本当にやりたいこと
静謐な深緑の中を、レインとスノアは歩いている。
朝の山道は生き物たちが活動を始めた生気が充満しているようで、自然の中で感じる特有の空気のうま味を感じる。一度それらの空気を肺へ、いや胃袋へと吸い込めば、思わず感嘆の息を漏らしてしまうほどだ。
そんな朝の山道を楽しみ、笑顔を見せつつも、スノアの額には汗が見える。慣れぬ杖での登山では右脚への負担も大きく、清涼な木々の内にいるというのに全身が汗でじっとりと湿っていた。
レインは時折背後のスノアの様子を窺い、歩行速度を緩やかにするなど気遣う様子を見せていた。
昨晩の件で二人の間に溝が生まれるかと思えば、そんな憂慮がある雰囲気ではない。スノアが無理をして普段通りに振る舞っているような様子もなく、ごく自然と接している。
「ボリドア村はですね、野菜が名産品なんですよ。とくに、カボチャなんて絶品です!」
「そうか。それは楽しみが増えたな」
それは事務的なやり取りではなく、友人と話すかのような雑談めいた話題だ。スノアは笑顔を見せて語りかけ、レインはそれを嫌そうな顔することなく、むしろ興味深そうな声色で応える。一見、スノアがただ一方的に語り掛けているようにも思われるが、レインの相槌は一辺倒ではなく、その話に沿った返しをしている。つまり、彼女の話に聞き入っているということだ。
話が盛り上がれば不思議と時間が過ぎるのも早く、いつの間にか空の太陽は頭上まで上っている。そして、それは二人がルヴィーナの街を出発して一日半が過ぎたことを示していた。
山道はふと開けた場所へと辿り着く。その場に立てば、一段と強い風が吹き抜き、火照った身体が冷めていく感覚が心地よい。
スノアは自然と目を閉じ、その風を受け止めていた。そして、その馴れ親しんだ風がまるで自分を出迎えてくれたように思える。しかし、まだ「ただいま」とは言わない。これを言うのは、村に到着して、愛すべき人々と再会を果たしてからだろう。
「レインさん。ここがさっき話した『風吹きの丘』です。ほら、あそこから村が見えるんですよ!」
スノアが指を差した先は、数日前にフィスと遊んだ場所だ。ふとそこに立てば、まだ一週間も過ぎてないというのに、あの日のことが懐かしく感じる。そして村を見れば――。
「……あれ?」
「どうした、リルベイン?」
首を傾げたスノアに対し、レインは疑問を投げかける。スノアはというと「うーん?」と、自分でも何に違和感を抱いたのかわからないのか、左右に首を傾げて丘の上から村を見下ろしている。
「なんといいますか……いつもは、みんな一生懸命に働いている! って感じがするんですけど……今日は、畑に誰もいないように見えますし……なんかいつもの村じゃないんですよね」
スノアの言葉を訊きレインも村の様子を窺うが、彼にはわからない。
それは、長年この場所から村を眺めてきたスノアにしか感じられない感覚なのだろう。
彼女の勘を信じるかどうしたものか、とレインは顎に手を当てて思案していると、どこからか人の声が聞こえてきた。それは、男の……しかもうめき声のようだった。
スノアにもその声は聞こえたらしく、彼女もキョロキョロと辺りを見回していた。すると、その声の主は自分から姿を現した。村へと続く道の方から、右脚を引き摺り、剣を杖代わりにして何とか立っている様子の男だった。呼吸も荒く、見れば頭から血を流してるようだ。
スノアは、その男性が知り合いだと気づき、大きな声を挙げて驚く。
「カ、カルおじさん!? どうして、こんなっ……!?」
自分の名前を呼ばれたカルは、はっと顔を上げてスノアの顔を見る。すると、彼もまた目を大きく見開いて驚いていた。そして、身体の力が抜けたのか、その場に座り込み、苦しそうに肩を上下に揺らす。
二人は、荷物をその場に下ろしてカルの元へと駆け寄った。そして、レインは彼の怪我の様子を診察し、スノアは心配そうにカルとレインの顔を交互に見ていた。
「……右脚が折れてる。それと、血を流しすぎたようだ。ひとまずは、応急手当が必要だな」
