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身に起きた異変は、思った以上に深刻なのかもしれない。忙しなく人の行き交う夕刻の街並に身を置き、壱八は嫌というほどその認識を強くした。
まずは霊能者筧要も得意とし、異能の定番ともいえる透視能力を、道すがら実験することから始まった。
路上に捨て置かれた新聞や雑誌の種類を、手翳しだけで言い当てる。買い物客のぶら下げているエコバッグを、外側から見て取る。本能の赴くまま、道行く女性の洋服の内側を透かし見ようと努めたりもした。
これは徒労に終わった。一般的に透視、千里眼と呼ばれる能力に関しては、身についていなかった。物の陰に隠れたものは、どうやっても視界には映らず、額の傷にも不審な動きは感じられなかった。壱八はほんの少し安心した。透視の幻覚もしくは妄想の前兆は皆無だった。
引き続き、これも異能の代表格である予知能力の実験に着手した。駅近くのデパートに隣接したファーストフード店は二階部分に出入り扉があり、その手前に階段と上りエスカレーターが並んで設置されている。結構な勾配なので、階段の真下にいても店の扉口は視野に入らない。
階段の全景が見える地点にまで移動し、付近にあった手頃な鉄柵に腰かけ、日の落ちかけた店の方向を眺めやる。店を出て、階段上に姿を見せた人物の性別を予想しようというのだ。もし予知能力が備わっていれば、どれほど回数を重ねても言い当てる確率は十割にそう遠くならないはずだ。見た目と心の性別不一致や、知り合いの占者のような例外は洩れなく棚上げすることにした。そこまでいちいち確認などしていられない。コイントスの裏表を当てるというよりスマートな方法もあったが、財布を部屋に置き忘れたので今回はお預けとなった。
五十人余りの出入り客を対象に行った実験結果は、またしても壱八を喜ばせるものだった。一瞬たりとも額は疼くことなく、的中した性別は総数の半分にも満たなかった。予知能力の妄想も、今のところ発症してはいないようだ。
幾分、気が楽になった。ことのついでに、念動の能力もなくなっていやしないだろうか。手首から外した腕時計を掌に乗せ、なるべく人目につかぬよう両の手を下腹の辺りに置いた。掌中の時計を凝然と見つめ、心の中で動けと念じ始める。そういえば、壊れた時計を直した動画の自称エスパーも、頻りに動け動けと呟いていた。随分陳腐な言葉だが、他に思いつく適当な言葉もない。
「ちょっとよろしいですか」
頭上から、唐突に声をかけられた。
肝の冷える思いで顔を上げる。道路脇の柵に座る壱八を、上から覗き込むようにして立っていたのは、三十路過ぎと思しき痩躯の女性だった。乾燥し、光沢の失せた髪に窶れた様子が顕著だが、化粧っ気のない顔立ち自体はさほど衰えもない。
「突然声をかけてしまって申し訳ありません。あの、わたし、怪しい者ではございませんので。ええ、決して」
いきなり声をかけてくる赤の他人は大抵が怪しい連中と経験則で判っている壱八は、疑わしい態度を崩さなかった。
「こちらをご覧になったことはありますか」
女性はどこからか取り出した大判の薄い冊子を、反射的に腕時計を隠し持った壱八の胸許に恭しく差し出した。
見憶えのない表紙だが、タイトルと表紙イラストで、すぐに宗教関係のパンフレットと判った。
厄介なのに捕まった。壱八は慌ててその場を立ち去ろうと腰を浮かしかけたが、それを見た女性は更に慌てて、
「待ってください。怪しい者ではないのです」
怪しさを実感した頃には、手遅れかもしれないのだ。迷惑そうな表情のまま、どうやって彼女を追い払おうか思案する。
「我々は、そこら辺の悪徳商法じみた新興宗教とは根本的に違うのです。サナート・クマラをご存知ですか。我々鳩摩羅教団は、シヴァ神の第一子にして金星の化身でもあるクマラ様を唯一の拠り所とし、絶対的に帰依する格式ある宗教団体なのです」
