる所の少し前、縁側の上に誰かが座る音がした。
「よし初めよ」威張った声が聞こえる。これがたぶん家老の声だろうと思われる。
「今日は楽しみにして参りました」年配の武士らしい声が家老に話しかけた。「上玉を手に入れたと聞いているが」
「いや、その二人は今日はここで見学させます」家老が卑猥に笑う。「次に自分がどんな目に遭わされるのかしっかり見ておいてもらおうという趣向で」
「なろほど、それは面白い」別の声が口を挟んできた。「羞恥と恐怖に震える様が見られるわけですな」
どうやら、いかがわしい出し物が企画されているようである。それを家老が招いた数人の武士が楽しむらしい。やりとりを聞いていると、一年ぐらい前から月に数回程度の頻度で行われている事、お客は時々新顔が入ってくるが、ほぼ固定されている事、金銭のやりとりがある事などが分かってきた。その出し物のために、詐欺まがいの事をして生娘を集めているようである。佐賀屋の声がする所を見ると、彼も家老と結託してこの件にかんでいる事は確実である。
「二人を連れてこい」家老の声がする。
少しして、家来が二人の娘を連れてきた事が気配で分かる。家老は二人を自分の横に座らせて、ご満悦のようだ。
家老が娘二人に言う話からして、娘たちは屋敷の中の座敷牢に閉じ込められており、ここに連れてくるに当たって逃げだそうとしないように後ろ手に縛られているらしい。
そこに振り袖を着せられた娘が引き出されてきた。後ろ手に縛られて、縄尻を持った武士に追い立てられるようにして入ってくる。佐吉やマメゾーからよく見える位置にあるござの上に正座させられている。
「なかなかの上玉ですな」さっきの武士の声が言う。「まあ、ご家老の隣にいる二人とは比べものになりませんが」
「では、今日の詮議は貴殿にやって頂きまする」家老が言う。「存分に慰み者になされよ。我々を充分に楽しませて下され」
「では、まずこのものの縄を解いて、あの枷に拘束せよ」
縁側から庭に降りてきたせいで、佐吉やマメゾーからも侍の姿が見えるようになった。どこかの藩のかなり身分の高い武士のようだ。多分、家老より地位は上であろうか。藩主か、既に家督を息子に譲って藩主という堅苦しい立場を捨てて、楽隠居をしている者のようである。先ほどの彼らの会話では、符牒で「せん様」と呼ばれている。仙台の仙か、仙石の仙か? まさか泉州の泉ではあるまい。
家来たちが娘を立たせると、振り袖のまま、首枷に固定した。顔がこちらを向いているので、娘が羞恥に身もだえしているのがはっきり分かる。口には手ぬぐいで猿ぐつわをされている。まあ、武家屋敷で庭は広いと言っても、あの場所で騒がれては塀の向こうに聞こえるであろうから、用心をしているのであろう。床下の二人からは真横から見る形になる。
せん様は、娘の後ろに回ると、振り袖の裾をまくり上げた。尻が丸見えになった。彼らの所からは見えないが、娘の秘所が真昼の太陽の元にさらされている事は分かる。せん様は卑猥な顔をして、そこに近づき、その花びらを指でなぞった。
そこに佐賀屋が降りてきて、せん様に乗馬の鞭を渡した。ついでに娘の秘所を指でなぞってから、元の席に戻る。せん様は受け取った鞭を娘のさらけ出された尻に振るった。娘がのけぞる。ただ、枷で首と両手を拘束されているので、それほど大きくは動けないし、悲鳴も猿ぐつわのせいでくぐもった声しかならない。
気絶するまで鞭を使ってしまっては後が面白くないという事なのだろう。鞭で一回打っては、娘が次を予想しておびえているのを楽しんでいる。そして娘が息をついた頃を見計らって次の鞭が飛ぶ。この武士は、どうもこういう遊びに慣れているようだ。
様々になぶった後、せん様は娘を後ろから犯した。そう言えば着流しで袴をつけていなかったのは、そのためだったのかと納得がいった。娘は羞恥に顔を真っ赤に染めているのだが、何人もの男に、自分が慰めものになっているのを見られて、羞恥に身もだえしている。いっそ気絶した方が娘にとってはましであろうと思われた。
佐吉とマメゾーがいる床下から少し離れた場所で縛られて畳に座らせられている娘二人は、気配からして声も立てられないほど呆然としているようである。次は自分がああされるのだという事がだんだん真実味を持って感じられるようになったのだろう。
あっけなく果てたせん様は、家来に自分の肉棒を拭かせた上で、その家来が持ってきた槍を娘の前で振って見せた。
「これでどこをつくか分かるな」卑猥に笑うせん様が言う。「これは中々由来のある名槍でな。これで貫かれることを名誉に思えよ」
