天上、桟敷
統合幕僚長は沈痛な面持ちだった。
和光桃香が再発見されたという報告は、彼女が手の内からこぼれ落ちたことも、同時に意味していた。それが苦い表情をしている理由の一つ。
もう一つ、そして主な方は、例によってまとまらない幕僚監部だ。だいたい、自衛隊時代は名称も統一されていたのに、空軍幕僚長、海軍軍令部長、陸軍参謀総長、と好き勝手に名乗っている時点でおかしい。
「ONE、MOD(防衛省は一つ)」
墨書きされた標語が、漆塗りの額縁に収まって虚しく下がっている。こういう目標を掲げるのは、現状がそうではないからだ。
いっそ海軍省、陸軍省と、予算から何から分けてやればいい。
机に肘をついて喧騒を眺めた。
「話を戻せば、ジャックラビットの失敗は、要するにレンジャー隊員の不手際でしょうが」
「……っく」
「しかも、実際に月から連れ出したのは、民間人だというじゃありませんか。つまり、習志野の連中は民間人以下ってことですよ?」
「……き、貴様、言わせておけば……」
参謀総長の血圧が、ぐんぐん上がった。なんとか一言目を耐えたのは、彼なりに責任を感じているからだが、この爺さまは基本的に気が短い。また、幕の内を投げつけようとするところ、情報保全室の脇坂大佐が両手を広げて取り成した。
「まあまあ。目立たないよう少人数で実行しようとしたんでしょ。それは間違いじゃない。空軍──というか、地上宇宙軍候補の森大尉たちもいた。いまさら責任の押しつけ合いなんて不毛です。それより問題なのは、情報が漏れて待ち伏せされたってところ、なんじゃあないですか?」
軍人としては口調が軽い。上官を上官とも思わない舐めた態度で知られているが、「まあ脇坂だから仕方ない」で通っている。情報将校だけに、いろいろと幹部の弱みを握っているのだと、もっぱらの噂だ。
「まるで他人事だな脇坂大佐。どこから漏れたか判明してるのか」
「明確じゃありませんが、おそらく和光桃香に決行日を報せる私信が抜かれたんでしょうな」
「平文で送ったのか」
「相手は民間──じゃあないが、軍人でもありません。暗号で送れるわけないでしょう。それにしたって、私信には最低限のセキュリティがかかってるんです。それを傍受して抜いてくるんですから、さすが連邦と、あっちを褒めるしかない」
「いい加減にしろよ脇坂」
「かといって、さすがに機密通信で内閣府経由ってわけにはいかんしな」
内閣府から奪い取るのだから、言わずもがな。
「情報を抜いているのは連邦だけじゃない。文科省さんも、共和国に『たくみ』がやられてる」
「あっちは民生用と言い張って、ザル管理だったからさ」
「まったく我が国の諜報はどうなってるんでしょうなあ」
それを担当する脇坂本人がこの口である。
「誰かが『AFでは水が不足』とでも打電したんじゃないかね」
参謀総長は、海軍をけなすためだけにミッドウェー海戦を持ち出した。
帝国海軍機動部隊が攻撃目標とする地、暗号名AFを確定させるため、米軍は「ミッドウェーは水不足」という偽電を流した。それを、日本側が「AFは水不足」と打電し直して、ミッドウェー狙いが見事にバレたという、第二次世界大戦中のエピソードだ。
本筋と無関係な昔話にうんざりしながら、脇坂は半分だけ話を継ぐ。
「いっそ、和光桃香は市ヶ谷にいるぞと偽電を打ってやりますかね」
「ちょっと待て脇坂。連邦の目的は和光桃香で間違いないか、トパースではなく」
「もし連邦大使館に聞いたら、和光桃香と言うでしょうねえ。欲しがってる理由はウチと同じ。トパーズを狙ってるのは、同じ連邦でもパイレーツの方──形式的には国籍不明の民間船ですな。まあ、連邦に聞いても、そんな船は知らないと言われて終わりです」
今日の会議はトパーズ呼びで統一している。実際、いま飛んでいるのは防衛省コード「こんごう」ではなく、JSD所属の民間船トパーズだ。
「トパーズに関しては、リトルジャーニーが軽率だったんじゃないかね?」
話はうんと遡った。モモカをトパーズに密航させた件、つまり防衛省の中では「和光桃香環境負荷試験“リトルジャーニー”」と呼ばれる作戦だ。
