第15話 静かすぎる家
第15話 静かすぎる家
八月の初めだった。
蝉の声が朝から賑やかに鳴いている。
それなのに。
家の中は静かだった。
驚くほど。
静かだった。
美咲はキッチンでコーヒーを淹れながら、ぼんやりとリビングを見渡した。
誰もいない。
ソファには修一が寝転がっていない。
和子の編み物籠もない。
由美子が持ち込んだ有機野菜もない。
重雄の新聞もない。
あるのは観葉植物と静寂だけだった。
コーヒーの香りが広がる。
以前なら好きだった時間。
ずっと望んでいた時間。
なのに。
少しだけ寂しかった。
「重症だなあ」
美咲は苦笑した。
朝食はトースト一枚。
ハムエッグ。
ヨーグルト。
それだけ。
六人暮らしの頃なら、食卓に十品は並んでいた。
朝から焼き魚。
卵焼き。
味噌汁。
おひたし。
漬物。
果物。
あの賑やかな食卓が嘘みたいだった。
仕事へ向かう。
駅前を歩く。
真夏の熱気がアスファルトから立ち上っている。
コンビニの冷房が気持ちいい。
普通の日常。
何も変わらない。
そのはずだった。
帰宅したのは夜八時だった。
玄関を開ける。
真っ暗だった。
徹はまだ帰っていない。
「ただいま」
誰も返事をしない。
当たり前だ。
でも。
少しだけ拍子抜けした。
電気をつける。
冷房を入れる。
冷蔵庫を開ける。
広い。
ものすごく広い。
牛乳がすぐ見つかる。
感動的なはずなのに。
なぜだろう。
少しだけつまらない。
その夜。
徹が帰宅したのは十時だった。
「ただいま」
「お帰り」
二人とも疲れていた。
夕食はコンビニで買った冷製パスタだった。
テレビをつける。
食べる。
それだけ。
会話も少ない。
六人暮らしの頃なら。
誰かが喋り。
誰かが笑い。
誰かが変な話を始めていた。
静かな食事。
理想だったはずなのに。
妙に味気ない。
翌日。
今度は美咲の帰宅が遅くなった。
大型案件の締め切りだった。
帰宅は九時半。
徹はすでに夕食を終えていた。
「お疲れ」
「お疲れ」
それだけ。
シャワーを浴びる。
髪を乾かす。
ベッドへ入る。
生活のリズムが少しずつずれていく。
夫婦だから当たり前だ。
社会人なのだから。
それなのに。
美咲は夜中に目を覚ました。
隣では徹が眠っている。
エアコンの音だけが聞こえる。
静かだ。
本当に静かだ。
静かすぎる。
その週末だった。
昼下がり。
美咲はコーヒーを飲みながらパソコンを開いていた。
何気なく不動産サイトを見る。
そして。
見つけてしまった。
「あ」
例のマンションだった。
六人で見学に行ったあの物件。
家賃二十二万円。
LDK二十二畳。
七・五畳。
九畳。
十・五畳。
トイレ二つ。
洗面所二つ。
六階。
エレベーターあり。
バリアフリー。
まだ掲載されていた。
つまり。
まだ空いている。
「まだあるんだ」
美咲は画面を見つめた。
不思議だった。
あの時は冗談だった。
絶対ありえないと思っていた。
なのに。
今見ると少しだけ違う。
頭の中に浮かぶ。
修一がビールを飲む姿。
重雄が将棋を指す姿。
和子と由美子がキッチンで笑う姿。
徹が困った顔をする姿。
あの賑やかな毎日。
その時。
徹が飲み物を持ってやって来た。
白いTシャツにハーフパンツ。
休日らしい格好だった。
「何見てるの?」
「これ」
画面を見せる。
徹は一瞬で理解した。
「ああ」
例のマンション。
二人とも笑う。
「まだ空いてる」
「空いてるね」
少し沈黙が流れた。
窓の外では蝉が鳴いている。
夏の日差しがレースカーテンを透かしていた。
美咲はぽつりと言った。
「ねえ」
「うん」
「やっぱり引っ越せばよかったのかな」
徹が吹き出した。
「本気?」
「半分」
「半分か」
「いや」
美咲は画面を閉じた。
「三割くらい」
「減った」
二人は笑った。
そして。
徹がソファに腰を下ろした。
「でもさ」
「うん」
「今の方がいいかも」
「どうして?」
「だって」
徹は少し考える。
「会いたい時に会えるじゃん」
美咲は黙った。
確かにそうだった。
毎日一緒ではない。
でも。
会おうと思えば会える。
たこ焼きもできる。
鍋もできる。
将棋もできる。
それで十分なのかもしれない。
その時だった。
スマホが鳴った。
家族グループチャット。
嫌な予感しかしない。
開く。
送り主は修一だった。
『例のマンション、まだ空いてるぞ』
美咲は天井を見上げた。
続いて。
『見てた?』
和子。
『私も今見てた』
由美子。
『家賃割ると安いな』
重雄。
徹が腹を抱えて笑い始めた。
美咲も笑うしかなかった。
なんなの、この人たち。
本当に。
なんなの。
だけど。
笑いながら思った。
たぶん。
このマンションが埋まるまで。
この話題は終わらない。
そしてそれもまた。
少しだけ楽しいのだった。
続く。