娘はさらけ出された自分の尻のもう一つの穴に槍の穂先が当てられるのを感じたのであろう。明らかに恐怖におののいている。裂帛の気合いと共に、その槍が自分の菊座を貫いたのを感じて、娘は気絶した。もちろん本物の槍で突かれたのなら命は無い。ただ、せん様が後ろに回った時、家来がもう一本の槍を持ってきて、せん様がそれに持ち替えたことは知るよしも無かった。
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「あれは場末の「それつけやれつけ」という見世物で使う槍ですぜ」マメゾーが言う。「あんなものをどこで手に入れてきたものやら」
夜になって屋敷から抜け出してきた二人が、尾上の屋敷でその日の出来事を報告している。尾上だけでなく、同心の立花、センセーも立ち会っている。
「しかし、その娘、かわいそうに」立花が言う。「命こそ取られなかったものの、これを知られれば、もうまともな婚姻は無理だろうな」
「そうだの」尾上が言う。少し深刻な顔である。「彼らを罰した上で、娘たちの事がばれないように事を図るのは少々難だの。」
「しかし、今回は命だけは助かったものの、場合によってはそのまま殺されてしまう事もありうる。そのあたりを探る必要はあるな」センセーが言う。
皆がうなずいている中で、佐吉が言い出した。
「まあ、月に数回という事ですし、一回ごとに使い捨てるほど多くの娘を確保するのは、金で片付く玄人を混ぜるにしても、まず無理でしょうから、まあ殺される事はないと言いたい所ですが、いつまでも牢に入れておく訳にもいきませんや。適当に数回使ってから、最後に本当に殺してから死体を処分してしまうという事は考えられます。幸い、身元不明の娘の死体が見つかったという報告は受けておりませんが、見つかっていないだけとか、屋敷のどこかに埋められているという事も考えられますし」
「ともかく、急ぐ必要がある」尾上が言う。「次の催しはさせてはならない」
「佐吉親分とマメゾーに交代で忍び込んでもらって、次の催しがいつ行われるか捜るようにしますが、開催される日はどうしますか」センセーが言う。「なにしろ武家屋敷だ。町方が踏み込める場所では無い」
「そこは考えておく」尾上が決断したように言う。「ただ一つ確認しておきたい。これは家老の一存で、お殿様は関知していないのだな」
「へえ、それは確かで」佐吉が言う。「そのせん様と呼ばれた男が家老に殿様に黙ってこんな事をして大丈夫かと訊いた事、それに対して家老が「あの殿様は何も分からぬうつけ者の昼行灯だから」と答えた事から、確かだと思われます」
「まあ、それだとお家取り潰しにまで行く事は無いな。まあ老中からのお叱りぐらいは覚悟せねばならんだろうが」
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例の催しが行われると分かった日、マメゾーが一人で床下に隠れている。今日は黒覆面に黒ずくめの服装である。尾上からできるかぎり怪しい格好でと言われている。佐吉と相談した結果、実際にはそんな格好をする事は無いということなのだが、講談に出てくる忍者の格好そのままでということになった。懐には火薬球が忍ばせてある。地面にたたきつければ音と煙が出る程度に威力を弱めてある。
これからの計画をもう一度頭の中でおさらいする。幸い木が何本か塀に沿って植えられている。あれを使えば塀の外に逃げるのはそれほど難しくは無い。塀の外には佐吉が待機しているはずだ。
今、目の前では裸にされた娘が磔柱に磔られて、今日はせん様では無く、別の侍になぶられている。よく見ると、前回なぶられていた娘だ。これは本当に殺す気かも知れないとマメゾーは思った。
案の定、その侍にいろいろなぶられた後、家来が二人、槍を持って出てきた。これは本当に突く気だと思ったマメゾーは、二人が槍を構えてあわや突こうとした時に床下から飛び出して来て、見ている家老や佐賀屋、それにせん様の場所を確認して、そちらに火薬球を放り投げた。身を翻して、佐吉から借りた苦無で、せん様と今日の侍の肩に軽く傷をつけると、手近にあった木の枝に飛び上がって、枝から枝へ飛び移って、塀の外へ消えた。
その場にいる者すべてが呆然としている中、町方の者がなだれ込んできた。「御用だ」の声からして捕り方は数名の程度ではない。
「なぜ町方が入ってくる」家老が怒鳴る。「ここは武家屋敷だぞ。町方が許可無く入れる場所では無い」
