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ジャスミンの涙  作者: 相原
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 香奈の心の中は罪悪感で支配されていた。

 ジナの顔を見た途端、泣きたくなった。ジナに感じていた妙な安心感の正体に、今更気づいた。

 ――わたしはジナのようなお母さんが欲しかったんだ。

 散々頼っておいて、裏切ってしまった。まだ大変な状態は続いていて、ジナにも秘密を抱え続ける。話すことはそれはそれでジナに負担を強いることになる。ジナだって人間なのだ。無理をさせ続ける訳にはいかない。この部隊の中で唯一の女性のジナはただでさえストレスがたまっているはずだ。

 それでも心の中で秘密を持ち続けるのは、辛い。それこそもっと切ってしまうかも知れない。言うわけにはいかない。だけれど、秘密を持ち続けるのは辛い。

「ねえ、腕切ったでしょ」

 香奈ははっと息をのんで、隠そうとしたところでジナが小さく笑った。

「別に責めるつもりはないよ。君が君自身を責める気持ちだって、本当は的外れなんだ。傷はどこ?」

 そういわれても香奈は恐る恐る制服の袖を捲った。割れたような傷跡は乾ききっている。

「あー、これは跡が残るかも。ファンデーションで大分マシになるから、日本に帰ったら調べてごらん。あとは傷跡を隠す入れ墨とかもあるから、そういうのもいいかもね」

「……」

「どうしたの?」

「心の傷は、心だけのものにって……」

 香奈はぼそぼそとしゃべり出す。「言ってたのに、切ってしまったんです」

「しょうが無いよ。日本の精神医療がどんな物かは分からないけど、ちゃんとしたカウンセラーに会えると良いね」

 ジナは煙草を咥えて火を付ける。「煙草も良い気分転換だけど、健康に悪いって言うのはまあ当たり前。日本帰っても吸って良いけど、一日五本までにしときなよ。金食い虫だからさ」


 なんだか、期待外れのような、悲しいような、安心したような、複雑な心境だった。

 車の外は夕暮れで、疲れ果てた学生達がうつらうつらとしている。こんな状況では騒ぐ気も話す気にもならない。ぼそぼそと囁く声が車の音に混じって聞こえた。

 香奈は自分の腕を見下ろした。自分はどうして切ったんだ? 心配して欲しかったのか、それとももっと深い理由があるのか。とにかく、自分の事を傷つけると贖罪になると思った。自分のせいで人が死んだ。ぼんやりしたそのイメージが、時々何かがトリガーになってリアリティのある追体験をする。自分の隣で撃ち殺された現地学生のことを、今でも思い出す。

 日本に帰れるのか。帰ったところで居場所があるのか。

 なぜだか、確信があった。

 ――わたしはどこかで自殺する気がする。

 今日明日という話ではなく、、もっと長いスパンで。香奈は寿命まで生きることが出来ない気がする。

 慣れてきても辛い車酔いのぼんやりした頭の中で、小さな確信が一つあった。


「……俺はあの子が自分の腕を切るところを見たよ」

 ハンドルを握ったまま、ウィルヤがぼそりと呟いた。

「なんとまあ、そりゃ……難儀だったね」

「俺にはあの子の気持ちは分からない。自分のせいで人が死んだとあの子は思い込んでいるだろう」

 煙草を咥えてジナは煙を鼻から抜いた。

「イスラム過激派は女性が教育を受けるのが許せないだけだ。あの高校が襲撃されたのはただの偶然だよ」

「あの子はそうは思っちゃいないだろうな」

「まあね」

 開いたままの窓から灰を落とす。「だけれど、間違った思い込みなりにさ、理屈が通ってるんだよ」

「処刑は、あの子のせいだと?」

「いいや、そうじゃない。うーん、難しい話なんだけどさ」

 眉間に皺を寄せたまま、ジナはゆっくりと煙を吸い込んだ。

「すべてが香奈の責任だって思い込んでしまえば、あとから理由なんていくらでも付け足せるじゃん。自分だけが悪いんだって思い込めばいくらでもそれっぽい理由付けは出てくる。それが正しいか、妥当性があるかどうかは別としてね」

