マリウス市民病院41号室
人はリゾート施設に癒やしを求め、「生き返るわぁ」などと言いつつ、ゆったりした時を過ごす。
しかし、生き返り度でいえば、病院ほど実効性のある施設はないだろう。流れる時間だってゆったりだ。病状によっては、うんざりするほど、たっぷりかかる。
そういったことから、常連患者が良くも悪くも「マリウス・リゾート」と呼ぶマリウス市民病院は、南国風インテリアが特長の総合病院だ。
出入りの多い外来や検査ルームは基層1階、入院病棟はその下で、フロアごとにカラーが分かれている。地下1階(そもそも全て月面下だが便宜上そう呼んでいる)は賑やかな大部屋、地下3階は落ち着いた個室、それに集中治療室や手術室といった具合。下階に行くほど重要度が高いのは、下へ下へ掘り進んだ経緯があるからだ。つまり下ほど新しい。
最下階にあたる地下4階は事務フロア。主に、院長室や医局といった医師職員用スペースだから、患者は入ってこないことになっている。
ただし、特別な病室が1つだけある。
院長室を通り抜けないと入れない隠し部屋。関係者に「モモカ部屋」と呼ばれている41号室だ。
41号室は万全のセキュリティで守られている。
許可された訪問客でも、入れるのは小さな応接セットが置かれた前室まで。鍵付きドアの先はプライベート空間で、病室というより住居スペースだ。
空色のベッドルームには、大きめデスク、通信端末、映像ディスプレイ。間仕切り壁の向こうには、パウダールーム、風呂、トイレ。さらに、増えた衣装を収納するため、境界壁を抜いてまで増築したウォークインクローゼット──。
全てが、モモカ専用だ。
至れり尽くせり!
(設備を列挙してみれば、うらやましい)
何不自由ない生活!
(何でもありそうで、実はキッチンや冷蔵庫がない。部屋の主に与えられるのは、どうせ標準食とジャガイモばかりだから)
さすが箱入り娘!
(そう、鍵のかかった箱に、やんわり閉じ込められて、一生のほとんどをここで過ごしてきた)
♪ルルル、ルルンタ~!
掃除用の吸引ホースを持って踊りながら、謎の旋律で歌っているのはコバヤシユキ。41号室専属の病棟看護師で、ある意味モモカのお姉さんがわり、そして初めてできた「おともだち」だ。
バスッ……キュ、キュィィイ……ィん
振り回していたホースに、モモカが好きなクマのぬいぐるみ「熊野ベアトリクス(命名ユキ)」が吸い込まれた。
「ひ、ひゃあぁぁぁ! ベアトリクスーっ!」
裏声で悲鳴をあげると、あわててスイッチを切った。集塵ボックスをかき分け、何とかベアトリクスの救出に成功する。
症状確認! 四肢一部断裂! 丸耳に裂傷! ホコリまみれ! 重症だ!
「たいへん! オペしなきゃ!」
パシュー……
裁縫セットを取ろうと立ち上がった瞬間、ドアの開く空気音がした。
ベアトリクスを放り出し、ニコニコ笑顔でドアに走り寄る。付き添ってきた別の看護師に不格好な敬礼をすると、天井吊り下げ式のストレッチャーを引き継いだ。専属看護師以外は、プライベートスペースに入れないのだ。
一人でソロソロと押していき、ベッドの上にモモカを移す。まだ鎮静剤が効いているのか、すぅすぅと眠っていた。
「おかえり」
ベッドの端に座り、前開きになっている検査着の乱れを直す。薄手のブランケットをモモカの肩まで掛けると、フッと姉の笑顔になって頭をなでた。
モモカの身体は小さく幼い。
推定12~14才相当で、肉体的な成長が止まってしまった。だから、まだ女の子で女性になっていない。具体的には第二次性徴が起きていない。
成長が止まった理由は不明だ。
低重力起因説、日照不足説、栄養偏重説と、各担当医師が好き勝手なことを言うなか、いま有力視されているのが「周期喪失説」だ。
潮汐──超大質量の海を変動させるほど、力強くゆったりした地球の鼓動。月の公転で1日2回、また月齢の変化とともに28日周期で巡っていく。
月にはそれがない。正確には極めて少ない。地球が、いつもほぼ同じ位置にいるからだ。例えばマリウスから見れば、やや南西へ傾いた天頂に浮かびっぱなしで、周期というものがない。