レインはそう判断すると、自分の荷物の中にある治療道具を取りに立ち上がった。スノアはというと、そのレインの様子を見つつ、カルへと話しかける。苦悶で顔が歪んでいるが、まだ意識はあるようだった。
「カルおじさん! しっかりしてください! 何があったんですか!?」
「……っ! はぁっ! ……ぐっ! 村に行っちゃ、いけない!」
息も絶え絶えであるカルだったが、しっかりとスノアを見据えてはっきりと言う。
「フィスと、君を、襲ったと思われる化物の、群れがいた……。何体かは倒したが、奴らの数は、多すぎる……! 私が、囮になって……捜索隊は逃がしたが……っ! このままでは、村がっ……!」
「村が……? もしかして、化物が村に向かって……!?」
スノアがそう訊くと、カルはこくりと頷く。すると、伝えるべきことを伝えてほっとしたのか、険しい顔が少しだけ緩み、小さく微笑みつつ彼は言った。
「君が、生きてて……嬉しいよ。きっと、フィスも、喜ぶ……」
そう言うと、彼はぐったりと頭を垂れる。まさかと思い、カルの脈を確認するが、どうやら意識を失っただけのようだ。最悪の結果ではないとスノアは安堵するが、それでも彼が重傷であることには違いない。どうしようかと、慌てて周囲を見れば、レインが治療道具を持って戻って来ていた。
レインの治療は迅速かつ的確だった。慣れたような手つきで右脚を添え木で固定し、全身にある鋭い切り傷を包帯で止血する。治療を終えたころにはレインの白い衣服は血で赤く染まっていたが、それを彼が気にする様子はない。
一仕事終えたことにレインは息を吐く。
そして、心配そうに見守っていたスノアへと視線を向けた。
彼女は顔を白くし、口元を抑えて身体を小さく震わせている。奥歯をガチガチと震わせて、何かに怯えるように、怖がるように身を小さく丸ませていた。
それを確認すると、レインは立ち上がって傍に置いていた金属の筒を右肩に担ぎ上げる。灼熱の炎を噴き出す兵器の重さを感じ、彼の身体がほんの少しだが傾く。そして、カルの傍で祈るように手を合わせているスノアを見ると、レインは淡々とした様子で言った。
「リルベイン、君はここで待っているんだ」
え? と小さく驚きの声を挙げ、スノアは顔を上げる。
そんなことを言われるとは思ってもいなかった、という顔だ。
レインは、変わらぬ様子で言葉を続ける。
「先ほどの彼の言う通り、現在、村は危険な状態かもしれない。自分が行って様子を見て来よう。その間、君はここで待っているんだ」
「い、いえ! 私も……!!」
「はっきりと言おう。その様子じゃ、足手まといだ」
それは、スノアの右脚だけを指している言葉ではない。彼女の身体が、化物に怯えて委縮していること。そして、何よりも心が恐怖に屈していること。これでは、いざというときに逃げ出すこともできないだろう。それならば、ここで待機していた方が安全には違いない。
「……この兵器が、人間を殺したことはないと言ったのは覚えているか?」
唐突に、レインは右肩に担いだ龍の咆炎を彼女に見せつつ言う。そして、彼女の返事を待たずに、次の言葉が発せられた。
「その言葉に嘘偽りはない。……この武器は、生物ではない、得体の知れない超常の存在を殺すための兵器だ。そう……君を襲ったその化物……魔物を殺すための兵器だ」
「レ、レインさん……?」
「村のことなら任せておけ。……こういう荒事は、自分の専門だ」
レインはそう言うと、スノアに背を向けて歩き出した。それを見て、彼女は慌てて動き出そうとするが、右脚の痛みと恐怖で強張った身体がそれを阻害する。立ち上がろうとするがまるで自分の身体ではないように、脚に力が入らない。
どうにか動けと苦闘するが、その間にレインの背中小さくなり、そして見えなくなる。
まるで、捨てられたかのような孤独を彼女が襲った。
風吹きの丘では、変わらず強い風が吹き抜けている。先ほどまでは心地よいと感じていた風だが、今はその風の音が寂しく聞こえて仕方ない。
スノアの傍には、意識を失ったカルが寝ている。