「そうじゃない、とあの子に言ってやったほうがいいんじゃないのか」

「何度も言ってる。でも多分あの子は自分でそれに納得できないんじゃないかな」

 ウィルヤは顎髭を撫でた。「俺は自分を斬りつける奴の気持ちは分からないが……」

「分からないが、なに?」

「あの子と同じ境遇に自分がなったら、自殺しない自信はない。宗教が禁止していようが何だろうがな」


 小さな歓声で荷台の香奈は目を覚ました。寝汗で借り物のヒジャブが濡れて気持ち悪かった。うつらうつらとし続けて、時間感覚がない。薄暮、朝焼けが妙に目に眩しい。

「どうしたの?」

「ジャカルタだ、もう安全だ」

 荷台から身を乗り出すと、遠くに都市の光が見えた。抱き合って喜ぶ学生の中でも――なぜか香奈の心境は複雑だった。

 ――日本に帰るのだ。

 生き抜く事が精一杯で、後のことを全く考えていなかった自分を香奈は感覚した。日本に帰って――それで? 自分はどうなる?

 高校三年間を費やしたインドネシア留学の準備、それをすべて棒に振ったことになる。逃げ帰った日本で、わたしはどうなる?

 ――ジナと、離れたくない。

 トラックに揺られていると、遙か高空に飛行機が見えた。戦闘機。香奈には分からなかったが、PKO派遣されたマレーシア空軍のSu-30戦闘機は車列をチェックしていた。最後のエスコートだ。まるで香奈はその戦闘機を送り狼の様に感じていた。

 運転席の窓を軽く叩くと、助手席と運転席を交代していた。ウィルヤが窓を開ける。ジナは前を向いたまま告げた。

「もうすぐで、安全なところに着くからね。それまでの辛抱だよ」

「はい……」

 だけど、ジナはどうなるんですか。

 このいつ終わるかも分からない内戦の中で、生き延びられるんですか。

「……これが終わったら、ジナはどうなるんですか?」

「さあ、転戦することになるか、それとも」

 ジナは一瞬首を傾げた。「ちょっと面倒なことになるかもしれない」

 ――ちょっと面倒な事。

 わたしのせいなんだろうな、と香奈は思った。

「……ずっと考えていたんです。わたしが、この国に留学するなんてことにならなかったら……あの高校は襲撃されなかったんじゃないかって」

「イスラム過激派は女性の教育を許してないんだ。香奈がいなくても、同じ事になってた。あるいはもっと悪い状況だったかも知れない。高校一つ一つをチェックする余裕は、今のインドネシアにはないからね」

「……でも」

「今となっちゃどうしようもないよ。皆助かった。それだけで十分だよ」

 ジナは少し乱暴だったけれど、香奈を慰める。「煙草でも吸う?」

「吐きそうなのでやめておきます」

「俺は吸う」

 ウィルヤがジナの差し出した煙草をひったくって咥えた。「街の中に入ったら憲兵の目があるからな」

「ウィルヤさん英語喋れたんですか?」

 ウィルヤは一瞬黙った。

「……スーシー」

 面白い人たちだ、と香奈は思う。こんな風に接してくれる人は、日本にはいなかった。学生に失望しきった教師と、子供に威張り散らす両親。無関心を貫く周囲の大人。

「……どこかで、わたしはこの状況に安心していたのかもしれないです」

 香奈はもう隠し事をやめた。いくつもの自己矛盾を抱えていることは知っている。それでも、吐き出したかった。

「どうして?」

「ジナに気を遣って貰って、ウィルヤさんもあんまり話さないけれどいい人で、皆辛い中で我慢して……将来の事なんて、考えなくてよかった。わたしは日本に帰って……どうなるんでしょうか」

「大丈夫、なんとかなるよ。どうもしない。香奈は香奈だよ」

 ジナは自分の分の煙草を咥えてウィルヤに火を付けて貰った。「きっと日本に帰ったら大騒ぎだと思うよ。邦人救出なんて、大変なことだからさ、私にとっても、香奈にとっても」

