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エレベーターを出てすぐ正面に見える部屋が四〇一号室。扉横の表札に〈南〉とある。左手側は小窓のついた壁しかない。外廊下は右側にだけ延び、各部屋が正面続きに十ほども並んでいる。その終いの部屋の前にも、エレベーター横のものと同じ造りのコンクリート階段が見えた。廊下全体を照らす蛍光灯の列が、眩いくらいに白々と明るい。
「さて、今日こそは天下のプロデューサー大先生に、何もかも打ち明けてもらいましょう」
「タクシー代も自前だしな」
「君は一銭も払ってないでしょうに」
ドアの前で胸を張り、将門は表札下のインターホンを拳骨で殴るように押し叩いた。あまりに乱暴な押し方に、お前は朱良か、と言いかけたのとほぼ同時に、部屋の中から甲高い絶叫が洩れ聞こえた。
「……何だ」
壱八は要領を得ない顔で相変わらず扉に眼をくれていたが、余韻も残さず悲鳴が静寂の中に掻き消えると、将門は獲物を襲う猛獣さながらドアに飛びついた。
「入りましょう。嫌な予感がします」
「え?」
将門はドアノブに手をかけ、扉からもぎ取る勢いで何度も何度も強く捻った。遠慮のない荒っぽい手つきに、扉全体がガタガタと前後に揺れた。
ドアは開かない。内側から鍵がかかっていた。
「南さん!」
一際大きな声でそう叫び、将門は鋼鉄の扉を力任せに叩いた。手加減を忘れた乱打に加え、上擦った呼びかけが空虚な外廊下に不気味に反響した。
「南さん、どうしました? 南さん!」
「お、おい、将門」
状況を把握できない壱八は将門の変わりように眠を瞠り、言い知れぬ恐怖すら覚えた。悪寒が背筋を這い上り、口許の筋肉が一瞬で硬直した。
「南さん! 早く聞けて! 何があったんです?」
「将門! どうしたんだよ、おい」
将門の肩を掴んで強引に揺さぶりながら、壱八は唇を震わせて叫んだ。
動きを止め、こちらを顧みた将門の相貌は、まさしく恐慌状態にあった。乱れた呼吸、見開かれた両、汗で光る額に張りついた前髪、血の気の全くない両の頬。
「何ぼーっとしてるんですか、君も手伝って、早く」
息を切らしてそう詰り、なおも将門は開かれる気配のない扉を外側から叩き始める。
「待てよおい、どうしたんだ急に」近所迷惑という言葉をどうにか喉許に呑み込み、低い声で問い質す。「彼女に何かあったってのか」
「そうです。手遅れでなければいいのですが、あの悲鳴」
将門は痛々しい面持ちのままドアに向き直った。
「いやあれ、テレビの音声か何かだろ」
「違います」
「彼女の声とは限らない」
「彼女の声です。君だって彼女の声は知ってるでしょう」
知ってはいるが、壱八に聞き覚えがあるのは普段の話し声だ。さっきの悲鳴と同定はできない。
「もう手遅れかもしれません。取り敢えず警察に連絡を」
「警察、か」
「ええ」
「俺がか」
「南さん、開けてください! 南さん!」
ドアとの格闘に戻る将門。
渋々スマホを取り出したものの、そこで壱八の動きは鈍くなった。未だかつて警察に電話をかけたことがなかったからだ。一一◯番で繋がるのか? スマホからでも?
「なあ、将門」
「南さん! 南さん! なんです?」切羽詰まった様子の将門に、ようやく問いかけが届いた。
「警察って、普通にヒャクトオバンでいいんだよな」
「知りませんよ。スマホ持ってない人にそれ訊きます?」
確かにそうだ。
「開けてください! 南さん!」
カバン持ち兼緊急連絡係の存在を、将門は再度意識から消したようだ。あらん限りの大声を前に、壱八は立ち尽くすしかなかった。
そのときだった。音もなくドアが動いた。
暴行を甘受する件のドアではなく、隣の二号室のドアが。
住人らしき細面の男性が、外廊下で演じられている将門の狂態を、開いた扉の隙間から驚きの眼差しで覗き見ていた。
「まだ警察呼んでないんですか。それ貸して」
壱八の手からスマホを引ったくり、電話はどこですとめちゃくちゃにアイコンをタップする将門。聡明な見た目とは裏腹に、将門は壮絶なテクノロジー音痴だった。
「お隣、どうかしたんですか」
相手の出方を窺うように、びくびくした口調で隣室の男性が尋ねてきた。声に劣らず、体格も虚弱体質を絵に描いたような細い二の腕と白い顔。試験勉強でずっと部屋に籠りきりなのか、シャープペンシルを握る手も白磁のように白い。
「悲鳴? みたいなのが、聞こえたような」将門を怖々と見つめながら、色白の男性は弱々しく言葉を継いだ。「気が、したんですけど」
ようやく隣人の存在に気づいた将門は、扉を叩く手を不意に止め、相手を指差すと、
「管理人はどこです、ここの管理人は」
更に怒鳴った。
「か、管理人室なら、下の階に」
「何階です? 一階二階三階?」
「い、一階」
「一ですね。君、警察呼んでください。ここの住人が大変なんです。大至急!」
将門の叫びが、壱八の薄れかかっていた記憶から、収録スタジオでのカメラマンの叫び声を鮮明に呼び覚ました。
「警察?」
「この部屋の中で、殺人事件が起きたかもしれません。早く警察を」
「さ、殺人?」まさかという顔だが、その色は白を通り越して蒼に近かった。
「早く!」
「は、はい」
青年は慌しく部屋扉を閉ざした。
これでまた錯乱気味の呼びかけが始まるのかと思いきや、将門はスッとドアから離れ、
「管理人を呼んできます。君はここにいて。ここから絶対離れないで」
言うが早いか、身を翻してエレベーターに飛び込んだ。壱八のスマホを持ったまま。
「あ、おい」
ドアが閉まり、将門もまた壱八の視界から消えていなくなった。エレベーターの階数表示は見る見る下っていき、四階廊下にいるのは壱八ただ独りとなった。
将門の起こした騒ぎのせいで、鼓動と脈拍はえらく活発になっていたが、その反動だろうか、周辺の空気はやけに重く滞った感じがした。
一号室の扉をまじまじと眺める。女性の絶叫が一度聞こえたきり、どんなに将門が叩いても、扉の向こうからは何の反応も返ってこなかった。
背筋がゾクリとした。今になって将門の嫌な予感が伝染ったのか。悪寒を振り払うように部屋扉から横の小窓に眼を転じた。
心の縁に、チクリと刺さる何かがある。その見えない棘に自ら引き込まれるように、壱八は占い師の行動に意識を向けた。
将門は室内から聞こえた悲鳴を、プロデューサー本人のものと判断した。部屋のテレビからたまたま流れた、サスペンスドラマの音声ではないと。
何故そう言い切れる? 先日聞いた話し声と、そんなに似ていたか? 将門の耳を疑うわけではないが、等号で結ぶには声のトーンに差がありすぎる。
南枳実はテレビ番組制作会社の人間だ。編集目的で、そういった音源を帰宅後チェックするかもしれない。ボリュームの大きさについては、もう少し詰めて考える必要がありそうだが。
警察まで呼んでおいて、もし先刻の悲鳴がテレビ音声か何かだったら、将門はどう落とし前をつけるつもりなのだろう。




