第29話:失われた光と残されたもの
どれほどの時間、森の中を駆け続けたのか、覚えていない。
ただ、エリアを腕に抱き、無我夢中で、追手から逃れることだけを考えていた。
カサンドラの、最後の黄金の光が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼女は、死んだのだろうか。
いや、きっと生きている。聖女である彼女が、あんな形で命を落とすはずがない。
そう、自分に言い聞かせなければ、心が張り裂けそうだった。
「リアンさん……もう、大丈夫です……。少し、休んで……」
腕の中で、エリアがか細い声で言った。
俺は、そこでようやく足を止め、自分がとっくに限界を超えていることに気づいた。禁じ手を使った体は、まだ完全に回復しておらず、全身の関節が軋むように痛む。
俺たちは、森の奥深くにある、小さな洞窟に身を隠した。
エリアは、俺の傷の手当てをしようと、自分のワンピースの裾を破って、 その場しのぎの包帯を作ってくれた。
「……ごめんなさい……私のせいで、カサンドラさんまで……」
エリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……あんたのせいじゃない」
俺は、そう言うのが精一杯だった。
違う。俺のせいだ。
俺が、もっと強ければ。俺が、もっとうまく立ち回れていれば。カサンドラを、あんな危険な目に遭わせることはなかったはずだ。
自責の念が、鉛のように心を重くする。
洞窟の中には、重苦しい沈黙だけが流れていた。
その沈黙を破ったのは、洞窟の外から聞こえてきた、微かな物音だった。
「……!」
俺は即座に聖剣を構え、入り口を睨みつける。
追手が、もうここまで……!?
だが、暗がりから姿を現したのは、王都の騎士ではなかった。
それは、一羽の、巨大な鷲だった。
カサンドラを乗せていた、あの鷲だ。
「……お前は……」
鷲は、片翼を痛々しく垂れ下げ、足を引きずっている。ゼノンの嵐で、深手を負ったのだろう。
だが、その目は、確かな知性の光を宿して、まっすぐに俺たちを見つめていた。
鷲は、ゆっくりと俺たちの元へ近づくと、その嘴で、自分の背中を指し示した。
その背中には、鞍に結びつけられた、一つの革袋が残されている。
カサンドラの、遺品……?
俺は、震える手で、その革袋を解いた。
中に入っていたのは、数種類の薬草と、清潔な包帯。そして、一枚の、折りたたまれた羊皮紙だった。
羊皮紙を開くと、そこには、カサンドラの、優しく、そして、力強い筆跡で、こう記されていた。
『リアン、エリアさんへ
これを読んでいるということは、私は、あなたたちのそばにはいないのでしょう。
どうか、私のことで、心を痛めないでください。
これは、私が自分で選び、信じた道の結果です。後悔は、ありません』
そこまで読んで、俺は唇を噛みしめた。
涙で、文字が滲んで見えない。
『リアン。あなたは、昔から、一人で全部背負いすぎです。
でも、もう、あなたは一人ではありません。
あなたには、エリアさんがいます。
どうか、彼女の手を、決して離さないであげてください。
エリアさん。
あなたは、魔王などではありません。
誰よりも優しく、そして、強い心を持った、素敵な女の子です。
どうか、自分を責めないで。
そして、リアンのことを、支えてあげてください。
あの人は、あなたが思うより、ずっと不器用で、寂しがり屋なのですから』
手紙の最後は、こう締めくくられていた。
『私のことは、心配しないでください。
私は、聖女ですから。光は、決して、闇に敗れたりはしません。
いつか、必ず、あなたたちの元へ。
たとえ、この身がどうなろうとも、私の魂は、いつもあなたたちと共にあります。
あなたたちの旅路の先に、温かい光が待っていることを、心から祈って。
カサンドラ』
手紙を読み終えた時、俺の頬を、一筋の涙が伝っていた。
エリアもまた、声を押し殺して、泣いていた。
あいつは……カサンドラは、最後まで、俺たちのことを信じてくれていた。
この手紙は、彼女が、あらかじめ用意していたものだろう。
自分がどうなるか分からない状況で、俺たちのために、これを残してくれたのだ。
巨大な鷲は、俺たちが手紙を読み終えるのを静かに待っていたが、やがて、役目を終えたとばかりに、静かに立ち上がった。
そして、傷ついた翼を一度だけ大きく羽ばたかせると、夜の闇の中へと、再び飛び立っていった。
残されたのは、一枚の手紙と、そして、俺たちの心に灯った、小さな、しかし、決して消えることのない、温かい光だった。
「……行こう、エリア」
俺は、涙を拭い、立ち上がった。
「カサンドラのためにも、俺たちは、立ち止まるわけにはいかない」
「……はい」
エリアも、涙を拭って、力強く頷いた。
彼女の瞳には、もう、迷いはなかった。
俺たちは、多くのものを失った。
だが、失ったものと同じくらい、大切なものを、確かに受け取っていた。
仲間の想いを胸に、俺たちの、本当の意味での最後の旅が、今、再び始まろうとしていた。




