赤きペンダントの共鳴 〜神器の沈黙と守るべき者〜
戦場の風は冷たく、血と鉄の匂いを運んでくる。
絵美の手の中で、天沼矛はただの金属の塊と化していた。
かつて水の刃を迸らせ敵を切り裂いたその矛は、今は力なく震える絵美の腕に重くのしかかる。
ムスペルの騎士の剣撃は動きが鈍っているにもかかわらず、絵美の心を容赦なく抉り続けた。
絵美は必死に刃を受け流し後退しようとするが、その瞳には恐怖と無力が滲んでいく。
(どうして……どうして、力が? 神器の力が無いと、戦えないよ!)
絵美の胸を締め付けるのは、ただの疲労だけではなかった。
自分を信じてくれた仲間の信頼が、音を立てて崩れていくような感覚に襲われる。
「くそっ! 絵美の天沼矛も、力を失ってるのかよ! 何なんだよ、これは? いきなり力が消失するなんて、聞いてねぇぞ!」
航太の叫びが、戦場の喧騒を切り裂く。
重みの増したエアの剣を握りしめ、絵美の援護に飛び込んだ航太。
その刃からも、風の力が消え失せている。
力が回復する気配は、無い。
ムスペルの騎士と、一撃を交えた瞬間……エアの剣を握る航太の手に、先程までは感じなかった痺れが伝わってくる。
いとも簡単に、衝撃で後方へと吹き飛ばされる身体。
地面に叩きつけられた航太の心に、虚無感と無力感が渦巻いた。
「ちくしょう! 神剣の力が無くなったら……エアの剣の能力が無くなったら、こんなにも無力なのかよ!」
這うように立ち上がる、航太。
その動きを見るムスペルの騎士の冷たく鋭い視線が、航太の心をさらに追い詰めた。
まるで己の弱さを嘲笑うかのように、心を締め付けてくる。
ガイエンを仕留めようとデュランダルを振り上げていたランカストが、航太と絵美の危機に気付いた。
ペンダントの光によって、何故か敵の動きが鈍っている。
手負いのガイエンを討つ、絶好の好機である事は間違いない。
しかし神器の力を失った航太達が、動きが鈍くなったとはいえムスペルの騎士相手に無事で済む訳がない。
ガイエンを倒せたとしても、航太と絵美を失う可能性は充分にある。
(ガイエンを逃がせば、また悲劇が繰り返されるかもしれん! だが……結局はスルトを倒さない限り、炎による攻撃は止まらない。ガイエンを倒し、仲間達への弔いにしたかったが……)
復讐の炎は、ランカストの心から消える事はない。
だがそれと同時に、今生きている仲間を守らなければならないという使命感がある。
ランカストの心は、一瞬だけ躊躇した。
その時、感じた事のない重みをデュランダルから感じる。
「分かった……もう迷わん! 今、生きている者を救う! 頼むぞ、デュランダル!」
航太と絵美の悲鳴にも似た叫びと、デュランダルの声にならない思い……それらが、ランカストの決意を突き動かす。
優先順位を決めたランカストの動きは、迷いもなく素早い。
今にも崩れ落ちそうなガイエンには目もくれず、航太と絵美に襲いかかろうとするムスペルの騎士に突撃する。
ガキィィィン!
デュランダルとムスペルの騎士の剣が激突し、火花が空間を焼き焦がす。
刃が噛み合い、金属が悲鳴を上げる。
衝撃が空気を震わせ、ランカストの腕に重い反動が走った。
ベルヘイム十二騎士の名を背負うランカストの剣技は、動きの鈍いムスペルの騎士を圧倒する鋭さがある。
それでも、僅かに脳裏に残る「ガイエンを逃がしたくない」という執念……その思いが、ランカストの動きに微かな乱れを生む。
迷うと、デュランダルの力が消失する気がした。
(雑念が邪魔をする……冷静になれば、今のムスペルの騎士程度! 落ち着くんだ!)
デュランダルに雑念を混ざるのを、ランカストは必死に止めようとした。
しかし仲間達の最後の叫びを、自然と思い出してしまう。
焦りが、ムスペルの騎士を仕留めるのに手間取らせた。
その隙を突くように、別のムスペルの騎士が荷台に近付く。
そして、ガイエンに鳩尾を叩かれて倒れる一真に迫る。
「一真さん!」
悲鳴にも近い、ティアの叫び。
荷台の上にいる者に、一真を守れる者などいなかった。
ティアの胸が、激しく高鳴る。
一真の倒れ伏した姿を見た、その時……ただの仲間への心配を超えた何かが、胸の奥を鋭く抉った。
(一真さん! お願い……誰か、助けて!)
