世界崩壊の始まり9
「へ?」
予想外の展開に、つい気の抜けた声を出してしまう。
『覚えてないのかしら、私のこと』ということは、僕は彼女に会ったことがある? それは、いつ、どこでの話なんだろうか。わからない。眼を閉じて、脳みそをフル回転して記憶を掘り返してみるが、そんな記憶はどこにもみあらない。
そんな馬鹿な、これだけの美少女を、これだけの衝撃を、この僕が忘れるはずがない。
確かに僕は、そこまで物覚えの良い方ではない。理科、社会の暗記系のテストは、覚えるだけだから簡単だ、なんて言う奴の頬を順に引っ叩いてやりたいと思ったこともあるくらいだ。
でも流石に、小学生や中学生の女子で、これだけの逸材を忘れるはずもない。
それじゃあまさか、その言葉は、『幼少期』の事を指しているのだろうか。そうなるとさすがに記憶も定かではないし、その時の僕には、まだ早すぎる感情で、彼女を女性と見れていなかったのかもしれない。だとすれば、思い出すことは不可能だ。
「本当に覚えてないの?」
もの凄い、悪い事をしてしまったかのような罪悪感に包まれる。なんとか弁明を図ろうとするが、上手く舌が回らなく、しどろもどろにただ空回りする。
「あ、えっと、その。だから……」
なんかの間違いではないのだろうか。ひょっとしたら、奇跡的にも同姓同名だったりとかで、日本国内のどこかにいるであろうもう一人の中山田くんと勘違いしているとか。
「覚えてないのね」
ぽつり、と小さな声でつぶやく。
その淋しげな声を聞く限り間違いではないのだろう。
「……――ごめんっ! 本当に何も覚えていないんだ。なんだか、申しわけないけど」
素直に覚えていない事を告げる事で、楽になりたかった。彼女には申し訳ないけれど、思い出せないものは思い出せないのだ。
だけど、本当に不思議でしょうがない。彼女は僕の事を覚えているのなら、そこまで記憶の浅い幼少期のわけではないと思うのだけれど。
そんな風に僕が頭を抱えていると、彼女は、ぽつりぽつり、と喋り始める。
「覚えてないのならしょうがないわね……わかった、話してあげる。あの日は、そうね、今日みたいな土砂降りの雨の日だった。十年前、辺りには何にも無い空き地の隅に置いてあった段ボール。その小さな段ボールの中でうずくまる私を、大きな傘をさして現れたあなたは、優しく抱きかかえて、こう言った。『一緒に帰ろう』……あの言葉にどれだけ助けられたか、いまでも忘れられない。そう、私は、あの時助けてもらった小さな黒猫なの」
「まさか、そんな……」
あの時助けた黒猫なのか。僕に恩返しをする為にわざわざ擬人化してまでここまでずぶ濡れになりながらも会いにきてくれたのか。こんなに大きく美人になって……く、くろねこぉ。
「……って、黒猫なんて段ボールから拾った覚えなんてねーよ!」
そんな面倒な事になると分かりきっている僕が、猫を持ち帰るはずも無い。まあ、持ち帰らなくても図体のでかい黒猫は我が屋に居座り始めたけどね。
「嘘よ」
「うん、知ってるよ!?」
またも、どーよと言わんばかりに胸を張る。いや、そこは、胸を張るタイミングではないって。
とまあ、それにしても素晴らしい身体をしていると思う。胸を張る仕草によって、細身の体のわりに良い感じに膨らむ双子の山が強調されて、ついつい生唾を……じゃなくて。
「そうじゃなくて、その、なんていうか」
「私の名前は、『龍音寺 麗羅』。『龍』の『音』が響く『寺』と書いて、『龍音寺』。『麗』しの『羅』生門
と書いて『麗羅』。好きな食物はシュークリームよ」
僕が、なんて言っていいのか、言いあぐねていると、まるでそういう紹介の仕方で何度も大勢の人に披露してきたのではないかと思えるような堂々とした態度できっぱりと言った。もう、気迫を感じるくらいに。
まあ、名前の最後の方は、確実に紹介の仕方を間違っていると思うし、なんだ、『麗しの羅生門』って。とりあえず近づきたくなくなること間違いないこと請け合いの門だな。