「藩主の許可は頂いております」一番先頭に立つ尾上が、藩主の花押の入った文書を示しながら言う。「この屋敷に盗人が入るというたれ込みがありました。かなり手を焼いていたお尋ね者だということで、藩主の許しを得た上で、万一にも逃がさないように、これだけ多数の者で押しかけましたが、この有様はどういうことでございましょうか?」
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「ここはどこなんでございます?」佐吉が不安そうに訊く。「ずいぶんとご立派な屋敷ですが、まさかこの前の事でお叱りを受けるとか?」
与力の尾上と同心の立花、それに佐吉、センセー、マメゾーという組み合わせで、この前の件に絡んだ呼び出しだという事は明らかだ。尾上に率いられてこの屋敷まで来たものの、屋敷の構えからして、佐吉が出入りできるような屋敷では無い事が見てとれる。ましてやセンセーやマメゾーはと思えば、マメゾーこそそわそわしているものの、センセーはそれなりの覚悟があるのか泰然としている。むしろ、尾上や立花の方が緊張しているぐらいだ。
ふすまが開いて、旗本どころでは無い、一見して名のある大名と分かる二人が入ってくると、尾上と立花が周章てて平伏した。他の三人もそれに倣って平伏したものの、一体誰なのか、何の用で自分たち下々を呼び出したのか理解できなくて、呆然としている。
「これこれ、佐吉。何かキツネに化かされたような顔をしておるが、予の顔に何かついておるか」
「お奉行様」尾上が緊張した面持ちで言う。「あまり佐吉をからかわないでやって下さいまし。お二方を前にすれば、私どもでさえ緊張せずにはおれない所、ただでさえ、佐吉もこんなたいそうな所に連れてこられて、おどおどしておりますので。」
なるほどこの方が北町奉行かと、佐吉はびっくりして心の中でつぶやいた。そっとみるとセンセーはやはり泰然としている。しかし、そのセンセーすらびっくりするような事が起った。尾上は聞いていたらしく表情は変わらないが、立花はうろたえていると言った方が当たって居るぐらい驚いている。
「ご老中」奉行がもう一人に声をかける。「この者たちでございます。左から、北町奉行与力の尾上介三郎、同じく同心の立花格之進、その配下の目明かし佐吉、それと…」
「神田のなめくじ長屋に住む通称センセーとマメゾーでございます」尾上がその後を引き取った。
「ここは江戸城内ではない」ご老中が気さくに言う。「江戸城内で正式に話をしようとすれば、まず登城させても良いかどうかで半月はもめて、あげく登城資格無しとなるのは目に見えておる。それで私の私邸に来てもらったのだ。ここなら、いつも米屋や八百屋など平気で入ってくる場所であるから、気楽にしてくれて良い。ただし、話の内容は正式のものであると心得ておいてもらいたい」
ご老中の言葉に皆平伏した。旗本でもそんなに地位が高くない与力や同心、まして町人など、普通なら顔も見る事が出来ない方ではある。まして、呼ばれて参上する事などあり得ない。そもそも直答して良いのかどうかさえ分からない。
「このたびの働きご苦労であった」奉行が話し始めた。「今日皆を呼び出したのは、その後の事について話しをするためと、ご老中直々に頼みたい事があるからなのだが、私の方から話すように言われておる。ただ直答を許す。それとそんなに平伏していないで、面を上げてくれ」
皆が顔を上げる。奉行は今回の事件で皆の知らない部分を話し始める。
「まず結果からだが、あの家老は、藩主の裁きで切腹お家断絶となった。あの藩であるが、藩主はあの家老の悪行を知らなかったということで、叱りおくに留めた。それにあの日、町方を藩邸に入れても良いという書状を書いたという手柄もあるしな。家老と一緒になってあの催しを楽しんでいた者たちは、皆、息子に家督を譲らせ、隠退させた。初めは知らぬ存ぜぬで通そうとしたがな」
「マメゾーの手柄だ」尾上が言う。「実は、マメゾーには申し訳ないが、極悪な盗人が入り込んでいるという名目で藩主に一筆書いてもらった。町方を屋敷に入れても良いという文書を花押つきで。そこで捕まえた強盗を詮議した所、そなたらのやっていた事をすべて話したという事にした」