文章を朗読するように、一方的に捲し立ててきた。自分の言葉に酔っているのか、女性の双眸が次第に狂信的な、危険な輝きを帯びていくのが見て取れた。
本来なら、何も言わずに脱兎の勢いで逃げ出すところだが、今、壱八はとても虫の居所が悪かった。人の神経を逆撫でするような無機質な声音が、苛々に拍車をかけた。
「根拠は」
「は?」
「だから根拠。格式だの何だの言ってるけど、根拠は何ですか」
「根拠はあります。もちろんあります」
そう言ったものの、教団の女性信者は語を継ぐことができなかった。
「クマラだか何だか知らないけど」壱八は更に言い返した。「そんな神様、本当にいると思ってるんですか」
自分でも驚くほど響く声に、女性の骨張った撫で肩が微かに震えた。狂い咲いた華が急激に萎れるように、不意に弱々しい眼つきになった。
「クマラ様は、おられます。今この瞬間も長庚の大地より、地球上の生きとし生ける者たちを、見守っておられるのです」
繊細なトーンの躊躇いがちな声。
そのときだった。
壱八の額に痛痒感が走った。またあの傷口だ。額が疼けば何かが起こる。次は何だ。
壱八は達観気味に相手の顔を見返した。瞬間移動の幻覚でも現れてくれれば、この場を切り抜けるのにえらく重宝するのだが。
テレポーテーションの能力が発揮されることは、残念ながらなかったが、代わりに壱八の心が捉えたのは、情報の奔流とでも言うべき、思念の塊の如き、奇妙な何かだった。眼に見える物体でなく、耳に聞こえる音波でもなく、心の中に直接響き、語りかけてくる何か。それも、強く否定的な感情で埋め尽くされた、深刻な気配に満ちた何かだった。
五感以外の感覚にのみ訴えかけてくるその不定形の思念は、額の疼きに伴って、穴から侵入する細菌のように脳内に喰い込み、分け入り、やがて一つの単語を意識の表層に喚起させた。
否、否、否、否否否……。
思考の分裂。断続的な発生。留めどない同語反復。言葉は出口のない合わせ鏡をわらわらと増殖し続ける。際限なき脳髄の迷宮を、同じ一つの文字で永久に満たさんとするかのように。
彼女の言っていることは、嘘だ。彼女は神の存在を信じてなどいない。何故なら。
傷口の疼きが急に収まった。そのまま意識を埋め尽くすかに思われた思念の奔流も、同時に消失した。
眼前の女性が、我に返った壱八の顔を心配そうに見つめている。意識が戻るまでの間、よほど恐ろしい形相をしていたのか。壱八を見る女性の眼には怯えの色が明らかで、二、三度しゃくり上げたかと思うと、
「すみません。ごめんなさい。申し訳ありません」
そう言い残し、顔を覆って駅の方角へ走り去った。
「……何なんだ」
駅に向かう人込みに彼女が紛れ、完全に姿を消すまでを見届けてから、改めて柵に腰を預けた。
たった今、己の身の上に起こった出来事が、何を意味しているのか。壱八自身も薄々感じ取ってはいたが、どうにも認めたくなかった。こんなふざけた話があっていいのか。たまたまコンクリートの床に頭を強く打ちつけたくらいで、どうしてこんな妄想まで一手に引き受けなくてはならないのか。物質移動の幻覚だけで手一杯なのに。
力なく立ち上がり、壱八は背を丸めて雑踏のほうへ歩き出した。部屋に戻る前に、今一度確かめておきたいことがある。
壊れた機器の修復、物質の移動に続く第三の症状。それが妄想であれ悪夢であれ、具体的にどんな効果を持っているのか、何としても知っておきたかった。
部屋に独りでいては実験にならない。先程の宗教勧誘の女性のように、三つ目の症状を調べるには、他者を実験対象とする必要がある。
「否、否、否……」
壱八の心に押し寄せた思念の波。あれは、眼の前にいた女性から発せられた、声なき声ではなかったのか。




