1 大丈夫
「ごめん。君とは結婚できない」
そう言われることは、どこかで予想していた。
だから涙一つ出てこない。
「そう……仕方ないよ」
私はトレイを手に立ち上がった。
そんな私に、彼が申し訳なさそうに言葉を重ねる。
「君は強いから、一人でも大丈夫だよ」
「そうだね……」
「じゃあ……さようなら」
「さようなら」
彼に背中を向け、一度も振り返らずに店を出た。
ここは会社から少し離れたチェーンのカフェ。
急いで戻らないと、午後の打ち合わせに間に合わない。
◇
会社に戻るやいなや、後輩から声がかかった。
「小川先輩、すみません。営業の田中さんから『今日中にこの契約書を見てほしい』って言われたんですけど……」
「あー……またあの人ね。いいよ、半分こっちに回して」
そう答えながらパソコンを開く。
そろそろ開発部の崎山さんと会議の時間だ。
オンライン会議に接続すると、イヤホン越しに硬い声が響いた。
「このアンドロイドの新機能について、法律的には問題ないですか?」
手元の資料にパラパラと目を通しながら答える。
「んー……法的には問題ないですが、世論的には少し炎上するかもしれませんね」
いつもなら愚痴りたくなる忙しさ。
けれど今日ばかりは、それがありがたかった。
別れ話を昼休みにすませて正解だったのだ。
彼のことを考える暇なんてない。
……いや、もう「元カレ」か。
定時を過ぎてようやく打ち合わせが落ち着き、残った契約書の確認に入る。
少し周囲が静かになってきた十九時過ぎ、同期の加奈ちゃんが席にやってきた。
「栞。今日はまた一段と張り切ってるねー」
「波に乗ってるのよ」
「延原君とのデートはいいの? 結婚近いんでしょ?」
「あー、別れた」
さらりと報告すると、加奈ちゃんが目を丸くした。
「へー……はぁ?! なんで!?」
「ちょっと、しー!」
慌てて周りを見回しながら、唇に指を立てる。
「はぁ……」
ひとつ息を吐き出し、取って付けたような理由を口にした。
「んー、『価値観の違い』かな」
「何それ……」
パタンとパソコンを閉じて、大きく伸びをした。
「終わったー! さっ、そろそろ帰ろ?」
笑って声をかけると、加奈ちゃんはまだ信じられないといった顔をしている。
「んー、さすが栞だね。切り替え早すぎ! 飲みにでも行く? うちの彼氏もそろそろ来るけど、良かったら一緒に……」
そんな会話を交わしながらビルを出ると、夜の冷気が肌を刺し、思わず自分の二の腕をさすった。
ふと見ると、加奈ちゃんの彼氏が車で迎えに来ていた。
「私は一人で大丈夫。また月曜日にね!」
「そう?……じゃあ、またね」
自宅の最寄り駅に着き、駅前のコンビニに立ち寄る。
缶ビールと煙草を買い、店脇の細い路地に入り込んだ。
自宅周辺は賑やかだ。
一人暮らしを始めた頃は、もっと静かな場所の方が良かったかもと思った。
けど今は騒がしい街のノイズが心地よかった。
壁際に置かれた適当なプラスチック箱に腰を下ろす。
缶ビールを開け一口あおる。
冷たいビールが渇いた喉を落ちていった。
そして煙草に火をつけ、ふーっと紫煙を吐き出す。
目の前の室外機から生ぬるい風が吹き出し、冷えた肌を撫でる。
ゴミ置き場の方からは焼き鳥の香ばしい匂いと、酸っぱい生ゴミの臭いが混ざって漂ってきた。
今はまだ、あの一人の部屋に帰りたくない。
だからと言って、店に入る気にもなれなかった。
楽しそうに笑って話す男女の姿なんて、今は見たくない。
もう一度、煙草を深く吸い込む。
そして、ゆっくりと煙を吐き出した。
数年ぶりの煙草とビール。
「『一人でも大丈夫』かぁ……」
ポツリとつぶやいた声が、暗闇に消える。
ガサッ。
ゴミ置き場に並んだ大きなごみ箱の奥で、何かが動く音がした。
息をひそめて暗闇を覗き込む。
乱雑に積み上げられた段ボールの陰に、人?
違う――
一体のアンドロイドが、じっとうずくまっていた。




