第一章 絶対零度の暗殺者アノン
俺には、名前がない。
別に困ってはいない。名前がなくても、生きていくことはできる。
……まあ、正確には少し困ることもあるが……。
日常生活を送っていると、名前を答えなければならないことも少なくない。
「お名前は?」
そう聞かれたとき、毎回「ない」と答えるのも面倒だ。
だから俺は、自分をアノンと名乗ることにしている。
――unknown。
意味は「未知」。
我ながら、随分と適当な名前だとは思う。だが、俺にはそれで十分だった。
俺には、仮の名前があれば本当の名前など必要ない。
――そう思っていた。
この世界に生きる者は皆、生まれながらに一つの固有魔力を持っている。
炎を操る者や水を生み出す者、身体能力を強化する者。中には、本人にしか扱えないような特殊な力を持つ者もいる。
固有魔力とは別に、努力によって身につけられる魔法も存在する。暮らしに役立つ魔法や、誰でも学ぶことのできる簡単な攻撃魔法。魔法学校などで研鑽を積めば、より高度な魔法を扱えるようにもなる。
魔法は、この世界に生きる人々にとって特別なものではない。
それが、この世界の常識だった。
王都。
この国で最も多くの人間が暮らす巨大都市。その一角に、俺は暮らしている。
「おはよう、アノン!」
「……おはよう」
朝、家を出ると、近所の住人から声を掛けられた。
「今日も仕事か?」
「ああ」
「頑張れよ!」
「……ああ」
特に親しいわけではない。だが、嫌われてもいない。
俺は王都で、そういう暮らしを送っている。
朝になれば起きる。飯を食う。仕事をする。夜になれば眠る。
何の変哲もない日常。
それでいい。
俺には、それ以上は必要ない。
日が沈み、王都の喧騒が少しずつ静かになっていく。
俺は一人、人気のない路地裏を歩いていた。
昼間とは違う。周囲に人の気配はない。俺の足音も、ほとんど聞こえない。
やがて、一軒の古びた建物の前で足を止める。
「……」
扉を開ける。
中には誰もいない。ただ、机の上に一枚の紙が置かれていた。
俺はそれを手に取る。
依頼書。
そこに書かれているのは、一人の人間の名前。
そして――
暗殺依頼。
「…………」
依頼書を確認し、懐へしまう。
これまで何度も見てきたものだ。
依頼を受ける。標的を探す――殺す。
それだけ。
俺はこれまで、一度も依頼を失敗したことがない。
正確には――
標的を一人たりとも生かして帰したことがない。
裏の世界では、そんな俺を知る者もいる。ただし、俺の正体を知る者はいない。名前すらないのだから、当然と言えば当然だ。
俺の固有魔力を知る者もいない。誰かに見せたことなど、一度もない。
俺の固有魔力は――絶対零度。
あらゆるものから熱を奪い、凍結させる力。
それが俺の持つ固有魔力だ。
俺は、固有魔力以外の魔法を使うことができない。生活魔法も、攻撃魔法も。使えるのは、この力だけ。
その代わり――
俺は、魔法よりも物理的な戦闘を得意としている。
剣。短剣。体術。
暗殺に必要な技術は、一通り身につけている。
だから、魔法を使う必要などほとんどなかった。
「…………」
依頼書に目を落とす。
いつものことだ。
今回も同じ。
そう思っていた――標的の名前を見るまでは。
「……ファジー・オード」
そこには、一人の少女の名前が記されていた。
この国でも有数の財閥、その令嬢。
年齢、十七歳。
身分、貴族。
そして――
暗殺対象。
「…………」
俺は依頼書を見つめた。
これまでの依頼には、何かしらの理由があった。
裏切り。復讐。権力争い。犯罪。誰かの怨み。
暗殺を依頼される人間には、それ相応の事情がある。
だが――
「……妙だな」
依頼書には、そういった情報がほとんど記されていない。
ファジー。
オード家の令嬢。
そして、暗殺。
それだけだった。
「……まあ、いい」
俺は依頼書を折り畳む。
依頼を受けた以上、やることは変わらない。
標的を殺す……それだけだ。
俺にとって、人の死はさして特別なものではない。
誰かが死んでも悲しくない。誰かが生きても嬉しくない。
何かを欲しいと思うこともない。何かに執着することもない。
ただ死人のように生きている。
「……行くか」
俺は依頼書を懐にしまい、建物を出た。
夜の王都を歩く。
向かう先は、まだ知らない。標的の居場所を調べる必要がある。
それだけだ。
いつもと変わらない。
いつも通りに殺して終わる。
――そのはずだった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この依頼が、自分の人生を大きく変えることを。
そして――
俺が初めて、自分の意思で「殺したくない」と思う相手に出会うことを。




