「吸血鬼 後編」
「初めまして、かしら?」
「どうだったかな?」
女=山崎カオルと俺はそう挨拶を交わした。
カオルの第一印象は極めて恐ろしいことに〝普通"だった。
平凡な顔立ち、ありきたりの化粧、十人並みの容姿で体型も取り立てて特徴が無い。服装も今時で目立った部分も乱れた部分も無い。美人でも無いが醜くも無い、愛想も悪くは無い。一言で言えば〝普通"だ。
普通の人間が普通の態度でそこに座っている。
ごくごく当たり前の光景。
だが、首筋がチリチリする。
俺が長年培ってきた探偵のカンって奴が大音量で警鐘を鳴らしている。
俺はこういうタイプに会うのが初めてじゃ無い。
他人の記憶にすら残らないほど気配を殺し、世間というモノに溶け込み、そして速やかに“仕事”を遂行する。
たまにいるのだ、そういったプロ中のプロが。
そう、数日もすれば忘れてしまうほどに平凡なその姿。その物腰。
だが、それが重要参考人ともなれば話は別だ。
そう、そんな姿であるはずが無い。
もしもこの女が俺の依頼人二人を殺した犯人なのだとしたら、その〝普通さ"がすでに異常なんだぜ。
俺は一秒たりとも女から目を離さずに警戒を続けながら話を聞いた。
ふん────
俺は心の中でだけ鼻を鳴らした。
プロならばこの姿は仮初めのもの、いや本当の姿なんて元々無いんだろうな。
高見沢も須藤もこの女をあれほど必死に探していた。どれだけの美人が現れるかと期待していた割には肩すかしを食った気分だが、ふん、プロならば当然だ。男の前なら女優にも娼婦にもなるんだろう。
年の頃は二十代後半に見えるが、これも本当はどうだかわからないな。
俺は騙されないぜ、山崎カオル。
「噂通りの人ですね。」
カオルは俺の態度を見るとそう言った。
「元締めの紹介で来ました。困った時は貴方を頼れ、と。」
元締め・・・どこの組のモンだ?
……………
形通りの挨拶と手続きを済ませた後、俺たちは確信に踏み込んだ。
「あんた、何モンだ?目的は何だ?」
少し驚いた表情、だがカオルはすぐに全てを無駄と察してかぶりを振った。
話そうとして少しだけ口籠り、「信じてくれない・・・とは思いますが。」と続けた。
「私は、“吸血鬼”です。」
その告白で俺はあの組織の一員だと解釈した。
「やはり信じてませんね。」
何故かカオルは苦笑していた。
「目的・・・と言われても困るのですが・・・、助けて欲しいんです。」
カオルは少し焦っていたようだった。
それでも根っこの部分はやはり俺たちとは違う。ダメならダメでいい、助けて欲しいと言いつつ、助からなくても構わない。そんな響きと表情。瞳の中の翳り。
俺は「誰を?」と聞いた。
カオル本人を助けるという選択肢は無かった。この女はそんなタマじゃない。
ならば、誰を?
そしてカオルは静かに話を始めた。
自分が吸血鬼であること。
静かに暮らしたいという願いがあること。
しかし“組織”がそれを許してくれなかったこと。
何度も組織から逃げ、誰かにかくまってもらっていたこと。
そのたびに連れ戻され・・戻らざるを得ない状況にされたこと。
「私は、“人間”を甘く見ていました。私の力をもってすれば・・・人間なんて羽虫のようなモノ・・・ずっとそう思って生きてきたのに・・・
人間って・・・あんなに怖くて・・・ずるい生き物なんですね・・・。」
組織の中に、唯一心を許せる人が出来たこと。
その人は、カオルが手を汚すことを望んでいないこと。
もう、
組織から抜けたいと思っていること。
自分一人なら簡単に消えられる。しかし、その助けたい人はすでに薬漬けで、カオルを逃した事がわかればタダでは済まないだろう、ということ。
俺は話しを聞き終えると、静かにコーヒーのカップを置いた。
「随分と自分勝手なんだな。」
俺はカオルから目を逸らさずに言い放った。
「高見沢と須藤は俺の依頼人だった。」
その名前にカオルの眉がわずかに動く。
「あの人達には・・・悪いことをしたわ・・・。」
首筋がチリチリする。
「でも、あの人達が悪いのよ・・・私を追いかけようとするなんて。」
少しうつぶせ気味のカオルの目が、薄く赤く光っているように見える。
「そんなこと・・・組織が許すはず無いじゃ無い。」
なんだこの殺気は!やはりこの女、ただ者じゃない!
