第23章・傷と涙を背負いて進め
ガシャアァンと、ガラスに穴が開いた。
「うおおおおっ!」
手の皮が破けて血がにじみ出るが、構わずに続けて2度、3度拳を振るう。
「やめろっ暮越!」
夜季の言葉も届かず、暮越は窓の外の”じぃ”だけを見ている。
そして、二人の間を隔てる障害物はなくなった。
「お前のせいでタイチが!」
暮越は窓の縁に足をかけ、外に飛び出した。
”じぃ”は深海の底のような瞳でじっと目の前の男を見つめているだけだった。
「消えやがれ……」
一歩踏み込もうとした暮越が、突然のけぞった。背骨に、卓球のラケットが叩きつけられていた。先ほど暮越自身が壁に投げつけたラケットだ。
「邪魔すんな! ヨキ!」
振り返った暮越の顔面に肘が入った。
夜季が素早く足を払い、散らばったガラスの破片の上に二人は倒れてもつれあった。
「余計な邪魔してんじゃねーぞ、ヨキィ!」
「先に邪魔してきたのはてめーだろうが!」
制服が裂け、全身に細かい切り傷ができても夜季はひるまない。ここで暮越を放すわけにはいかない。
「なにやってんだジジィ! さっさと逃げろよ!」
暮越を必死に抑え込みながら叫ぶ。しかし、”じぃ”は動かず、口を開いた。
「暮越よ……」
しわがれてはいるが、重い声だ。
「ワシのことが憎いか?」
「あ……当たり前だ!」
憤怒の形相で暮越が返す。
「お前が書いた小説のせいで……」
「それなら簡単だ」
”じぃ”は平然と言い放った。
「憎め。ワシのことをとことん憎んでしもうて構わん」
「な、なに言ってんだ!? ジジィ!」
「ヨキ。そいつを放してやれ。……全ての始まりがワシにあるのなら、終わりもまたワシで済ませ」
「な……!?」
あっけに取られ、夜季の力が緩む。
「そん代わり、他の連中には手ぇ出すな。ワシのことはいくら殴っても構わん」
自分が犠牲になるつもりだ。
「バカなこと言うな! アンタ、体が弱ってんだろ!?」
「っうおおおおおお!」
突然、暮越が動いた。
説得に夢中になっていた夜季を強引に引き離し、”じぃ”の胸倉をつかむ。
「しまっ……」
「いいんだな? 容赦しねえぞ!」
「……おう。やれ」
暮越の拳が振り上げられる。
「死ね! 唖倉浪才!」
「やめろっ!」
バキッ!
夜季は”じぃ”を突き飛ばし、代わりに暮越の拳を受けた。”じぃ”は衝撃で芝の上に倒れる。
「うっく……。邪魔立てするな、ヨキ」
倒れたまま顔をあげ、”じぃ”が言った。しかし、夜季は暮越の前に立ちふさがったまま動かない。
「どきやがれ、ヨキ。俺もお前には用がない」
「……ワシ一人やられれば済む問題だ。これ以上お前さんは苦しまんでいい」
暮越と”じぃ”が代わる代わる声をかける。だが、それでも夜季は退かない。
「バカ野郎、ジジィ! アンタがやられて解決だぁ? フザケんな!」
「なに……?」
いつもの逆だ。夜季の剣幕に、”じぃ”が押されている。
「アンタがやられれば、スーコが泣くぞ! 悲しむぞ!」
「スーコが……」
雛子の名が出た途端、”じぃ”の目が大きく開かれた。
「あいつ、昨日からずっとアンタのこと心配してたんだ。表面上は明るく振舞ってたが、今この瞬間もアンタのことを考えている。」
「……」
「今日の映画を成功させて、アンタに笑顔で報告する。それがスーコの望みだ。それを……それをアンタが台無しにするつもりか!?」
「っ……!」
「すっこんでろ、ジジィ。……コイツの恨みは俺が引き受ける」
夜季は改めて暮越の目を睨みつける。
「てめぇが……?」
「暮越。このジジィの分も含めて、全部、俺が引き受けた。」
言いながら、地面につばを吐く。唇が切れたせいか、薄く血が滲んでいる。
「お前、もう訳わかんねぇんだろ? 恨みや憎しみ……思い通りにことが進まない苛立ち。色々ありすぎて、どこにぶつけていいかわからねぇんだ。だから、さっき俺に全てを話したんだろ?」
「……」
「俺も……俺もお前も……もう疲れたろう? もう何も考えたくねぇ」
暮越も”じぃ”も、夜季の言葉を黙って聞いている。
「こっからは、何も難しいことはない。俺がお前の怒りの対象だ。お前は俺だけを憎め」
「何を言っとる!? ヨキ、それではワシと同じ……」
「ただし!」
”じぃ”の反論を、力強く遮る。
「俺もただの犠牲になるつもりはない。……暮越。どんな理由があろうと、お前は俺たちの努力を踏みにじろうとした悪だ。俺はお前を許さない」
「……」
「最後の決着だ。これで……」
夜季は再び戦闘の構えをとり、暮越を見据える。
「決着か……」
暮越もまた、拳を固める。
一瞬、”じぃ”には暮越が笑っているように見えた。長い、長い呪縛から解放されたような笑みが。
「いくぞヨキィィ!」
同時に動いた。そしてどちらも防御しなかった。ただひたすら拳を相手に叩きつけることだけに集中していた。鼻血が出て、切り傷が開いても、構わずに殴り続けた。
そして……暮越は泣いていた。
怒りなのか、悲しみなのか……喜びなのか。よくわからない熱情が込み上げ、涙の粒になってあふれ出ていた。泣いたまま、闘っていた。
「おおおおおっ!」
夜季のストレートが、文字通り真っすぐに暮越の顎を射抜いた。食いしばった歯がきしむ音を立て、暮越は後ろに傾いた。
「あっ……ぐぁ……」
そして、ゆっくりと巨体が地に倒れた。
「ハァ、ハァ……」
夜季も今にも倒れそうなほどフラついていた。それでもしっかりと足を奮い立たせた。
「暮越……」
「ぐっハ……ヨキィ……」
倒れたまま暮越は口を開いた。その顔からは憤怒の表情が消えていた。
「重かったろ……俺の恨みの籠ったパンチはよぉ……」
「ああ。重かった」
「それを……お前は全部受け止めた。俺の怒りを……ぜん、ぶ……よぉ」
涙は止まらない。傷を癒すかのように止めどなく溢れ出てくる。
遠くで鐘が鳴る。
「3時か……映画、そろそろ終わりだな」
暮越は涙を隠そうともせずに言う。
「もったいねぇことしたな……俺たち。映画見損なっちまった。……タイチが活躍する映画をよ」
「……」
「ヨキ、最後に一つだけ聞いていいか? お前……映画やってて、……楽しかったか?」
「……」
「どうなんだ」
「ああ。楽しかった。悪ぶってたころより、ずっとな」
夜季がそう答えると、暮越は目を閉じた。
「そうか……」
笑っていた。歪んだ笑みではない。爽やかな風が心の中を吹き渡っている。
「ジジィ。ここまで来たら、せめて俺の絵ぐらい見て行け」
「……そうするかの」
”じぃ”は立ち上がり、夜季とともに歩きだす。
その二人の背中に、暮越は小さくつぶやく。
「……ありがとな」
夜季は振り返らず、右手の親指を立てて見せた。