「面白かったぞ」ご老中が言う。「その内の一人は旗本で、私が直接話した。その盗人のいう所によると、捕まる前にその集まりに出席していたお武家さんの肩に傷をつけたということなのだが、その方の肩を見せてくれぬかと言うともう逃れられぬと覚悟したらしい。本来ならお家断絶もあり得る所を本人の隠居だけで済ませてやったのだから、感謝してほしいものだ。他の武士は、それぞれの藩に裁きを任せた。藩によって様々だが、切腹よりは少しましという処置になったようだ。一人藩主がいたが、それも隠居で済ませたようだの。まあ、皆には不満かも知れぬが、外様大名に処罰をという事になると表沙汰にせざるを得なくなるのでな」
「皆は納得がいかないかも知れないが、この件は内々に済ませる事になった。あまり大事にすると拘束されていた娘たちの件も噂になるので、それは避けたいという事だ。そこは飲み込んで欲しい」
奉行の言葉に、皆平伏して賛意を表した。
「佐賀屋は廃業の上、水戸屋に賠償金を払わせた」奉行が言う。「まあ、磔獄門とどっちが良いかと訊けば答えは決まっておるな」
「ところで私はどうなるんで?」マメゾーが訊く。「極悪非道の盗人として捕まったらしいですが」
「まあ、覆面をしていて誰も顔を見ていない」尾上が笑う。「その後に磔獄門になった盗人のうちの誰かがその男だという事になる。なにしろ、この件は、捕物控えにも記さず、握りつぶされているので、どうなっても調べようが無い。マメゾーさんは知らぬふりをして頂いたら結構です」
「娘たちは親元に帰された」奉行が言う。「中には傷物になった娘などもう知らんという薄情な親もいたが、概ね喜んで引き取られた。今回の事は他に漏れる事は無いので、結婚に差し障りが起る事は無いだろうと言ったら、皆泣いて喜んでくれた」
「ついでに言うと、その薄情な親を持つ娘は、マメゾーが助けた娘で、今、立花が預かっている。自死でもされたら困るのでな。まあ、大分落ち着いてきたようだ。さすが仏の格さんだの」尾上が言う。菩薩の介さんという自分につけられた仇名が照れくさくて、これを機会に立花の方へ譲ろうとしたようである。
「ところでお願いの方だが」ご老中が口を開く。皆に豪勢な食事を振る舞った後、形を改めて皆の方を向いておもむろに話し始めた。
「今回のような事はこれからも起るだろう。今の取り決めでは、奉行所は町方の事にしか手が出せない。神社仏閣は寺社奉行の管轄、大名、旗本は老中預かり。江戸在住の諸藩の武士は藩任せ。しかし、寺社奉行にせよ、老中にせよ、諸藩の江戸屋敷にせよ、犯罪の捜査をする手駒を持っておらん。取り決めを変えるには大変な手続きが必要で、しかも必ず変えられるとは限らない。そうかと言って放っておくわけにもいかん。今回のように旗本や大名、また各藩の藩士が町人に何か理不尽な事をした場合に、手の出しようが無ければ困るのだ」
「そこで、奉行所の中にそういうことを扱う部署を内密に設けようというのが、ご老中の考えなのだ」奉行が言う。「今回、与力の尾上を中心に、皆よく頑張ってくれた。そこで、このままの形で、これまでの仕事もしつつ、そういう裏の仕事を担当してもらいたいというのがご老中の頼みだ」
「つまり、裏奉行所の裏奉行という事ですな」尾上が頷く。
「そのことであるが、内々に話し合って、裏奉行では無く、影奉行と呼ぶ事に決めた。裏だとひっくり返せば見えるが、この影奉行は見えては困る。それと本来の奉行にいつもくっついていてもらわないと困るしな」
「なろほど」佐吉が笑う。「死して屍拾う者なしということですね」
「いや、表向きはそうせざるを得ないような仕事ではあるが、裏ではきっちり骨を拾ってやる。トカゲの尻尾切りと言われるかもしれんが、切れた尻尾を拾いに行くぐらいはする。まあ、それが何の助けになるんですかと訊かれればつらいものがあるが」
「いや、構いませんよ」尾上が言う。「今回の件で、皆トカゲの尻尾切りをされても、悪は許せないと言い切った者たちですから」
「皆、男気のある立派な人達です」センセーが言う。「ご老中も安心して彼らに託せば大丈夫ですよ」
「いや、センセーやマメゾーさん、それになめくじ長屋の人達もその影奉行所を助けてもらいたいというお願いもしているのですが」奉行が言う。
「そうそう」尾上が笑う。「皆さんも影奉行の配下という事になっています。手当は出ませんが、いつもの裏家業はして頂いても結構です。よほどひどい事をしない限り、目こぼしいたしますというのがお礼ですかな」
「そんなことまでお奉行に伝わっているんですか」センセーが苦笑いした。
「いや私も奉行から聞いております。講談を聞いているみたいで中々面白いですな」
ご老中の言葉に皆大笑いした。
(完)