それに、締めが好きな食べ物で、シュークリームって……まあ、おいしいけど。
「えっと、それじゃあ龍音寺、さんで良いのかな」
「ええ。そうね、なにを聞いていたのかわからないけれど、そうよ」
とにかく一言、二言多いやつである。この時点で、僕はこいつに、初対面だろうがなんだろうが、さん付なんていう丁寧な言葉をするのは止めた。
とまあ、ここでまた沈黙が訪れるわけだけれども。
そもそも、なんでこんなところで自己紹介なんてものをしているのか、よくよく考えてみれば不思議な状況でもある。
このまま、何も話さないで、そそくさと帰るのもありかな、と思ったりもしたが、なんとなく抜け出せる隙が見当たらないというか、タイミングがなく、あきらめて動こうとしている足を停止させた。
まあ、まだ雨もわんさか降ってる事だしね。
「その、名前はわかったんだけどさ、一体何してたんだ?」
別に名前を聞きたかったわけでもなかったんだけど、まあ美少女の名前を聞いておいて、特に損をする事はないだろうから良しとしよう。
確かに「お前は一体なんなんだ?」なんて聞かれ方をしたらどう答えて良いのか、僕自身も分からない。
余りにも、いつも通りではない状況に恥ずかしくも動揺していたのかもしれない。
「何、って何が?」
「いや、こんな豪雨の中、一人で、なおかつ傘も雨具も装備してない状態でぼーっと歩いてたら、気になったりするのは……普通だよな」
事の発端は、まずはそこからだ。今もまだ、鳴りやまないヘリコプターのプロペラのような激しい雨音が鳴り響いている。
あまりにも龍音寺が、クエスチョンさながらの表情をしているので、こっちがおかしい事を言ってしまっているんじゃないかと、不安になってくる。いや、可笑しくないよね。
数秒間黙ったまま首を傾げた龍音寺は、すぅっと遠くを見るような目をしてから口を開く。
「普通……そうね、だけれど人それぞれ、『普通』の基準は違うと思うの。たとえば、リンゴは赤い物、と一番最初に思い浮かべる人もいれば、リンゴといえば、薄緑色の物だ、と思い浮かべる人もいる。まあ、この場合、地域柄、職業柄が関係してきてしまうかもしれないのだけれど。こう、一つの物をとって見ても、色々な見方があって、それは限りない可能性や選択肢が広がるわけよね。それこそ人の数ほど考え方の違いがあるのかもしれない。人の数ほどの『普通』。でも、それなら普通って一体何なのかしらね。普通であっても、人によっては普通じゃない。可笑しくもあり、人によっては可笑しくもない。平凡のようで、人によっては平凡でない。なんだかとても矛盾しているようにも思えるわ。と、なると、『普通』という言葉の存在意義すら怪しくなってくるわね。それじゃあ、全てのものが『異色』ということで良いのではないかしら。普通という平均を表すような言葉は無くして、全てが『異色』。『異なる色』。あら、でも、みんながみんな異色を放ってしまっていたら、それがまた『普通』になってしまうのかしら。全てが飛びぬけている、という事は、またそれも平凡になってしまう。難しいわね。中山田くんは、それについてどう思うかしら?」
「あーはい。とりあえず、私が間違えてました。ごめんなさい」
思ってもいなかったマシンガンのように流れ出てきた返答に、返答の言葉が思いつかず、瞬時に降伏することにした。
彼女にとって、今現在も滝のような勢いで降り続ける雨の中、制服でずぶ濡れになりながら散歩する事は、『普通』であり『普通』じゃないようだ。
「それじゃあ、まあ、普通だか、普通じゃないとかそういうのは置いといて、この雨の中散歩でもしてたって事か?」
少し馬鹿にしたような口ぶりに噛み付かれるかと思えば「ええ、そうよ」とあっけらかんと返される。
「ええ、そうよ」
「……なんでまた?」
と、言って後悔した。
また、『なんで、ってなにが? あなたの普通は私の普通とは違うのよ』と同じ事を繰り返されるじゃないかと思ったからだ。
