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心の氷が溶けるまで  作者: 海月まったり


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第二十七章 目撃

挿絵(By みてみん)

 王宮からの連絡が届いたのは、翌朝のことだった。


「第二王子、マクロ様からですか?」


 ゼロはわずかに目を細める。


「行くのか?」


「はい。せっかくお誘いいただいたのですから」


 ファジーはそう答えたあと、少しだけ表情を曇らせた。


「……ゼロさんも、一緒に来てくれますか?」


「分かった」


 迷いのない返事に、ファジーはほっとしたように微笑んだ。


 王宮でのマクロは、終始穏やかだった。


 ファジーの話に耳を傾け、彼女が興味を持ったものについて丁寧に説明する。身分の差を感じさせない振る舞いは、王族という立場を忘れさせるほど自然だった。


「ファジー嬢は、本当に人のことをよく見ているんだね」


「そうでしょうか?」


「うん。君と話していると、こちらまで優しい気持ちになれる」


 そう言って微笑むマクロに、ファジーも少し照れたように笑った。


 少し離れた場所で待つゼロは、その様子を静かに見ていた。


 言葉遣いも、表情も、振る舞いも申し分ない。


 だが――あまりにも、整いすぎている。


 ファジーが笑えば、マクロも笑う。


 ファジーが困れば、すぐに助け舟を出す。


 偶然と言えば、それまでだ。


 ゼロはそれ以上考えるのをやめた。


 今はまだ、疑うだけの理由がない。


 夕刻、王宮を辞した二人は、屋敷へ戻る道を歩いていた。


「マクロ王子は、とてもお優しい方でしたね」


 ファジーが、どこか嬉しそうに言う。


「そうか」


「もう少し怖い方なのかと思っていました」


「……人は、見た目だけでは分からない」


「ふふっ。ゼロさんが言うと、説得力がありますね」


 その言葉に、ゼロは返事をしなかった。


 人の本性など、いくらでも隠せる。


 それを誰よりも知っているのは、自分自身だった。


 屋敷までの道のりは、まだ半分ほど残っていた。


「今日は、ありがとうございました」


 ファジーが隣を歩くゼロに微笑みかける。


「何がだ?」


「一緒に来てくださったことです。ゼロがいてくれたから、安心して過ごせました」


「……そうか」


 ゼロは短く答えた。


 その言葉が嘘ではないことくらい、分かっている。


 だからこそ、彼女の隣を歩く今の時間を、失いたくなかった。


「また、マクロ王子にお会いする機会があるといいですね」


「……ああ」


 返事をしながら、ゼロは周囲に目を向けた。


 人通りが少なくなっている。


 いつもなら気にも留めない程度の変化だった。


 だが、暗殺者として生きてきたゼロの感覚が、微かな違和感を告げていた。


 足音……二人のものではない。


 後方から、一定の距離を保ってついてくる足音があった。


 ゼロは歩調を変えず、視線だけを巡らせる。


 通りの向こうに、ひとりの男がいた。


 フードを深くかぶり、顔は見えない。


 偶然かもしれない。


 そう考えた直後だった。


 男が動いた。


 その手には、短剣が握られていた。


「ファジー、下がれ!」


 ゼロは彼女を背後へ押しやり、迫る男と向き合った。


 男が短剣を振り下ろす。


 ゼロは身をひねって刃をかわし、その腕をつかんだ。


 男は歯を食いしばり、空いた手でゼロの胸元を狙った。


 ゼロはその手首を押さえ、男の体勢を崩す。


「何故だ……」


 男が、かすれた声を漏らした。


 その声には、憎悪とも恐怖ともつかない感情が滲んでいた。


 ゼロは答えない。


 相手の動きを封じようと、さらに腕に力を込める。


 だが、男は抵抗するどころか、不意に力を抜いた。


「すまない……」


 男の口から、そんな言葉がこぼれた。


「何?」


 ゼロが聞き返す。


 その瞬間――男はゼロに押さえられている手を強引に自分の胸元へと動かした。


「――っ!」


 ゼロが異変に気づいた時には、もう遅かった。


 男は短剣を、自らの胸に突き立てていた。


 血が溢れる。


 ゼロは咄嗟に男の手を押さえたが、男の体から力が抜けていく。


「おい!」


 男の手から短剣が落ち、石畳の上で乾いた音を立てた。


 ゼロの手が、赤く染まっていく。


「おい、しっかりしろ!」


 呼びかけても、男は答えなかった。


 ただ一度だけ、何かを確かめるようにゼロを見上げる。


 その目に浮かんでいたのは、恐怖だった。


 やがて男の体から力が抜けた。


 ゼロはその場に膝をつき、男の状態を確かめた。


 息はない……脈も感じられなかった。


「……くそっ」


 ゼロは奥歯を噛み締めた。


 自分は殺していない。


 確かに、殺していない。


 だが、目の前でひとりの人間が死んだ。


 そして、自分の手は血に染まっている。


「ゼロさん……?」


 背後から、か細い声が聞こえた。


 その声に、ゼロの動きが止まる。


 振り返ると、ファジーが立ち尽くしていた。


 彼女の視線は、ゼロの顔ではなく、その手に向けられていた。


 赤い血……地面に横たわる男……。


 そして、その男を抱えるゼロ。


「……ゼロさんが」


 ファジーの唇が、かすかに震えた。


 ゼロはすぐに立ち上がろうとした。


「違う。俺は――」


 その先が続かなかった。


 何を言えばいい。


 自分は殺していない。


 男が突然、自ら命を絶った。


 それは事実だ。


 だが、今の彼女に、その言葉が届くのだろうか。


「……俺は、殺していない」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。


 ファジーは答えなかった。


 ただ、血に染まったゼロの手を見つめている。


 その瞳には、恐怖だけではない何かがあった。


 信じたいという気持ちと、信じることをためらう気持ち。


 その二つが、彼女の中でぶつかり合っているようだった。


「ファジー……」


 ゼロが一歩、近づく。


 彼女の肩が、小さく跳ねた。


 その反応に、ゼロは足を止めた。


 たった一歩……それだけの距離が、今までよりもずっと遠く感じられた。


「……ごめんなさい」


 ファジーが、ようやく口を開いた。


「少しだけ……考えさせてください」


 そう言って、彼女は視線を落とした。


 ゼロは何も言えなかった。


 彼女を責めることなど、できるはずもない。


 自分はこれまで、数え切れないほどの命を奪ってきたのだから。


 たとえ今回の死が、自分の手によるものではなかったとしても。


 血に染まった手が、それを否定してくれるわけではなかった。

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