第二話 田舎を巡り歩く兄
数日後。
古賀喜世志は、田畑の広がる地方の駅に降り立ち、駅前から自動運転のタクシーに乗り込んだ。駅の周辺をタクシーで移動しながら周りの景色を見ていると、大きく区画された農場では、人間も何人かは働いているが、その何倍も多いAIロボットが作業をしているのが分かる。
大型ドームでの快適な暮らしができる東京のような大都市に人々は集まり、田舎の厳しい自然環境の中で暮らす人間は減ってしまった。そうした地域では自動化された大型機械やAIロボットたちが農業や漁業などを支える大きな力となっている。
しかし、それでも田舎に残って懸命に暮らしている人々はおり、そうした人々の姿を描くのが自分の仕事だ、と喜世志は考えている。
喜世志は、一時間ほどタクシーで周囲を見て回った後で駅に戻り、駅前の古い食堂に入った。
「こんにちは」
「ああ、古賀さん、いらっしゃい。お久しぶりです」顔見知りの店員の一人が、喜世志を笑顔で迎えた。
「大将のゲンさんはいるかい?」
「はい、奥の部屋で休んでいます」店員はそう言うと、店の奥に向かって声をかけた。「大将! 古賀さんですよ、喜世志さんですよ」
すぐに初老の男が店に出てきた。店の主人の源一郎だ。
「おお、よく来てくれた。喜世志さん、三年ぶりくらいかな? まあ、上がって……」
源一郎は、喜世志を店の二階にある和室の居間に連れて入った。
居間の壁には一人の女性の写真が飾られている。
「もう半年になる……」その女性を見ながら、源一郎は言った。
「いつも明るく元気で、素敵な奥さんでしたよね」喜世志は、写真に手を合わせて静かに頭を下げた。
「ああ、本当に……美代子のおかげで、俺は生きてこられた……」
「ゲンさんは、まだ元気なんだから、長生きしてくださいよ」
「そうだなあ……これ以上長生きしたいとは思わないけれど、天からもらった命だから、粗末にはしないつもりだ……」
喜世志は、写真の横に掛けてある絵に目をやり、源一郎に話しかけた。
「あの絵は、もう十年くらい前でしたよね」
「そう、俺が足を怪我する前に、ミヨと二人で農業をしていた頃だ……若かったなあ……おれもミヨも……」源一郎は絵の中の自分と妻の姿を見つめた。
「僕が描いた絵の中でも、この絵は最高の出来だと思っています。二人の明るく楽しそうな表情を、うまく描けたと思っています」
「この絵を描いてもらってから二年後に、俺が足を怪我して、農業は止めてミヨと二人でこの食堂を始めたんだ。たまたま前の経営者が体調を崩して、店を俺に譲ってくれたんだ……」
「そうでしたよね。でも農業から食堂の経営に変えたのは、苦労も多かったでしょうね」
「そうさ、苦労続きさ。ミヨが、怪我でふさぎ込みがちだった俺を元気づけながら、この店の仕事を頑張ってくれた。だから俺も必死で働くことができた……」
「ゲンさんは、奥さんを心から愛していましたよね」
「その通りだ。ここら辺も人が減り食堂の客も減ってきたけれど、ミヨを愛する気持ちは変わらなかった。苦労をして育てた子どもたちは俺たちの期待通りには育たなかったけれど、ミヨを愛する気持ちは全く変わらなかった。ミヨは先に逝ってしまって俺だけ残されたけれど、ミヨを愛する気持ちは永遠のものだ。たとえ地球が滅びる時が来ても、その気持ちは決して変わらないだろう……」源一郎は少し涙ぐんでいる。
「そうでしょうね」喜世志もしんみりとした声で言った。
しばらく黙って絵を見つめていた源一郎は、明るい声に戻って喜世志に言った。
「喜世志さんも偉いよね。こうやって日本全国を回って絵を描いている。なかなかできることじゃない。本当なら、喜世志先生、って呼ばなければならないだろう」
「これしかできないんですよ。子どもの頃から勉強が苦手で、絵は好きだったんです。それで、こんなことになってしまった、というだけですよ」
「苦労も多いんだろうね」
「いえ、楽しいですよ。東京暮らしの連中は、田舎っていうのはどこも同じだって思っている奴が多いようですけど、僕はそうは思わない。一人一人が違い、毎日が違う。そういうことを自分なりに感じて絵に描いているんです」
「そうかい、やっぱり偉いねえ……今夜はうちに泊ってくれるんだよね?」