想いが、赤い光に溶け合っていく。
願いが……届く。
目の前を通り過ぎていく、光の帯。
音速をも超えた、正に閃光の一撃。
その閃光が、ムスペルの騎士の身体を貫いた。
身体に孔を開けたムスペルの騎士は、荷台から転げ落ちる。
「アルの……ブリューナク。どうして、来たの? こんな危険な、戦場に……貴方は、総大将なのよ」
意識が戻ったネイアは、閃光が伸びた方角に視線を向けた。
言葉とは裏腹に、その表情に安堵が浮かぶ。
最後の一人となったムスペルの騎士の判断は、素早かった。
ランカストに勝てないと見るや、反転しガイエンを目指す。
そして右胸を押さえて倒れ伏すガイエンを抱え、素早く後退を始めた。
「そう簡単に、逃すわけにはいかん!」
デュランダルが風を切り、ムスペルの騎士に迫る。
刃が大気を裂く鋭い音が響き、ランカストの剣気が戦場を支配した。
ガァキキキィィン!
しかし、どこから現れたのか……もう一体のムスペルの騎士が、デュランダルを抑えた。
刃と刃が激しく噛み合い、火花が激しく散る。
力の押し合いが続き、地面が軋む。
「こいつ……どこから?」
剣を押し合う力を利用し、反動で後方へ跳ぶムスペルの騎士。
そのまま自らの馬に飛び乗り、仲間と共に砂塵の彼方へと消えていく。
血に濡れたガイエンの顔には、なおも不敵な笑みが浮かんでいるように見えた。
その表情が、航太とランカストの心に新たな怒りの火を点ける。
「ガイエン! 逃げるんじゃねぇ! あれだけの事やっておいて、てめぇは死にそうになったらトンズラか? ふざけんな!」
航太の握る拳は、震えている。
無力だった自分への……そして、不利になると逃げ出すガイエンへの怒りだった。
「ガイエン! お前も騎士を名乗るなら、正々堂々と戦え!」
ランカストの咆哮は、後悔と無念が折り重なっている。
あまりに鮮やかな逃走は、航太たちに叫ぶことしかさせなかった。
ムスペルの騎士の背中が、まるで勝利の余韻を残すかのように遠ざかる。
「やれやれ……敵ながら、見事過ぎる撤退だな。こちらの言葉など、聞く耳もなかった」
ランカストの声は、疲労と苛立ちに震えていた。
「将軍、追撃しようぜ! 今なら、ガイエンを倒せる!」
「そだね! 形勢逆転! 追撃戦だーっていきたいトコだけど、さすがにボロボロだよ……」
ランカストは絵美の言葉に首を縦に振ると、デュランダルを鞘に収め追撃を諦める。
「航太、気持ちは分かるが無理だ。絵美の疲労もピークだろうし、ホワイト・ティアラ隊の面々を無事に隊に戻さなくてはいけない。我々だけで、戦っている訳ではないんだ。だが航太、必ずこの借りは返すぞ!」
治療班の仲間達も、危険に晒してしまった。
仲間たちの憔悴した顔を見れば、無理に追うことがどれほど危険かをランカストは知っている。
幸い絵美は天沼矛の力を失う前は防御に徹していたため、身体に傷はなかった。
傷はない……だが絵美の瞳は、まるで嵐の後の海のように揺れていた。
疲弊と不安が、その顔を歪ませる。
(このまま、ずっと力が無くなるって事……ないよね。私、こんなんじゃ……智ちゃんを探す事も、仲間を守る事もできない。何も、できなくなっちゃうよ!)