一気に真冬の川に投げ込まれたようだぜ。
俺ののどがごくりと鳴った。
人間のことを羽虫と呼んだのは別に比喩でも大げさな表現でもなさそうだ。あの人達、という言葉。“あの二人”ではなく“あの人達”。高見沢と須藤の他にも消された人達がいるってことか。
どうやらとんでもない事に巻き込まれたようだ。
……………
俺の“仕事”は助け出したその人を逃亡させることだった。
俺の知り合いならなんとか出来る。この街でなんとかならないことはない、そんなツテだからな。
助け出す行程はカオル一人が行うことになった。
俺じゃ足手まといにしかならないだろうしな。カオルも最初からそこには期待していなかった。
「皆殺しという手も考えたのですけど・・・。」
カオルはさらっと怖いセリフを口にした。
「“組織”は思っていたよりも強大でこの国に根を深く張っています。私ですらその全貌を計り知れていません。大きな恨みを買うのは得策ではないと考えました。
だから私は一人も殺さず、いや、誰にも気付かれずにあの人を連れ出してきます。
貴方は連れ出してきたあの人を海外の病院に送り届けて欲しいのです。
私は・・・
ほとぼりが冷めるまで“組織”に残ります。
ふふ・・・そんな変な顔をしないでください。
別に私は駆け落ちをしようというのではないんですよ。
ただ、あの人が助かればいいんです。
私が残ればあの人が消えたことも、それほど大事件として取り扱われないでしょう・・・
ええ、自分勝手なのは重々承知です。
私は本当に“人間”が怖いんですよ。
化け物よりもなお化け物。
人の欲望と狂気こそが、本当の恐怖なんですよ。
わかりますか?
本当に怖いんですよ、人間は。
こんな私から見ても。」
カオルは静かに、そして少しだけ寂しそうにそう語った。
血も涙もない“組織”の殺し屋だと俺は思っていたが、それでも誰かを助けたいと思っちゃいけない理由なんて無いだろう。
もしも、そう思える人が一人でも居るのなら、それがもし欺瞞だとしても大切にしたいと俺は思った。
俺は気になっていたいたずらをぶつけてみることにした。
つまり、もし、俺が断ったら?という事を。
「困りましたね。」
ちっとも困った様子など見せずにカオルは言った。
「そうなると貴方にも消えてもらわなければならないのですが・・・邪魔しますよね、当然。」
そしてチラッと横目でベイウィンドウを見た。
俺も気がつかなかったが、いつの間にか居候の三毛猫がそこにいて、じっとカオルを睨みつけていた。
おい、馬鹿、とっとと逃げとけ。
まあ、断る気はないが。
……………
月の綺麗な夜だった。
俺たちはS県の、都心からそう離れていない山の中ほどまで来ていた。
個人所有の山にあまり人気のない、昔ならサナトリウムと呼ばれるような建物が建っていた。
建物は三階建てだった。白い外壁が清潔感を醸し出し病院のような印象を与えてくれるが、すべての窓に鉄格子がはまっている。もうそれだけでただの施設では無い事は明らかだ。
辺りに街灯などは一つもない。
道路からもかなり離れて奥まった所にあるため、月明かり以外に光はない。
おあつらえ向きだぜ。
俺たちは近くの繁みに身を隠した。
ふと、カオルが俺に人差し指を空に向けながら目配せした。何か飛んでいるのかと見上げてみたが、そんな事はなかった。
空には綺麗な月が浮かんでいるだけだ。
何かあるのか?と、カオルに聞こうと思い、そしてカオルの姿が無い事に気が付いた。
やられた、という程でもないが。背筋が寒くなる位の見事な消えっぷりだ。物音ひとつ立てずにこの繁みから消えるなんて、プロはすげえな。
木の葉一つも揺れていない。まるで煙のように消えてしまったのだ。
あの日、俺の事務所から消えたように。
風が生温い。
嫌な感じだ。
とても嫌な感じだ。
…………
俺の不安などまるで気のせいだったと言わんばかりに、カオルは鮮やかに仕事を済ませて帰ってきた。
ただ、一人だった。カオル一人のシルエットが月明かりの中に見えていた。
俺が連れて行くべき人の姿が見えない。
連れ出しに失敗したのか?それとも計画の変更があったのか?それとも・・・
俺の予想はどれもハズレだった。
歩いてきたカオルは実に幸せそうな微笑みを称えていた。
その手に大ぶりのガラス瓶を抱えていた。
中身は・・・何かのホルマリン漬けか?