「はい、お世話になります」
「じゃあ、また後で、酒を飲みながら話そう。部屋はこの前と同じで、この奥の和室を使ってよ」源一郎はそう言うと、店に出て行った。
翌日の昼前。
源一郎と昨夜遅くまで酒を飲んでいた喜世志は、旅の支度を済ませてから食堂に降りて、源一郎に声をかけた。
「すっかりご馳走になりました」
「もう行っちゃうのかい? 昼飯くらい食っていきなよ」源一郎は寂しそうな顔をしている。
その時、小さな男の子を連れた一人の女性が食堂に入って来た。
「大将! お嬢さんですよ! 玲子さんですよ!」店員がその女性を見て、源一郎に声をかけた。
「おお、お帰り」源一郎が優しい声で迎えた。
「ただいま」玲子は笑顔だが、少し疲れたような表情だ。
「昨日から古賀さんが来てるんだ」源一郎はそう言うと、喜世志の方に振り返った。
「お久しぶりです」喜世志は、玲子の顔を見ながら挨拶をした。
「こんにちは。ご無沙汰してます。父がいつもお世話になっています」玲子は改まった表情で挨拶を返した。
「いえ、お世話になっているのは僕の方です。昨日は久しぶりに夜遅くまで酒をご馳走になっていました」
「そうですか。ゆっくりしていって下さね」玲子はそう言うと、父の源一郎に向かって言った。「私たちが使うのは、いつもの部屋でいい?」
「ああ、良いよ。シンちゃんも疲れたろう? 部屋でゆっくり休んで」源一郎は男の子にも声をかけた。
玲子は喜世志に軽く頭を下げてから、男の子を連れて奥の部屋へ入っていった。
「お嬢さんとお孫さんは帰省ですか?」喜世志は源一郎に話しかけた。
「いや、実は……」源一郎はそう言いながら、荷物を持って出ていこうとしている喜世志を押し戻すようにして、玲子が入った部屋とは離れた別の部屋に入った。
「実は、玲子は離婚して戻ってきたんだ」源一郎は小さな声で喜世志に言った。
「そうですか……」
「玲子は結婚して八年、孫の伸也も六歳になる」
「玲子さんも立派なお母さんなんですね。ついこの間までは、可愛らしいお嬢さんだったのに……」
「そうか、喜世志さんは、結婚前の玲子にしか会ったことがなかったか……玲子も結婚後はずっと東京暮らしだったからね」
「東京で幸せに暮らしているという話は、ゲンさんから何度か聞きました」
「そう。二年前までは幸せに暮らしていたと思う……」
源一郎は少し沈黙してから再び話し始めた。
「二年前にミヨが病気になって入院したときに、玲子が戻ってきて看病や店のことでいろいろと手伝ってくれて、一か月くらいここにいてくれたんだ。ところが、その一か月の間に、玲子の旦那が浮気をしたんだ。しかも、その女を家にまで連れ込んだらしい……」
「それはひどい話ですね」
「そうだ、本当にひどい話だ。それから夫婦仲は悪くなって、この一年半ほどは別居していたんだが、先週、正式に離婚したらしい」
「そうでしたか……」
「お父さん?」部屋の外から玲子の声がした。
「どうした? 入っていいよ」源一郎が部屋の外に向かって声をかけた。
「お父さん、伸也こっちに来なかった?」部屋に入って来た玲子は、不安そうな表情で源一郎に尋ねた。
「いや、見てないよ」
「さっき、トイレに行くと言って部屋を出て行ったけど、戻って来ないの」
源一郎と玲子は店に出た。喜世志も二人に続いた。
「伸也を見ませんでした?」玲子が店員の一人に尋ねた。
「伸也君なら、さっき一人で出て行きましたよ。近くの公園に行ってくる、と言ってました」
「じゃあ、見てくるわ」そう言うと、玲子は小走りで出て行った。
しばらくして、玲子は一人で戻ってきた。
「公園にはいなかった。周辺を探したけど、見つからないの」玲子は泣きそうな顔をしている。
「じゃあ、もう一回探しに行こう」源一郎はそう言って立ち上がった。
「僕も一緒に探しますよ」喜世志も立ち上がり、二人に向かって言った。「ここら辺の土地勘はありますから」
「ありがとうございます」玲子は真剣な表情で頭を下げた。
「じゃあ、玲子はもう一度公園の周辺を探して」源一郎は玲子にそう言うと、喜世志の方を見た。「喜世志さんは駅の周辺を探してくれるかい? 僕は農園の方を探してみる」
三人は店を出ると、それぞれ別々の方向に向かって走り出した。