だが、龍音寺は、まだ降り止みそうもない雨の世界に顔を向けて、ぽつりぽつりと喋り始める。
「雨って、気持ちが良いのよ。いいえ、しとしとと降る雨なんかではなくて、今みたいな猛烈な雨を思いっきり浴びると、身体の奥底にある汚いものが洗い流れるようで、気持ちが良いのよ」
今までの喋り方とは打って変わったように、自分自身に問いかけているような、何か憂いを帯びた、そんな喋り方でゆっくりと語り始める。
「……気付いているかもしれないけれど、私、まだこっちに引っ越してきたばかりで、この街の地理も詳しくないものだから、探索も兼ねて散歩をしようと思っていたの。それに、今日はなんだか雨が降り出しそうな気がしてたから」
―――だから、外に出たの。
と、龍音寺は言う。
雨が降り出しそうなら、普通なら外に出るのが億劫になったりするものだけれど、もちろん僕みたいな面倒くさがりなタイプの人間がそれに該当するんだろうけど、どうやら龍音寺は全く逆になるみたいだ。
雨が降り出しそうだから。全身ずぶ濡れになれるから。それによって気持ち良くなれるから。
だから、外に出た。
雨に濡れて気分が良くなる、というのはなんとなくわからないでもない。
小さい頃は長靴を履いて、びしょ濡れになろうが構わず外に出て遊んでいた頃もあった。そんな気分と同じようなものなんだろうか。
「でも、わざわざ制服を着て濡れる事はないんじゃないか? それ、今着ているのって、前の学校の制服だろ。まあ、もう使わないから必要ないのかもしれないけど」
だからといって、わざわざ雨の日に着てずぶ濡れにしてしまうのも変じゃないだろうか。それなりに、前の学校での思い出も詰まっているだろうし。まあ、濡らしても良い服を着て、雨に打たれるっていうのも修行僧が滝に打たれるわけでもないのだから、なんだか可笑しな話だけれども。
「―――だから、濡らすのよ」
雨の世界に向けていた顔がこちらに向き直る。
「汚い物、いらない物、捨てたい物、見たくない物。肌に当たると、少し痛みが走る位の、大粒で力強い雨が、そんな『物』全部を綺麗さっぱり洗い流してくれる。私の心の奥底にある嫌なものを、全部」
「それってどういう……」
そう言いかけて、言葉が詰まった。
最初は、龍音寺の、彼女の言っている言葉が、何を伝えようとしているのか理解できなかった。だがそれは、人形のような無感情な顔が、一瞬だけ、悲しみを思わせる顔を見せた所で、なんとなく気づいてしまった。
すぐにまた、無感情な、作り物のような美しい顔に戻ってしまったので、見間違いだったのかと疑ってしまったが。たぶん、きっとそうなのだろう。
―――前の学校の制服。
確かにそれには、前の学校での思い出がたくさん詰まっているのかもしれない。どれくらいの期間そこにいたのか、それは分からないけれど、きっといくつかの思い出が詰まっている。
だが、思い出は綺麗な物ばかりではない。心のアルバムに入れるような綺麗な物ばかりじゃない。
忘れてしまいたい。捨ててしまいたい。消し去ってしまいたい。雨に、流してしまいたい。
そんな気持ちから、雨が降るかもしれないと感じていながら、わざわざ前の学校の制服を着て、雨の中、身を清めるように、曇天の空から落ちてくる大粒の雨粒を、その身に受けていたのかもしれない。
でも一体何をそんなに洗い流したかったのか。
なんて言っていいのか、言いあぐねていると、続けて龍音寺は口を開く。
「私の父は、転勤がよくある仕事なのよ。いわゆる転勤族というものね。小学生の低学年の辺りから多い時は、年に数回。どんな仕事をしているのか、特に知るつもりもないから知らないけれど、その度に、住む場所は変わり、通う学校も変わった。そして、その度に、私は初対面の同級生であろうみんなの前で、自己紹介をしたわ」
先ほどの自己紹介の、堂々とした様のワケがわかったような気がする。初対面の三、四十人の目の前で、自己紹介をする事が、どれだけ恐怖な事なのか、どちらかというと人見知りな僕には、想像するだけでぞっとするものだ。