これが、初潮や月経の発現に関係している可能性があるという。哺乳類、特にモモカにとって、成長のキーが足りないのだ、と。
それでも、担当チームはモモカにできる限りのことはした。
まずはトレーニングで可能な筋力強化。地球生まれと変わらないどころか、そのへんの男どもならモモカ・パンチで殴り倒せる。対人使用を禁じられたモモカ・キックを使うまでもないはずだった。
ホルモン補充療法も確立した。投与から時間が経つほど、薬効不足で精神的に幼児化していくのが玉にキズだが、ここにいる限りは問題ない。
問題なのは、免疫系を鍛えるプロジェクトが、まるで進んでいないことだ。
どうすれば効果的かはわかっている。ワクチン接種に限らず、外に出て多くの人と接し、様々な食品を口にするだけでも、大きく改善する。だが、どの医者も踏み切れない。怖いのだ。万が一の場合、それは死につながるから。
パシュー……
「久しぶりだねぇ、ユキくん!」
「ショウハラ先生……」
ドアから入ってきたのは、モモカを担当する医師の一人だ。
ショウハラは本名だが、ナースステーションでは「小児科専門セクハラ医師の略称だよねー」等と陰口を叩かれている。立場を利用してアレをしたとかコレをしたとか、嫌な噂が絶えない男だ。
きっと、この子にも……!
片手でモモカをかばうようにして、ユキがにらむ。
ショウハラは視線を気にもせず、ヘラヘラと軽い態度でモモカを指差した。
「無理使いしすぎだよ、コレかなり傷んでるねぇ!」
「そんな……物みたいな言い方やめてください」
「アハハハ! 誰が物みたいに扱ってるんだ? ハード面もだが、ソフト面も大ダメージだよ! 身体はハード、精神はソフト。わかるかい!」
「最近のモモカは元気に過ごしてます。精神のダメージなんて……」
フッと真顔になり、ユキを見る。地位の低いものを蔑む冷たい目だ。
「やはり、わかってないな。元気かどうかなんて関係ない。こちらのコントロールに従順かどうかが、健全な道具のバロメーターだよ。このままだと、次々わがままを言い始めるに違いないさ。なんでも、キッチンが欲しいなんて言ったそうだぞ」
「女の子ですし、それにキッチンは人間の生活に必要です」
「人間、ねぇ。まあ、いい。ドジっ子だったキミがコレの心を開かせたんだろ。まあ、見てるだけで笑ってしまうからね」
「く……」
ユキがこの部屋に配属され「はじめまして、こんにち、わっ!」と両手を広げて挨拶した時、ベッドに横たわったモモカは人形のように無表情だった。真っ赤になりながら「あ、あれ滑ったかな~」と、パジャマをまくって目にした傷──能力発現のために与えられた痛みの痕跡。
「だから、今度もキミが正しい方向にコントロールしたまえ。コレが共振するようになったことには、私も満足してるさ。ただし、逸脱は認められない。今では月のアイドル、いわば共有財産なんだろう? だが、本来の期待に応えてくれないと、ねぇ」
「大事にしているつもりです」
「大事? わがままを聞いて、1回『上』に登らせただけでこの有りさまさ。ISS-8で診察したガーフィールドも怒ってるそうだ。コレに好き勝手させるほど、知らないところで共振の方向が変わってしまう。肉体的な意味で死ぬ可能性も上がる。それでキミは……いいのかね?」
横から顔を近付け、ネットリとした視線を送る。
ユキは生理的な嫌悪を感じて顔を背けた。
「もう『上』には登らせません。でも『外』……市内はいいでしょう? せっかく、外に仲間ができたって喜んでるんです」
「ダメさあ! ちゃんとお姫様の面倒を見といてくれよ!」
ヘラヘラ口調に戻って言い放つと、話は終わったとばかりドアへ向かって歩き出し、後ろ向きで手を振った。
「そんな、だって……!」
ショウハラは立ち止まり、ゆっくり振り返った。イラつきを隠しもせず、目をすがめて威嚇する。
「絶対に、出すんじゃないぞ」
パシュー……
閉まるドアに向かって、ユキは呆然と座り込んだ。ズルズルとクマのぬいぐるみを引き寄せる。
「どうしよう、ベアトリクス……」
ホコリを取るオペをしながら、モモカが初めて見せた笑顔を思い出した。
下を向いていたからか、ポロポロと涙がこぼれた。




