第28話:先代魔王の影
カサンドラがその身を投じた嵐の渦は、内側から迸る黄金の光によって、大きく揺らいでいた。
聖なる力と、破壊的な暴風がせめぎ合い、空は明滅を繰り返している。
「カサンドラ……! あの馬鹿……!」
ゼノンが、憎々しげに、しかしどこか苦しげに空を睨みつけている。彼にとっても、カサンドラを失うことは本意ではなかったのだろう。
その一瞬の隙。
俺は、腕の中に受け止めたエリアを抱きしめ、地面を蹴った。
逃げるなら、今しかない。
「リアンさん……カサンドラさんが……!」
腕の中で、エリアが悲痛な声を上げる。
「……今は、行くんだ! あいつの覚悟を、無駄にするな!」
俺は、エリアにそう叫ぶと、崩壊した街の瓦礫を飛び越え、ひたすらに駆けた。
ゼノンが、俺たちの逃亡に気づき、叫ぶ。
「――逃がすな! 追え!」
騎士たちが、一斉に俺たちの後を追ってくる。
だが、今の彼らの意識は、空で起きている壮絶な戦いにも向けられており、その動きは鈍い。
俺は、かつてギルヴァレスとの戦いで街に開けた、巨大な風穴へと向かった。
あそこを抜ければ、街の外壁を越え、その先の山脈へと逃げ込める。
「リアン、待ちさない!」
ゼノンの声が、背後から迫る。
だが、その時、空が、一際強く輝いた。
ドゴォォォォン!!
天を揺るがすほどの轟音と共に、嵐の渦が、内側から弾け飛んだ。
カサンドラの聖なる力が、ゼノンの魔法に打ち勝ったのだ。
暴風は霧散し、空には、再び静寂が戻る。
だが、そこに、カサンドラの姿はなかった。
ただ、黄金の光の粒子が、雪のように、きらきらと地上に降り注いでいるだけだった。
「……カサンドラ……」
ゼノンが、呆然と、その光景を見上げている。
俺は、その隙を決して見逃さなかった。
風穴を駆け抜け、街の外へ。そして、山脈の深い森の中へと、その姿をくらませた。
カサンドラの犠牲によって、俺たちは、かろうじて、九死に一生を得たのだ。
――その、まさに同じ頃。
遥か北の地。万年雪に覆われた、凍てつく山脈の奥深く。
そこには、古代の魔族が築いたとされる、巨大な地下神殿が存在した。
神殿の最奥。
禍々しい紋様が刻まれた祭壇の上で、一人の魔族が、静かに瞑想に耽っていた。
その魔族は、まだ若く見えた。人間で言えば、二十代前半といったところか。
鋭い顔立ち、白銀の長髪、そして、閉じられた瞼の下にあるであろう、血のように赤い瞳。
その体からは、ギルヴァレスすらも凌駕する、底知れない魔力が、静かに溢れ出ていた。
彼の名は、ゼーリオン。
古の魔王の血を引く、純血の魔族。
そして、ギルヴァレスが、長年探し求めていた、先代魔王の魂を受け継ぐに相応しい、新たなる『器』だった。
不意に、ゼーリオンは、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
その赤い瞳が、虚空を睨みつける。
「……ギルヴァレスが、やられたか」
彼は、まるで他人事のように、淡々と呟いた。
「……フン。あの勇者め、余計なことを。……まあよい。所詮、ギルヴァレスはその程度の男だったということだ」
彼は、祭壇からゆっくりと立ち上がると、神殿の壁に飾られていた、一枚のタペストリーへと視線を向けた。
そこには、一人の美しい女神の姿が描かれている。
だが、その女神の顔は、なぜか、無残に引き裂かれていた。
「計画が、少し早まっただけの話」
ゼーリオンは、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべた。
「勇者リアン……。そして、我が父祖の魂を宿す、哀れな人間の娘よ」
彼は、まるで、遠い場所にいる俺たちの姿が、見えているかのように語りかける。
「お前たちの、その儚い『絆』とやら。私が、この手で、断ち切ってやろう」
「もはや、ギルヴァレスのような生ぬるいやり方はせん。私が自ら、出向いてやる」
ゼーリオンの体から、黒い魔力のオーラが、炎のように立ち上った。
その魔力は、先代魔王のそれとは、どこか異質だった。
憎悪や破壊だけでなく、もっと冷たく、計算され尽くした、絶対的な『無』へと還さんとするような、恐ろしい力。
「待っていろ。すぐに、楽にしてやる」
そう呟くと、ゼーリオンの姿は、影に溶けるようにして、その場から掻き消えた。
彼の玉座であったはずの祭壇には、一輪の、黒い薔薇が、まるで血を吸ったかのように、妖しく咲いていた。
ギルヴァレスという駒を失ったことで、真の黒幕が、ついに動き出す。
俺たちの旅に、これまでとは比較にならない、絶望的な脅威が、静かに、しかし、確実に、迫ってきていた。