だけど、何度も経験した歴戦の戦士さながらの龍音寺にとっては、大勢の前で自己紹介など朝飯前なんだろう。
いや、朝飯前に、なったのだろう。
いや、ならざるを得なかったのだろう。
「初めは、環境の変化についていけなくて、色々戸惑うこともあったけれど、そこは慣れなのかしら歳が経つごとに、数を重ねるごとに、いきなりの環境の変化にも順応できるようになったわ。自己紹介ももちろん。積極的に、新しい空間に対応できるように、みんなと仲良くもしたわ。少なくとも私はそう思ってる。どこの学校でも、そんな私を心良く受け入れてくれた。ふふ、それなりに容姿が良かったおかげかもしれないわね。だから、環境が変わろうとも、人が変わろうとも、私は上手くやっていけた」
それなりに容姿が良かった、という控えめな自画自賛の部分は、物が物だけになんの反論もないが、それ以外の部分は本当なんだろうか、と疑ってしまう。まあ、出会ってまだ数分といったところなので、彼女の人間性など分かるわけもないので、疑ってしまうのも妥当な話だろう。
「だけれど、ひとつだけ。どうしても慣れてしまわなかった事があったわ」
「……それは?」
雨がいっそう強くなったのか、屋根を打つ雨音に激しさが増して、ちょっとしたマシンガン音のようにも聞こえる。イタチの最後っ屁なのか、止む一歩手前のようにも感じるが、雨はなかなか止まない。
激しい雨音に囲まれる、今、この瞬間。豪雨が閉ざした僕と彼女だけの空間のような感じがして、異様な空気感を感じてしまう。
一瞬の沈黙が訪れ、それはすぐに通り過ぎる。
「泣いてたの」
「え?」
「泣いてたのよ。私が、転校すると知った、数か月だけ一緒の時間を過ごしただけのみんな。私の為に泣いてたの」
それは、凄く心温まる話なんじゃないだろうか。
たったの数カ月、同じクラスの中で過ごしただけで、皆が涙を流してくれるなんて嬉しいものじゃないか、と思うのとは逆に、龍音寺は眉間にしわを寄せて喋り続ける。
「私のせいで、流させてしまった涙。それが何よりも辛かった」
無表情の鉄仮面にヒビが入ってしまったように、辛そうに喋る。
「目を真っ赤にして泣く子、行かないでと泣き叫ぶ子、私はひたすら、すでに常套句になっていた言葉を言うしかなかった。『また、いつか会おうね』ってね。心の内側から浮き上がる罪悪感に苛まれながらも、ひたすらそう言い続けたわ」
「でも、それは、しょうがないんじゃ」
親の転勤でやむを得ずなんだし、彼女自身が罪悪感を感じる必要なんてないんじゃないか。
「そうね、しょうがない事よ。まだ今よりももっと子供の頃の私には、本当にどうしようもなくて、しょうがない事。でも、私の事を慕ってくれた皆に無駄な涙を流してしまった事は、何よりの事実でそれは罪。本当は、そんなものはいらないはず」
「罪って……」
「だから私は―――私でいる事を止めた」
「私でいる事を止めた?」
「そう、私は、私でいる事を止めたのよ」
噛みしめるように、二度繰り返して同じ事を言う。
「どうすれば涙を流させないで済むのか、どうすれば悲しい思いをさせないで、去る事が出来るのか。答えは簡単だった」
「一体何を言って……」
「あれは、何度目の転校だったかしら」
僕の言葉を遮って、宙を見上げる。拙い記憶を辿るように。
「新しい学校に転入が決まり、新しいクラスメイトに、すでに慣れてしまった自己紹介を済ませてから、周囲の視線を感じながら席に着いたわ。休み時間になると、そんな私の廻りにクラスの皆が集まって、新しいクラスメイトの私を歓迎してくれたわ。男子、女子、関係無しに興味津々といった顔で、楽しそうに、嬉しそうに、私に話しかけてくれた。そんな状況が、楽しくて、嬉しくて、だけど私は―――」
その刹那。
龍音寺の瞳が、怪しく光る。
禍々しく、深い深い、黒色に。
「―――そんなクラスメイトを『毒』で追い払い、『嘘』で欺いた。何の理由も無く、ただ私の我儘で」