「あれで、結果的に内閣府は力を手に入れた」
「いや、リトルジャーニーの作戦自体は概ね成功してますよ。ISS-8に届けて終わりなんですから。ミラージュとの交戦は想定外でしょう」
「あれも、連邦が知っててパイレーツを寄越したんじゃないのか?」
「和光桃香が乗船したことを、という意味なら、知らなかったでしょう。身分を変えて、しかも密航ですもん。それと『内閣府は力を手に入れた』が、トパーズのことなら認識がズレてます。あれが武装化したのは、帰りに再び襲われて、それで月に大破着底して──それから先のことでしょ? リトルジャーニーから内閣府の企みまで飛ぶのは発想が飛躍しすぎってもんです」
前々から、内閣府は防衛省と別の実力組織を欲しがっていた。縦割り行政のなかで好きに使える、内閣府直属の部隊を。しかし、実行したのは、その後だ。
「墜ちたトパースを利用して、特設巡航艦に仕立てたのは各省庁合作だわな」
「やはり古い船は丈夫でいい」
「そう、テストベッドに選んで正解だ。そして、そこまでは相乗りのはずだった」
「あの会議を仕掛けたのは和光桃香ですよ。内閣府の看板でね。たくみを載せてやると文科省を引き込み、ウチも乗っかり、内閣府も妙なエンジンを載せて、あっという間に特設巡航艦の出来上がり。我が国唯一のね。そして気付けば、今それに乗っているのは、和光桃香本人。最悪です」
「──つまり、内閣府も出し抜かれた、ということか」
「お膳立てして、そのうえで脱走されたんですから、そうでしょう。まあ、脱走を手伝っちまったのはウチですがね」
モモカは、いわば「武器庫を開く鍵」だ。
特別な子、月のアイドルとはよく言ったもの。幼げな口調で罠を張り、各国要人とつながって政治の裏を動かす。実際に3Sを動かし「プロジェクト」対象の軌道レーザーを撃たせた実績もある。こんな個人を放置しておいて良いはずがない。管理下に置くべき人物だ──というのが防衛省の認識だ。
ただし、その厳しい見かたの半分は、彼女を管理下に置いてきた、内閣府への反発心から来ている。連邦の考えも同じようなものだ。要は、美味しそうな駒としてモモカを取り合っているだけだが、彼女の境遇に対する負い目もあって、それぞれ正当化する理屈が欲しいわけである。
「そうなると、ジャックラビットの失敗が本当に痛いな」
「本当に習志野は素人以下で──」
「それはもういいから。政府職員が誰も乗っていないというのは確かなのか?」
「残念ながら。ISS-6からは緊急出港で、誰も間に合わなかった」
「海永大尉がいるだろう」
「元、大尉ですな。命令不服従で退官した男ですよ。言うことを聞きますかね?」
「正義感の強い男らしいが、謝罪を拒否して退官する頑固もんだからな」
「なんで特設巡航艦なんか作っちゃいましたかねぇ。そのうえ檻から脱走した猛獣ウサギと、言うこと聞かない我がままパイロットが乗ってるなんて」
脇坂は頭の上で腕を組んだ。
「で? 具体的にどうするか決まったか?」
統合幕僚長が久しぶりに口を開くと、全員が押し黙った。
このままではいけない。もう放置しておけない。それは一致している。
しかし、月のTS-1では手が出ない位置に、唯一の巡航艦が、民間船として、モモカを乗せて、浮いている。まったくお手上げの状況だ。
「民間船を接収するなら、防衛出動でも要請してもらえばどうです?」
「無理だと分かってるなら発言しないでくれ……」
「こりゃあ、空間宇宙軍の創設どころじゃないですな。防衛省が──いや、政府が丸ごと、天井桟敷に置かれてる。いや、舞台の方が天上にあるって、な」
行儀悪く椅子の上で仰向けになった。天高く見えないトパーズを見上げる。
「脇坂、下らんこと言うな」
「はぁ……美味しいところは最後に誰が持っていくんでしょうね」
誰ともなくつぶやいたのは、壁際の七海ちとせ。
脇坂は、可愛い子の声は聞き逃さないとばかり、さらにググッとのけぞり、ひっくり返りそうな体勢になって答えた。
「そりゃあ、油揚げさらうのはトンビだろうねぇ!」
洋行帰りの英語をひけらかした。何がうれしいのか満面の笑顔だ。