「ありがとうございました。おかげで無事、彼を連れ出す事が出来ました。」
カオルは微笑みを絶やさずに俺にそう言った。
そして俺は理解した。
嫌な感じはこれだ。
カオルが両手に抱えているガラス瓶。
その中には人間の、男のものと思われる右手首が漬けられていた。
これだ。
これが“彼”だ。
「もう大丈夫よ。・・・あら?そう?おかしな事を言うのね。」
生きているはずがない、喋るはずがない。
そんな手首だけになった“彼”を抱いて、優しく語りかけるカオル。
完全にイカれてやがる。
「わかりますか?」
カオルは言った。
「彼はあそこで実験材料にされました。
毎日毎日、少しずつ体を切り取られ・・・今ではこれだけになってしまいました。
この薬のせいで・・・
人間って、どうしてこんなひどい事が出来るんでしょうね?
私も散々、吸血鬼や化け物と呼ばれましたが、生きている人を戯れに斬り刻むような真似はしませんよ。
わかりますか?
毎日毎日、1ミリずつ、体が無くなっていくんですよ。
死ぬ事も出来ず、意識を失う事も出来ず、毎日毎日、毎日毎日・・・
本当にひどい。
私なんかよりよっぽど化け物ですよ。
人間って。」
軽い嘔吐感が襲ってきた。
俺はタバコに火をつけようとして、やめた。
まだ仕事の途中じゃねぇか。糞、落ち着かねぇ。
カオルは本当にイカれてしまったのだろうか。それともあまりにも人の死に触れすぎて、相手が生きていようが死んでいようが関係無くなってしまったのだろうか。
どちらにせよ、この女は危険だ。
俺は踵を返して歩き出した。
こんな仕事はとっとと終わらせるぜ、ちくしょう。
この組織も血液密輸だけじゃなくいろんなことをしているようだ。
あまり関わらない方がいいだろう。
ちっ、こんな胸糞悪い所からはさっさとおさらばするぜ。
俺は身をかがめて、来た道を音を立てないように引き返した。その俺の後ろをまた音も無く、カオルが付いてきていた。
月明かりが照らしてくれていた。
まるで梟から身を隠して逃げ回る、哀れな鼠のような俺たちを、月だけは優しく、照らし続けてくれていた。
……………
“彼”は無事に指定された病院に着いたらしい。
時間はかかりそうだけど順調に回復している、と嬉しそうに報告するカオルに、俺は苦笑いを返すことしか出来なかった。
あの夜から一週間。少し小雨の降る夜だった。
またカオルはいつの間にか俺の事務所に入り込んできていた。傘も持たずに、それでいて雫一滴にも身体を許さずに雨の夜をくぐり抜けてきたらしい。
怖い女だ、と俺は思った。
「貴方には借りができましたね。」
カオルはそう言うが、報酬以外何も貰う気は無いぜ。これ以上こんな女に関わったらもっと面倒な事に巻き込まれる。
面倒事はごめんだ。
「困りましたね。」
またちっとも困ってない風にカオルは言った。
「元締めからも礼を尽くすようにと言われているのですが・・・。」
カオルは少し楽しそうだった。新しいオモチャでも見つけたような目をしてやがる。
「貴方が望むなら・・・私と共に生きる“永遠”をあげてもいいですよ。」
冗談じゃない。
こんな物騒なプロポーズはNo thank youだ。
丁重にお断りすると、あらあら、と不思議そうな顔をされた。
「欲がないのですね。」
違う、面倒事が嫌いなだけだ。
「珍しい人。」
カオルはころころと明るく笑って見せた。女は表情で別人になるものだ。
あれだけ普通だと感じていたカオルが妙にかわいく、魅力的に見える。ふん、これが男達を籠絡してきた女優の技か。
“組織”の殺し屋でなければ一緒に飲みにでも行っていたかもな。
なんにせよ、おかしな知り合いが出来たモノだ。
殺しの容疑者として警察に突き出したいところだが・・・俺の手に負えるような相手じゃなさそうだ。
俺はタバコに火をつけた。
手を伸ばせばすぐ届くところに居る容疑者。
だがその距離は果てしなく遠い。俺が捕まえるそぶりを見せたところで逆に俺が簡単に消されてしまうだろう。まったく捕まえられる気がしなかった。
まあ、チャンスはそのうち来る。気長に待つとするか。
吐き出した煙の先にカオルの姿がかすんで見えた。
この女だけはどうにも人間らしさを感じない。こんな事は初めてだ。
吸血鬼と呼ばれた女。本当にこの女は人間じゃ無いのかもな。
あまりに馬鹿らしい考えに自分でも笑いがこみ上げてくる。
俺らしくねえな。
いつか・・・・捕まえてやるぜ
俺は天井に煙を吹き上げてカオルに言い放った。
楽しみにしているわ・・・
声が帰ってきた。
視線を降ろしたとき、すでにカオルの姿は無かった。
あとに残るのは静寂と、かすかな残り香だけだ。
しとしとと降り注ぐ雨の音が心を堅く、重くしていく。
そんな闇色の濃い、静かな夜の出来事だった。