絵美の心は、力の喪失と戦場の無情さに押しつぶされそうだった。
「ティア……あのペンダントの光のおかげで、皆が助かった。辛かったと思うが、よく耐えてくれた。礼を言う」
ランカストの言葉は優しかったが、ティアの小さな身体は震えている。
ガイエンとの再会が、ティアの心に深く暗い傷を刻んでいた。
ペンダントが放った光は、確かに仲間を救った……しかし同時にガイエンの影を呼び起こし、ティアの心を恐怖で縛り付ける。
エリサがそっとティアを抱きしめ、細い肩を優しく包み込む。
その温もりにティアは小さく頷くが、瞳には涙が滲んだ。
(ガイエン兄さん……やっぱり、怖い。一真さんが狙われた時、心臓が止まりそうになった。
私がホワイト・ティアラ隊にいたら、一真さんにも危険が及ぶかもしれない。それが、もの凄く怖い……)
ティアの指が、無意識に自分の胸元を軽く押さえる。
一真の名前を心の中で繰り返すたび、胸の奥が熱く……そして痛む。
ただの心配ではない……もっと深く、切ない何か。
そんな感情が静かに芽生え始めているのを、ティア自身も薄々感じていた。
ティアの心は過去と現在の間で引き裂かれ、深い傷が刻まれる。
誰もが、赤いペンダントとガイエンの繋がりを感じていた。
それでもティアの傷ついた心を慮り、誰もそのことに触れようとはしなかった。
ガイエンやムスペルの騎士との戦いで誰も肉体的な傷を負わなかったのは、せめてもの救いである。
だが航太と絵美の心は、戦いの重さと力の喪失によって深く傷ついていた。
(ガイエン……てめぇだけは、絶対に許さねぇ! 次に会ったら、必ずぶっ倒してやる! そのためにも、もっと強くなんねぇと! って……そういや、エアの剣の力が……)
航太はエアの剣を握りしめ、力の喪失に苛立ちを覚える。
ランカストに力の喪失の原因を尋ねようとしたが、全身を覆う重い疲労が航太の思考を鈍らせた。
隣に立つ絵美を見ると、力なく首を振っている。
(絵美も、すっかりやられてるな……そりゃ、そうだよな。連戦だったし、精神も体力も全て削られた感じだ……)
航太の胸に、仲間への心配と自分への苛立ちが入り乱れた。
(とりあえず、今日は休もう。そして明日から、また歩き出そう。こんな状態じゃ、何やっても空回りになるだけだ……)
大きく息を吐いた航太は、腕を天に伸ばす。
疲れ切った身体から、少しだけ力を抜く。
ランカストは仲間たちを見渡し、気力を振り絞るように声を張り上げる。
「全員、無事だな! よし、幕舎に引き上げるぞ! あと少し進めば、休める。もう一息だ!」
その声には仲間を鼓舞する力強さと、自身を奮い立たせる決意が込められていた。
航太たちは、重い足を引きずりながら進み始める。
(これで、まだ移動しなきゃなんねぇんだもんな……もう、限界だぜ! こんな戦いを続けて、智美も失って……オレ達は、何をやってんだ?)
航太の心に、ふと疑問が浮かぶ。
なぜ、自分は神話の世界に足を踏み入れたのか?
なぜこの戦争に巻き込まれ、戦い続けているのか?
その答えを求める気持ちは、疲れ果てた身体と心に押し潰されそうになる。
今はただ身体を休め、心を癒したい。
その願いだけが、航太の胸の奥深くで静かに強く響いていた。
だが、戦場の喧騒が完全に遠ざかることはない。
砂塵の彼方、ホワイト・ティアラ隊の背中を静かに見つめる二つの影があった。
「やはり、アルパスターが出てきたか……スルト殿、すまないな。ムスペルの騎士に、被害が出てしまった」
「ロキ殿の指示だ……ビューレイストが謝る必要はない。アルパスターが出てくるのも、予想の範囲内であろう?」
スルトの言葉に、ビューレイストは頷く。
「グラムを持った男……一真と言ったか。やはり、何かある。智美殿から、聞いた通りだ。彼を守るために、アルパスターは動いている」
「ガイエン以下の力だぞ? 守る価値があるとは、思えんがな。仮に、理の外の力を持っていたとしてもだ」
帰陣するホワイト・ティアラ隊の背中を眺めながら、ビューレイストは息を吐く。
「破邪の守りと、テンペスト……これで凰の目まで揃ったら、手がつけられなくなる。理の外の力が、こうも集まるか……」
「邪龍、ファブニールの遺産……勝利の剣が失われただけでも、良しとすることだな」
スルトの言葉にビューレイストは頷くと、空を仰ぐ。
神話世界の空は、全ての喧騒を飲み込んでいった……




