第23話:星降りの高原
残された時間は、三日。
その宣告は、まるで死刑執行までの猶予期間のように、重く俺たちの心にのしかかっていた。
ゼノンは、俺たちが泊まる宿屋の周りを、王都騎士団に固めさせていた。逃亡は不可能。俺の傷も、カサンドラの治癒魔法があったとはいえ、全快には程遠い。満身創痍のこの体で、騎士団を突破し、エリアを奪い返すことなど、万に一つも望みはなかった。
八方塞がりだった。
俺は、ベッドの脇で、ただ無力に拳を握りしめることしかできない。
焦りと、己への怒りで、腹の底が煮え繰り返るようだった。
そんな俺の様子を、ベッドに横たわったままのエリアが、静かに見つめていた。
彼女は、もう涙は見せなかった。ただ、どこか達観したような、穏やかな表情を浮かべている。
「……リアンさん」
夜になり、窓から月明かりが差し込む頃、エリアが不意に俺を呼んだ。
「……なんだ」
「……お願いが、あります」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「私、ここから見える、あの山の上に、行ってみたいんです」
エリアが指差したのは、窓の外、街の向こうにそびえる、ひときわ高い山の頂だった。ドワーフ・フォートの民が『星降りの高原』と呼ぶ、風の強い高原だ。
「……何を考えている」
「あそこなら、きっと、星が綺麗に見えると思うんです」
エリアは、静かに微笑んだ。
「本で読んだことがあります。空気が澄んでいて、雲よりも高い場所では、星が、まるで宝石をばらまいたように、降ってくるように見えるって」
それは、現実逃避にも似た、あまりにも非現実的な願いだった。
この状況で、星を見たい、だと?
「馬鹿なことを言うな。今はそんな場合じゃ……」
「……最後、なんです」
エリアの言葉が、俺の言葉を遮った。
「もう、分かっています。リアンさんが、どんなに頑張ってくれても、私が助からないことくらい。……だから、最後に、綺麗なものを、目に焼き付けておきたいんです」
その瞳は、覚悟を決めた者の瞳だった。
彼女は、自分の運命を受け入れている。
そして、残されたわずかな時間で、ささやかな夢を叶えたいと、そう願っているのだ。
「……リアンさんと、一緒に見たいんです。ダメ、でしょうか?」
そんなことを言われて、断れるはずがなかった。
俺は、しばらく黙り込んだ後、大きく息を吐き出した。
「…………分かった」
俺がそう答えると、エリアは、心から嬉しそうに、花が綻ぶように笑った。
「ありがとうございます……!」
問題は、どうやって騎士団の包囲を抜けるか、だ。
正面から突破するのは、不可能。
俺は、宿屋の構造と、街の地図を頭の中で組み立て、一つの可能性に思い至った。
「……エリア、立てるか」
「はい、少しなら」
「よし、行くぞ」
俺は、エリアの肩を貸し、部屋の窓を開けた。
幸い、俺たちの部屋は二階だった。窓の外は、隣の建物の屋根に繋がっている。
眼下では、騎士たちが見張りをしているが、まさか手負いの俺たちが、屋根を伝って逃げるとは思うまい。
「……怖いか?」
「いいえ。リアンさんが、一緒ですから」
エリアは、俺の腕にしがみつきながらも、力強く頷いた。
俺たちは、月明かりだけを頼りに、屋根から屋根へと、慎重に飛び移っていった。
俺の体は、動くたびに悲鳴を上げたが、そんな痛みは無視した。
ただ、エリアの最後の願いを叶える。その一心だった。
街を抜け出し、山の麓に辿り着く頃には、東の空が白み始めていた。
そこからの登山は、過酷を極めた。
獣道すらない、険しい山道。俺はエリアを背負い、傷だらけの体で、ただひたすらに頂上を目指した。
そして、その日の夜。
俺たちは、ついに『星降りの高原』に辿り着いた。
そこは、エリアが言った通り、別世界のような場所だった。
吹き抜ける風は冷たいが、空気はどこまでも澄み渡っている。
そして、頭上に広がる空には――
「…………わ…………」
エリアが、息を呑むのが分かった。
言葉を失うほどの、満天の星空。
天の川が、白く輝く帯となって夜空を横切り、大小無数の星々が、まるで手の届きそうなほど近くで、ダイヤモンドのように瞬いている。
時折、流れ星が、すうっと尾を引いて、夜のキャンバスを駆け抜けていった。
「……きれい……」
エリアは、俺の背中から降りると、よろめきながら一歩、前へ出た。
そして、まるで星々に手を伸ばすかのように、夜空を見上げている。
「……こんなに、綺麗なものを、初めて見ました……」
その横顔は、星の光に照らされて、幻想的なまでに美しかった。
彼女の紫色の瞳には、キラキラと、無数の星が映り込んでいる。
俺は、何も言わず、ただ、その隣に並んで、同じ空を見上げた。
ゼノンのことも、王都のことも、エリアの余命のことも。
その瞬間だけは、すべてを忘れることができた。
ただ、美しい星空の下で、一人の少女と、一人の男がいる。
それだけで、十分だった。
この光景を、エリアに見せてやれた。
その事実が、傷ついた俺の心を、静かに満たしていく。
もし、神様がいるのなら。
どうか、もう少しだけ。
この穏やかな時間が、続きますように。
俺は、生まれて初めて、そんなことを祈っていた。