 ――わたしは日本に帰って生きていける自信がないんです。

「……辛いことを経験すれば、小さなトラブルなんてたいしたことないって思えるようになる……みたいな風に、日本では言われているんです」

「インドネシアでもそうだよ」

「だけど、わたしは……辛いことに過敏になってしまったかもしれない。なんども殺されそうになったことや、隣で殺された学生を思い出すんです」

 うつらうつらとしていた中で何度見たか分からない夢。記憶。

「フラッシュバックだよ。精神的なもの。薬を出されるから、ちゃんと飲んでいれば治まるよ」

「治めたら……治めて、いいものなんでしょうか」

 十字架を背負っている――いや、十字架という表現はこのムスリムの国では通じないだろう。

「何か……罪を背負っていないといけない気がするんです」

「……気持ちは分かるよ。私も予備役から呼び戻されて、始めて敵兵を殺した時そんな感じだった。許しをくれる神様もいなかったしね」

 自嘲気味に、ジナ。「だけど、そうじゃないんだ」

「……そうじゃない?」

「そう。キリスト教なんかだとそうだけどさ、神様は罪に許しをくれるけど、そもそもそれが罪だったのか、落ち着いたら考え直して見てよ。今は、やめといた方が良いけど」

 自分の罪は、罪じゃないのか。本当なのか。

「世の中には自分と他人しかいないんだ。自分を信じられないなら、他人を信じるしかない。私でもウィルヤでも、カウンセラーでも友達でもいいんだけどね」

 ジナは短くなった煙草を窓の外に投げた。

「私は、香奈は悪くないと思うよ」


 街の中に車列が入っていくと、すぐさま装甲車が出迎えた。PKO派遣のM113兵員輸送車。万が一の襲撃に備えて車列を挟むようにして、市内を進んでいく。

 内戦下ということもあって交通規制がされている。なにより、舗装されたコンクリートというだけで乗り心地がかなり良くなった。軍服の男達が目立つが、それでも安全になったことには変わりはない。途中で装甲車の給油を挟んで、学生達を避難民のキャンプに送り届ける。

 香奈は今まで一緒だった友達と別れた。皆疲れ果てていたけれど、笑っていた。親と会えるかどうかが分からなくても、安心しきっていた。

 どこかで引っかかりを覚えているのは、香奈だけのようだった。


「ジナの隣、座れ」

 学生達を下ろしたときに、つっかえつっかえウィルヤが英語で告げた。

「もう危険はない。最後に話したいことがあるだろう」

「……ありがとう、ございます」

 なんだか、助手席に座るのがひどく昔のことであるように感じた。ジナは笑って、シフトノブを操作する。

「町中は慣れてないんだ。事故ったらゴメンネ」

 戦時下の街を車で走る。

「そういえば、どこに向かってるんですか?」

「スカルノハッタ国際空港。PKO部隊の本部があるんだってさっき無線で聞いた。米軍がアメリカ人を救出するための飛行機に乗って、日本を経由して給油してからアメリカに行くんだって」

 米軍。自分のために、自分なんかのために、米軍まで動いているのが、申し訳なかった。

「日本に帰ったらさ、何したい?」

「……わかりません。全然、気持ちの整理が付いてなくて」

「私は内戦が終わったら多分軍からお金一杯貰えるだろうし、韓国かな。二重にしてエラを削って……あとはなんだろ。お金が許す限り思いっきり整形したいな。この年になるとシミもシワも気になってくるんだよねー」

 香奈は小さく笑った。「本当に整形したいんですね」

「そりゃもう。韓国人スターと結婚するからね。元陸軍ならアクションスターになれるかも」

 夢物語だ。だけれど、香奈のための夢物語だ。

「香奈はしたいこととかないの?」

「…………本当は、大学にいきたいです」

 香奈は最後に、本音を漏らした。

「高卒で働ける人は大勢いるけれど、わたしは……なんだか自分が向いていない気がするんです。だから、とりあえず、大学に」

「そっかそっか、いいんじゃない。テコンドーもやってみなよ。大学の部活で」

 香奈は苦笑した。「そうですね。格闘技も、何かやってみます」

 ジナは少しだけ真剣な口調になる。「……言いにくいんだけどさ、私、香奈に自分を重ねてたんだ」

「……」

「なんだか、香奈は若い頃の私に似てるんだよね。全部自分のせいって抱え込んで苦しそうだし、なんだか……私に娘が出来たみたいにも、感じてるんだ」

 ――わたしも、ジナみたいなお母さんが欲しかったんです。

 それは依存だと、自分の中の理性が警告する。分かっている。これ以上甘えてはいけないのだと、他でもない自分が一番よく分かっている。

 しばらく、沈黙が続いた。

 お互いがお互いを娘か母親のように感じていた。お互いがそれを口に出して告げることを遠慮していた。それは依存だという気持ちがお互いの心の中にあった。

 車列が空港に入って、PKOの青いヘルメットを被った米軍人が出迎えた。

「……新婚旅行で、いつか日本に行くからさ、そのときに、会おうね」

 ジナは黙ったまま、ガラム・シグネチャーの箱を差し出した。香奈は目を伏せた。そうしないと、目から涙がこぼれそうだった。

 ジナが柔らかに笑っているのは、見なくても分かった。


 ジナは思う。私はおねえさん(mbak)でなくてはいけない。母親には、なれない。


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