その呼吸は落ち着いており、命に別状はないように思える。
「それでも、誰かが近くにいないと……」
自分でも思ってもいなかったことを口に出してしまう。
ここにいてもいい。そう正当化する理由が欲しかったのかもしれない。
そしてそれを否定するかのように、スノアは首を横に振る。
スノアも頭では理解している。
仮に自分が村に向かったとしても、何もできないだろう。フィスのように戦う力もなければ、レインのように傷を治療する知識もない。人と比べて秀でた目立つ能力はない。自分が唯一出来ることがあるとすれば、それは花たちを育てること。そう、とくにあの白い花、清浄花の聖水を採取することだけは――。
スノアの泥水に浸かっていたかのような暗い意識が、まるで空から朝日が差しこんだかのように白く透き通った。そして、なぜすぐにその発想に辿り着かなかったのかと、自分の愚鈍さに腹が立つ。
「そうだ! 聖水……! 聖水があれば……!」
レインが魔物と呼んだあの化物は、スノアが偶然持っていた聖水によって溶かし尽くされた。そして、その聖水は、毎朝スノアがイヴの花より採取し、教会内に保存している。
「それを、使えば……」
聖水の力は、たったひとつの小瓶で一体の魔物を撃退するほどに強力だ。
スノアには魔物の群れが何体いるかは予想できないが、少なくともこの状況を打破する『強力な兵器』になるはずだ。
それがあれば……自分でも戦えるはずだ。
それは、危ない発想だった。
スノアは自分に戦う力がない自分を卑下しつつ、心のどこかではだからこそ戦う必要がないことに安堵していた。しかし、ここで戦う武器を手に入れれば、彼女はあの魔物たちと戦わざえるを得ない。
戦うことは、怖い。
傷つくことは、怖い。
痛いのは、怖い。
死ぬのは、怖い。
「それでも! それでもっ……! みんなが死ぬ方がもっと怖いよ!」
スノアは杖をつき、そして立ち上がる。
その目には涙が溜まり、未だに奥歯は震えている。あの化物との戦闘を思い返せば、そしてその右脚の痛みを思い起こせば、ここに留まることが正しいんじゃないかと、そう思いたい弱い自分がいる。
「…ごめんね、おじさん。私、行くよ」
そう言葉にして、弱い自分を無理矢理殺す。
別れの言葉を言わないと、いつまでもそこで泣いている気がしたのだ。
零れそうな涙を腕で拭い、スノアはカルの傍を離れて行く。
彼女は森の中へと足を踏み入れると同時に、杖を地面へと置いた。今まで脚への負担を軽減していた支えが無くなり、右太腿に鈍い痛みが走る。この杖がなければ、立ち上がることすら困難になる。しかし、右足を庇っていれば素早く走ることもできない。
「急いで行かないと……村のみんなを助けられない」
無理は承知だ。
しかし、走らねばならない。
あのときは、フィスを助けるために走った。
今度は、村の皆を護るために、そして戦うために走らなければならない。
スノアは瞳を閉じて大きく息を吸い、そして吐く。
そして意を決して目を開ければ、その眼光には今までの彼女からは感じられなかった闘志が宿っている。
大きく、右足を前に。
村に向かって一歩を踏み出す。
続いて左足を前に、ゆっくりとした歩みは、その痛みの慣れとともに速くなる。
速く。速く。速く!
黒髪を靡かせ、少女は森の中を疾駆する。
すでに正規の道から外れ、あの日、フィスを置いて走った村への近道である獣道を走る。
悔し涙に頬を濡らし、泣き叫びつつ走ったあの道を。
今度は違う。迷いはない。
私は、今、自分がやるべきことを。やりたいことを果たそうとしている。
自分の直感で思ったことが、本当にやりたいことだから。
戦ってでも、村のみんなを……オルダーさんを、アッドを、フィスを護りたいって思ってるから。
だから、私は走るんだ。
スノアは山を転がるように駆け下りて行く。
身体が傷つくことなど気にせず、右脚の痛みなどすでに意識にはない。
一直線に、村に向かって駆けて行くのだった。
そして再び、運命の分岐点は近づいていく。
どこかで、それを祝福するかのような鐘の音が聞こえてきた。




